プラトン『法律』第七巻メモ

プラトン『法律』(プラトン全集 (岩波) 第13巻) 第七巻を読んだときのメモです。

第七巻は,子供の養育・教育という話がメインになっていると思います。右手と左手を同じように使えるようにすべし,とか,戦争に関わることでもできるだけ男女同じことを教えるべき,というのは,ある意味動物として冷静に人間を見ていたプラトンの一面が垣間見られる印象で,回り回って割と現代的という印象を持つところです (『国家』篇でもそうでしたが)。
また合間には,法律と慣習・しきたりの関係や,神と科学の両立?の話などかなり興味深いことが語られています。

以下読書時のメモです (2つに分けたくなかったので,かなり長くなってしまいました)。

アテナイからの客人「さて,男女の子供たちが生まれたので,そのつぎには,養育と教育とを語るのが,わたしたちにとって最も正しいことでしょう。
この問題は,語らないで済ますことはとうていできませんし,そうかといって語るとすれば,教えるとか勧告するとかいう形を取る方が,法律で規定するよりも,適当なようにわたしたちには思われます。なぜなら,私的な家庭生活には,人目につかない多くの細々した事柄が生じ,これらは個人の苦痛や快楽に左右されて,立法者の勧めるところに反するものとなるため,市民たちの性格を種々雑多な,互いに似ていないものにしてしまいやすいのです。しかしこのことは,国家にとって悪なのです。」(788B)

養育・教育がテーマとなるようですが,その基本的な思想は,やはり市民の性格・性質を同質なものにするべき,ということのようですね。これは第6巻で言われた結婚の問題などとも通じています。

アテナイからの客人「それなら,身体が最も多くの栄養を取って大きくなるとき,そのときに最も多くの運動を必要とするわけです。」
クレイニアス「何ですって,あなた。生まれたばかりのごく幼いものたちに,わたしたちは最も多くの運動を課そうというのですか。」
アテナイからの客人「いや,そうではありません。それよりもっと前に,母親の胎内で養われているときにです。」
クレイニアス「これは何ということを,あなた。胎児にとおっしゃるのですか。」

この前から,小さい頃の成長は急激であるということは言われていたのですが,さらにアテナイからの客人は,母親の胎内にいる時からそれは始まっていると言い,運動を与えることで「健康と美,その上,力までも」(789D) 与えることができると言います。鳥の雛を育てる例も言われますが (戦わせるため?),自力であろうと他力であろうと運動が影響を与えると考えていたようです。
生まれる前からクラシック音楽を聴かせると良い,などよく聞きますが,プラトンの時代でもそういう考えがあったのは新鮮です (とはいえ運動を主眼としていますが)。

アテナイからの客人「国家の中で主人で自由人である性格の持主は,それを聞けば次のような正しい認識におそらく到達するでしょう。すなわち,国家において個人生活が正しく規制されないかぎり,公の生活にとって確固とした法律が制定されることを期待しても無駄であろうということです。そしてこのことを理解した人は,さきほど述べられた諸規則を自ら法律として用い,そうすることによって,自分の家庭も国家も,ともに立派に整え,幸福に暮らすことでしょう。」
クレイニアス「まったく,もっともなお言葉です。」(790B)

色々養育について語られますが,違反したら罰則を与えるような法律を作ってもどうせ守られないだろうと上記引用の前に言われます。家庭内のことについては,制定して守らせるのではなく,言い聞かせて自主的に守らせる,というスタンスのようです。これは第6巻でも似たようなことが言われていました。
まあ国家の繁栄を願わないとしても,子供の健やかな成長を望まない親はいないはずなので,妥当だという気がします。

アテナイからの客人「ご承知のように,母親がなかなか寝つかない子供を寝つかせようとするときには,彼らに静止をではなく反対に運動を,――腕に抱いて絶えずゆさぶってやるのです――,沈黙をではなく歌を与え,そしてバッコスの狂気にとりつかれた人びとを癒すように,あの踊りと歌との結合という形での運動を治療に用いて,子供たちに文字通り笛の音による呪(まじな)いをかけてしまうのです。」(790D)

子供が泣いてしまって寝付かない時にあやす光景は,今も2,400年前も全く変わらないようですね。
ここで,なぜ小さい子供がぐずってしまうのか?というのをいきなり分析しだします。いかにもプラトンらしい面白いところです。詳細は割愛しますが,「元にあるのは一種の恐れで,外から与えられた運動が恐怖と狂気という内なる運動に打ち勝ち,心臓の苦しい鼓動を沈めて,魂に静けさと安らぎを生じせしめる」というようなことが言われます。勿論科学的ではなく経験的なものだと思いますが,一定の尤もさも感じます。

アテナイからの客人「ではどうでしょう。もしこの3年間,あらゆる手段を尽くして,わたしたちの子供が,できるだけ悲しみや恐怖やあらゆる苦しみを経験することのないように計らうならば,この間に子供の心をより快活な,明朗なものに育てあげるとは思われないでしょうか。」
クレイニアス「それはもちろんです。そして,あなた,もし彼に多くの快楽を与えてやれば,とくにそうすることができるでしょう。」
アテナイからの客人「これは驚きました。そこまではもうわたしは,クレイニアスについてゆけません。じつは,そのような行為が,わたしたちにとって,すべてのなかで最大の破滅なのです。」(792B)

子供を乱暴に押さえつけるような養育をすると,自由人らしくない偏屈な人間になると言われますが,しかし多くの快楽を与えるというクレイニアスの言葉には真向から反対します。まあこれは予想できたことですが,ではどうすべきなのか?という問いには,「中間」を目指すべきだとこの後で言われます。これは誰にでも当てはまるが,特に生まれたばかりの赤ん坊やそれ以前の妊婦にとっては重要ということが言われます。

アテナイからの客人「わたしたちがいま問題にしているこれらの規則はすべて,世間の人びとが書かれざる掟と呼んでいるものだということです。そして父祖の方と彼らが呼んでいるものは,このようなものの総体に他なりません。さらに,さきほどわたしたちが付け加えた言葉,つまり,それらを法律と名づけるべきではないが,それらに言及せずに済ませてもならないという言葉は正しかったのです。なぜなら,これらの規則は国制全体の紐帯であり,すべての,すでに文字に書かれ,交付されている法律と,将来成文化されるであろう法律との中間にあって,文字どおり祖先伝来の,すこぶる古い掟とも言うべきものです。ですから,それらが立派に定められ,慣習となるならば,それまでに書き記された法律をまったく安全に包み護る役をしますが,もしそれらが誤って正しい道から外れると,ちょうど大工の建てた建物の支柱が中心から外れたときのように,すべてを崩れさせ,重なり合って倒れさせるのです。」(793A)

養育の話題は続いていますが,その中で唐突に語られます。話の筋と関係ないところにいきなりプラトンの本音 (のようなもの) が出てくる,というのはプラトン対話篇あるあるですね。
プラトンの法律観がよく表れていると思います。それは,『国家』篇や『政治家』篇よりも現実的になって,法律の必要性を認識したとしても,やはり書かれていて安定した法律が全てではなく,書かれざる「掟」「慣習」「しきたり」といったものが「紐帯」となって,より「法」として良いものとなっていく,ということだと思います。何となくイギリスのような法律観という気もします。
では「掟」「慣習」「しきたり」といったものの正当性をどう判断し行動すればよいのか?とも思います。法律であれば,立法府が承認し,行政が執行し,裁判所が判断する,ということになると思いますが。そこは,行政にせよ個人にせよ,「倫理」とか「道徳」ということになるのでしょうか。そう考えると,やはり「哲人政治」の要素が出てきますね。
国民が法を定める,という民主主義で,ともすると法律さえ守れば何をしてもよい,となりがちな面の弱点をカバーするには,法を守るという前提条件を守った上で,行政や個人が倫理的に行動する,ということが必要なのかもしれません。…こう書くと至極当たり前のことですが(汗)。

アテナイからの客人「ところで,6歳以後は男女を別々にすべきです。――男の子は男の子と,同様に女の子は女の子同士で,時を過ごさせます――。だが,どちらも学習に向かわせなければなりません。男の子は,馬術,弓,投槍,石投げの教師のもとへ行かせますが,女の子も,もし彼女たちが同意するならば,これらのことを学ぶだけはさせるのがよいでしょう,とくに槍と楯の使用に関してはね。」(794C)
アテナイからの客人「人びとの考えでは,わたしたちの手に関するかぎり,右と左とではすべての行動において生まれつき相違があるとされています。だがそれでいて,足や下肢に関しては,その働きに何の差異も見出されていません。わたしたちは誰も,乳母や母親の愚かさのために,手がいわば片ちんばになってしまったのです。なぜなら,自然の能力から言えば両の手足はほとんど等しいのですが,わたしたちがそれらを正しく用いないで,習慣によって違ったものにしてしまったのですから。」(794D)

どちらとは書かれていませんが,現代でも基本的に右利きの人が多いと思われるので,それは昔からそうだったのですね。それに対して,自然本来では右と左は差がないので,同じように使えるべき,というのは,ダイバーシティ尊重というよりは,科学的・生物学的な見方という感じがします。

その後,学習は身体に関する体育と,魂をよくするための音楽・芸術に分かれ,さらに体育は,踊りとレスリングに分かれる…ということが言われ説明があります。

アテナイからの客人「ひどく変った耳馴れないことというものは,語る側も聞く側も充分な注意を払わなければなりませんし,いまの場合はとくにそうなのです。というのは,わたしは,これからお話しすることを口にするのがためらわれるのですが,何とか勇気を出して,怯まないようにしましょう。」
クレイニアス「何のことを言っておられるのですか,あなた。」(797A)

アテナイからの客人が何かひどく逡巡していますが,以下のことが言われます。

アテナイからの客人「同じ子供たちが,同じ仕かたで,同じようにして,つねに同じ遊びをし,同じ玩具を喜ぶようにすれば,真剣な事柄に関する規則も,変らないでいることが可能でしょう。しかしもし,これらの遊びが動かされ,新しくされ,絶えずさまざまの変化をうけて,子供たちが同じものを好ましいとはけっして言わないならば,そして自分たちの身のこなしや持ちものについても,何が美しく何が醜いかという一致した規準を持たず,むしろつねに何か新しいものを作りだし,形,色その他において従来とは違ったものを導入する人間がとくに尊重されるならば,このような人間以上の悪疫は国家にとって存しない,と言っても過言ではありますまい。というのは,彼はそれと気づかれずに若い者たちの性格を変え,彼らに古いものを軽蔑させ,新しいものを尊重させるからです。」(797B)

遊びやファッションについて,新しいものを取り入れると,古いものを軽蔑することになるからいけないと。そんな無茶苦茶な,という感じですが,既に最善の状態である,という認識だと思われるので,まあ仕方ないところなのでしょうか。アテナイからの客人に随分と躊躇させていたので,プラトンとしても突拍子のないことだという自覚があったのだと思われます。
復古的な,または例えばゲームに否定的な日本の一部では,こういう考え方に親和性が高いと思わなくもありませんが。
例えば将棋,サッカー,スマートフォンが出てきても,ここで建てようとしているクレイニアスの国では,それを受け入れないということになるのでしょうか。

それはともかく,プラトンがそう考えた理由としては,以下のようなものがあるようです。

アテナイからの客人「どの立法者も,先に言ったように,たとえ子供たちの遊びを変化させても,要するに遊びであって,それから最も重大で真剣な害悪が生じるとは考えていないのです。ですから彼らは,変化を防がないで,むしろ変化に屈し,追随しているのです。そして彼らは,次のことを考慮にいれていないのです。つまり,遊びに変化を持ち込む子供たちは,以前の世代とは違った人間になり,別の人間になるがゆえに別の生活を求め,別の生活を求めるがゆえに違ったしきたりや法律を欲するようになる,ということをです。そしてその結果として,いま言われた,国家にとっての最大の悪が訪れるであろうということを,彼らは誰ひとりとして恐れていないのです。」(798B)

遊びが子供たちの思考・考え方に与える影響というのは軽視されがちだが大きいものだ,というのは同意です。
何かしら変化があれば人も変わり,それで法律に適応しなくなることを恐れた,というのは,ある法律の立法者としては尤もな懸念にも思えてきます。それが養育の場面でも言われたように,影響を受けやすい子供であればなおさらのことかもしれません。ただ,時間的にも長い目で見れば,人の生活は外的な要因によって変わることがあり,そのために法律も変わるべきだとは自分は思います。でないと立法者がいる意味がありません。
まあそれにしても頭が固すぎるとは思いますが。やはり,変化を受け入れるか,それとも法律 (理想) が上か,ということにどうしても帰着してしまうように思われます。

アテナイからの客人「わたしたちの国の子供たちが踊りと歌とにおいて別の作品 (模倣) に触れたいという欲望を持たないように,また誰かがさまざまなたのしみを提供して,彼らを誘惑することのないように,あらゆる工夫をこらさねばならない,とわたしたちは言うのではありませんか。」
クレイニアス「ほんとうにおっしゃるとおりです。」(798E)

アテナイからの客人「(引用註:その目的のためには) すべての踊り,すべての歌を,神に捧げられた聖なるものとするということです。それにはまず祭礼を整えるべきで,一年を通じていかなる祭礼を,いつ,そしてどの神,神々の子およびダイモーンのために行うべきかの暦をつくるのです。」(799A)

アテナイからの客人「何ぴとも,公の神聖な歌や若者たちのすべての踊りに違反してうたったり,踊りの動作をしたりしてはならない。これは他のどんな法律に違反してもならないのと同様である。そしてこれに従う者は罰を免れるが,従わない者は,いま述べたように,護法官並びに男女の神官がこれを懲らしめるものとする。」(800A)

歌や踊りについてですが,それは優れたまたは劣った人間の在り方を模倣するものであるので,前に挙げた遊びと同様に好き勝手行わせるわけにはいかない,ということで引用のようなことが言われます。そのためには祭礼として許可する歌や踊りを定め,違反したものは罰されたり追放されたりするようです。
これもトンデモな説という感じを受けますが,「伝統」というものはこのようにして成り立ち,受け継がれていくのかもしれない,とも思います。

アテナイからの客人「詩人は国家が認める合法性や正当性,美や善に反しては何ひとつ作ってはならないし,またその作品を,この仕事のために任命された審査員や護法官たちに見せて承認を得ないうちは,いかなる個人にも見せてはならないということです。」(801D)

前に言われていた歌と踊りの話の続きの中で語られますが,完全に「表現の自由」がないですね。全ての歌や踊りは,神に捧げられた神聖なもの,とすぐ前に言われていたわけですが,ここではそれが,(詩人に対してではありますが) 国家の認可ということになっています。この辺りは今の価値観からするとコメントをするのもバカバカしいといったところですが,じゃあそれを何故プラトンが敢えてアテナイからの客人に言わしめたのか?とも思います。
詩人の (政治的な?) 力というものが,それだけ大きかったということなのかもしれません。今で言えば新聞のようなものだったのでしょうか?元々,当時の詩人というものは,神々の言葉を人々に伝えるもの,というような話は『イオン』などでも言われていたと思います。本当に神々の言葉を伝えるのなら,ここまでの下りによると寧ろ国家としては歓迎しそうなものですが,結局国が認めるものしか許可しないということなら,国家は神々を恣意的に利用しているということにしかならない,とも思えます。

アテナイからの客人「女性にふさわしい歌と男性のそれとを,何らかの型によって区別し,それらに適したハーモニーとリズムを与えなければなりません。
(中略)女性にふさわしい歌は,男女の自然的性の相違そのものをもとにして,それによって男性の歌との区別を明らかにせねばなりません。たしかに,豁達さと勇敢さへの傾向は男性的というべきですし,礼儀正しさと慎み深さへの傾向は法律の上でも,理論の上でも,とりわけ女性的だとみなされるべきです。」(802D)

神々に捧げる賛歌・頌歌の話題の一節です。そもそも声の質が違うので,男女で歌の傾向が違うのは分かりますが,そこを (事実かどうかはともかく) 男性は豁達さや勇敢さ,女性は礼儀正しさや慎み深さ,という男女間の性質 (性格) の違いに帰そうとするのが面白いところで,現代ではどうでしょうか。それでも「男女の自然的性の相違そのものをもとにして」という注意深い言葉は,プラトンが差別的な思想を持っていたわけではないことを感じさせます。

アテナイからの客人「わたしの言う意味は,真剣な事柄については真剣であるべきだが,真剣でない事柄については真剣であるなということ,そしてほんらい神はすべての浄福な真剣さに値するものであるが,人間の方は,前にも述べましたが,神の玩具としてつくられたものであり,そしてじっさいこのことがまさに,人間にとって最善のことなのだということです。」(803C)
アテナイからの客人「ですから,各人が,最も長く,最も善く過ごさなければならないのは,平和の暮しなのです。では,正しい生き方とは何でしょうか。一種の遊びを楽しみながら,つまり犠牲を捧げたり歌ったり踊ったりしながら,わたしたちは,生きるべきではないでしょうか。そうすれば,神の加護を得ることができますし,敵を防ぎ,戦っては勝利を収めることができるのです。」(803D)

急に話が脇にそれて,第一巻で言われた「人間は神の操り人形」論への言及とともに,戦争ではなく,遊びを楽しみながら平和に暮らすべし,ということが言われます。プラトンの最晩年に書かれた本対話篇ですが,プラトンの波乱の人生に基づいた実感なのでしょうか。
それと,そのように神にすべてを投げ出した,他力的な考えだからこそ,ここまで言われてきたように,犠牲を捧げる儀式や神々への賛歌などは国家として明確に定めなければならない,ということなのだろうか,と思いました。そう考えると,国家というより宗教という気もしますが,そもそも国家と宗教の違いとは何か?とも思います。
勿論全然違いますが,ここまで言われてきたものについては,宗教,また法律は教義,と置き換えてもあまり違和感がないようにも思います。また現代でも国家というのは,多かれ少なかれ宗教の影響を受けていると思われます。
まあなんにせよ,この話題が,この『法律』篇で,プラトンがアテナイからの客人に言わせた話,というところに深い意味があるように思います。

アテナイからの客人「子供は,父親が希望する者のみが通学し,希望しない者は教育を免除されるというのではなく,俗に言う「猫も杓子も」できるかぎり強制的に教育を受けなければなりません。子供は両親のものであるよりも国家のものであるのですから。また,このわたしの法律では,女性に対しても男性に対するのとまったく同じことが要求され,女性も男性と同じ訓練を受けるべきだとされるでしょう。」(804D)

義務教育について考えられていたようです。「子供は両親のものであるよりも国家のもの」という一文が不気味ですが…まあこの考え自体は『国家』篇から言われていることではあります。

アテナイからの客人「すべての男女が心をあわせ全力を傾けて,同じ仕事を遂行するのでないということは,何よりも愚かなことである,とわたしは主張します。ほとんどすべての国は,こうして同じ経費と労力をもって,ほんらいはいまの二倍であり得るのに,実際はほんらいの力の半分しか発揮していませんし,将来もそういうことになります。だがこれはたしかに,立法者にとって驚くべき過ちだということになるでしょう。」(805A)

当時でも狩りをしたり戦争に行ったりする女性がいる種族 (サウロマタイ人) を引き合いに出して,上記のようなことが言われます。男女を区別しない,ということも『国家』篇から言われていたことではありますが,ここでの言明は非常に先進的に思えます。かつ,物事を根本的に考えるプラトンにとっては当然なのだろうとも思います。
特に後半の「ほんらいはいまの二倍であり得るのに,実際はほんらいの力の半分しか発揮していません」という言葉は,女性が男性と平等に活躍していれば GDP がもっと増えるはず,みたいな最近ネットのどこかで見た意見と同じです。

ここからは (疲れてきたせいか) メモした部分が少ないので章ごとに見ていくことにします。

(第13章)

生活必需品は支給され,奴隷を使え,食事も用意されているような生活をする人は,家畜のように太って生き,苦労を厭わない他の動物の餌食になるしかないのでしょうか?いや,そうではなく,ひたすら身体と徳の育成をするべきだと。また,睡眠は必要最小限にしろと。

アテナイからの客人「睡眠を取りすぎることはわたしたちの身体にも魂にも,またこれらすべての公私の活動にも,ほんらい適当でないのです。じっさい,誰でも眠っているあいだは何の価値もなく,屍も同然です。」(808B)

(第14章)

子供の教育と罰,学ぶべき内容について。特に読み書きと竪琴について。

アテナイからの客人「これらの作品の学習について言いますと,多くのこのような人びとによって残された作品のなかには,わたしたちに危険なものがあります。」(810B)

過去に作られたものには,国家にとって有害なものがあると。その回答が次に言われるということで,何となく流れ的には,国家篇にあったように,北朝鮮を連想させるような言論統制的なものが言われるのかと思ったのですが…。

(第15章)

アテナイからの客人「私たちが,明け方からこれまでつづけてきた言論の跡を振り返ってみますと,――わたしたちはどうも神的な霊感に恵まれなかったわけではないようにみえますが―,それがわたしには,一種の詩作にまったくよく似た形で語られたように思われました。」(811C)

ということで,(省略したので分かりづらいですが) 本対話篇でここまで語られたことがお手本であり,これ以上のものはない,と言われます。
正直,ちょっと何を言っているのか分からない,という感じですが。もっと有体に言えば,「私の書いた対話篇を読め!」とプラトンが言っているということでしょうか。

(第16章)
竪琴の教師,教え方について。

(第17章)
体育で教えるべきこと…本章序盤で言われた体育の内容と,中盤で言われた男女を区別しないという内容の復習のようなもの。

(第18章)
踊りについて。2つに分ける:戦闘の踊り=ピュリケー(勇敢な魂を表す)と,平和の踊り=エンメレイア(節度ある魂を表す)。戦闘の踊りの説明は面白い。

(第19章)
喜劇と悲劇について:喜劇については物真似の劇という位置づけらしい。
また悲劇については,異国の悲劇作家に以下のように語るという場面が仮想されます。

アテナイからの客人「「おお,異国の人びとのなかで最も優れた方々よ,わたしたちは自分たち自身が悲劇の作者であり,しかもできるかぎり最も美しく,最も優れた悲劇の作者なのです。じっさい,わたしたちの全国家体制は,最も美しく,最も優れた人生の似姿として構成されたものであり,そしてこれこそまことに,最も真実な悲劇であると,わたしたちは主張します。ですから,あなた方が作者であるように,わたしたちもまた同じ種類のものの作者であり,しかも,最も美しいドラマの制作者かつ役者として,わたしたちはあなた方の競争相手なのです。そしてこのドラマは,もともと真の法律だけが作りあげることができるものなのだと,わたしたちは信じています。」」(817B)

比喩なのかもしれませんが,この対話自体が悲劇なのだと。この後,その相手の悲劇作家の作品が優れていたとしても,国家にふさわしいと役人が判断しなければ上演は認められない,ともクギを差します。

(第20章)
残りの3つの学問がある,と言われ,それは(1)計算と数,(2)線,面,立体の測定,(3)軌道を運行する諸星相互の関係に関するもの,と言われます。
ただ,それぞれの,どうしても必要なもののみを学べばよいと。他方,すべてを詳細にわたって究めるのは,「夜明け前の会議」の会員でよい,とも(これは傍注より。12巻に出てくるらしい)。

また「神的必然」という言葉が出てきます。「神でさえ必然と戦う姿は見られない」(818B) とも言われます (註によるとシモニデスの言葉らしい)。今で言えばこれは自然科学,または物理法則のことを言っているように思えます。何となくちょっと嬉しくなってくる流れです。

クレイニアス「では,あなた,これらの学問の持つ,人間的でない神的必然とはどんなものなのですか。」
アテナイからの客人「わたしの見るところでは,その必然というのは,それを実践することなしに,あるいはまたそれについてまったく無知であっては,神もダイモーンも半神も,人間に対して責任をもって人間世界を監督することができないようなものです。1も2も3も知らず,一般に奇数と偶数の区別もできず,数を数えることもまったく知らず,夜と昼とを数え分けることもできず,月や太陽や星の運行についても無知であるならば,そのような人はとうてい神的人間にはなれないでしょう。ですから,最高の学問についていささかなりと知識を得たいとする人にとって,すべてこれらの学問が不可欠であると考えないのは,この上なく愚かなことです。」(818B)

神が自然科学について全能である…というより,自然科学について全能なのが神(的)である,ということが言われていると思います。
これは面白いと思います。神というものが,自然科学とは無関係な存在なのではなく,自然科学と同じフィールドに立っていて,それを観測できる者というイメージが湧きます。
プラトンが宗教を作ったら,教義は自然科学になったのかもしれません。或いは,自然科学を含む意味での哲学でしょうか。

(第21章)
3つの学問のうち(1)計算と数,(2)線,面,立体の測定,について子供たちに教えるべきだ,ということが言われます。
その中で,線は線と,面は面と,立体は立体と,通約可能であるが,別々のものは通約可能ではない…これを多くのギリシア人は知らないが,それは恥ずべきことである,ということが言われます。
「通約可能」という意味がよく分かりませんが,例えばある線分の長さが2倍である場合に,その線分による面の大きさは2倍ではなくて4倍で,その線分による立体の大きさも2倍ではなくて8倍になるので,線分と面と立体は通約可能でない,というような感じでしょうか。
そういえば『メノン』で,ソクラテスが召使に出した問いで,ある正方形がある場合に,面積が2倍になるような1辺の長さを答えさせる場面がありました。

(第22章)
3つの学問のうち(3)軌道を運行する諸星相互の関係に関するもの,つまり天文学について。何を学ばせるか…という話になるかと思いきや,ある意味割と衝撃的なことをアテナイからの客人は口にします。

アテナイからの客人「わたしたちのところでは一般に,最高の神と全宇宙とを探究したり,その原因を究めることに忙殺されたりしてはならない――それは神を冒涜することであるから――と言われていますが,じつはそれと正反対のことが正しいように思われます。」
クレイニアス「それはどういう意味でしょう。」
アテナイからの客人「わたしの言うことは逆説的で,老人にはふさわしくないと思う人もあるでしょう。しかしもし誰かが,ある学問を美しく真実であり,国家にとって有益で,神にとってまったく好ましいとみなしている場合,それを言わないでおくことは,いかなる意味でも不可能です。」(821A)

まさに罪状が神を冒涜したということでソクラテスが処刑された当時でもそうだと思いますし,その後長い時代でも,キリスト教世界のヨーロッパであれば,間違いなく宗教裁判で死刑になっていた (そして本対話篇は出版はされなかった) でしょう。少し前の「神的必然」とも当然つながりますが,裏を返せば,当時としては先進的だったと思えます。

アテナイからの客人「ですから,メギロスにクレイニアス,まさにこういう理由で,わたしはいま,わたしたちの市民や若者たちが,天の神々についてそれらのことすべてを学ばなければならないと主張するのです。神々について冒涜的な言辞を弄せず,犠牲を捧げ敬虔な祈りをあげる際に,いつも神を敬う言葉を口にすることができるところまではね。」(821D)

それでも,確かにこれまでずっと神を祭り犠牲を捧げると言ってきていて,神を軽視するわけではありませんでした。いや寧ろ,まさにそのためにこそ,天文学つまり科学を学ぶべきであるとここで言っています。これも唸るところです。
普通は逆だと思いますよね…科学とか何だか分からないので助けて,というのが神への祈りだと思ってしまうところですが (私は宗教の信仰者ではないと思うのでどうしても分からないところはありますが)。他方で現代では科学を全く無視することは到底ありえません。なので科学と神を同じ方向に見ているというか,科学と宗教が対立するわけではないというのは,非常に先進的で,宗教対立や宗教と科学の対立が続く現代においても有効な見方であるように思えます。

アテナイからの客人「最善なる人びとよ,月,太陽,その他の星が彷徨うものだというこの考えは,正しくはないのです。その正反対が本当です,――これらの天体のおのおのは同じ軌道を回転しており,いくつかの軌道を通るように見えますが,じつは多数のではなく,つねに一つの軌道を回転しているのです――,そしてまたそれらのうち最も速いものが,間違って最も遅いと思われ,最も遅いものが最も速いとみなされています。」(822A)

太陽ではなく地球が回っている,とは考えられていなかったことは分かりますが,速いものが遅い,遅いものが速い,というのはよく分かりません。ただ,地球以外が回っているというだけでは説明がつかないことが分かっていたのだろう,という含みは感じられます。

(23章)
狩猟について。人間の狩り (つまり戦争や略奪など) も含む。
(法律にすべきものとすべきでないものがある,しかしいずれにしても文字にされたものを守る人が善き人である,という話も間に入る)

メモは以上。
基本的に教育・養育についても,国民を均質にすべしという思想に貫かれているとは思うのですが,右手/左手を区別しないとか,男女の区別をしないということについては,イデオロギーではなく生物学的な見方を冷静にしているという印象があり,他方で何でも与えられて家畜のように生きていればよいというのではない,とも明確に言っているところもあって (これは徳を修めるべしというこれまでの話からも当然なのですが),現代から見てもあまり古く感じられません。国が認可しない歌や踊りは禁止,というようなものはさすがにどうかと思いますが,今だから言えることで100年前はどうだったのか?とも思います。

また神々を祭ったり犠牲を捧げるということが前巻までずっと言われてきたわけですが,本巻では,「人間は神の操り人形」論が少し復活してきて,幸福とは神々の為に歌ったり踊ったりして楽しむことである,といった他力的で意外なことが言われたりしました。またその神々を祭るための定められた歌や踊り以外のものを歌ったり踊ったりすれば国によって罰せられるとか,詩人の歌は国家に認められたものしか許可しないといったことが言われ,国家と宗教の違いって何?と思わされたりしました (根本的なところでは違いは結構曖昧なのでは,と思います)。

他方で,正しく神に祈りをささげるためにこそ科学を学ぶことが必要だ,という面白いことも語られ,神 (宗教) と科学の関係 (共存) ということについてプラトンは既に考えていたのだなぁ,ということも思わされたりしました。

現代というのは,科学についても神 (宗教) についても,私のような末端の人間であっても,何か超越的な視点から考えがちで,かつそれが合理的だと思ってしまうところではありますが,当時は本当の意味で境界が曖昧で,かつ人々はその曖昧な世界の中に確かに生きていた,ということなのだと思います。自分が本当に超越した存在でない限り,本当はそちらの方が正しいのかもしれません。国家,というものの曖昧さが,それを証明しているようにも思えます。

プラトン『法律』第六巻メモ(2)

プラトン『法律』(プラトン全集 (岩波) 第13巻) 第六巻を読んだときのメモ第2弾です。

第六巻は,国における役職の話がずっと続いてきましたが,後半は結婚に関する話題が大部分を占めます。また合間に,奴隷に関することや女性についての立法に関することも話題になります。この辺りは当然,人権意識が現代とはかなり異なるので割り引いて読む必要はありますが,実はあまり変わっていないのでは?と思わされるところでもあります。

以下読書時のメモです。

アテナイからの客人「さて以上につづいて,わたしたちの法律は,次のように神聖な事柄を出発点として,そこから始めることにしましょう。つまりまず最初に,わたしたちはもう一度あの5040という数を取りあげて,それが全体としても,また各部族の戸数としても,どれだけの便利な因数を含んでいたか,また含んでいるかを考えてみなければなりません。各部族の戸数をわたしたちは全体の12分の1としましたが,それはちょうど21の20倍にあたります。そしてわたしたちの全体数は12で割ることができ,部族の戸数も12で割ることができます。ですから,それぞれの部分は1年の各月と,万有の回転に対応し,神聖なもの,神の賜物と考えられなければなりません。」(771A)

以前にも出てきましたが,また 5040 という数字が出てきました。
ただ,この「神聖な」数字に基づいて,月に2回祭壇で犠牲を捧げる集まりを催し,そこを婚活パーティのようにも利用?するつもりのようです (その部分は省略)。
考えてみれば,今のように時計やカレンダーもなく,会社も学校もないような時代に,国のようなところが,何かを定期的に開催する,ということの重みは今よりもずっと大きかったのでしょう。かつそれを結婚の機会に結び付けるというのは,今から見ると突拍子もないように思えますが,後で出てくるように当然の要請だったのかもしれません。
この後,第16章からの結婚の話題が続きます。

(第16章)

アテナイからの客人「さて25歳に達した男性は,お互いに調べたり,調べられたりした上で,自分の意にかない,協力して子供を持つにふさわしい娘をみつけたと思ったなら,35歳までのあいだにすべて結婚しなければなりません。だが,適当な,似合いの相手を探す方法について,彼にまず聞かせておかなければなりません。」(772D)

ここからは割とストレートに,いつ誰と結婚すべきか,という話がなされて,本対話篇の中では比較的読み易いところです。
前述の「婚活パーティー」としての集まりもそうですが,何となくお見合い結婚のようなものが前提になっているようにも思えます。

アテナイからの客人「「息子よ,お前は思慮ある人びとにとって評判のよい結婚をしなければならない。彼らはお前に,貧しい人びととの結婚を避けたり,金持との結婚をとくに追い求めたりせずに,もし他の条件が同じなら,つねに劣った方を選んで結婚するようにと忠告するであろう。」」(773A)

アテナイからの客人「「すなわち,各人は,国家にとって利益をもたらす結婚を求むべきであって,自分にとって最も快適なものをではない。ところが,すべての人はなぜかつねに自分に最も似た性質を持つ者の方へ引かれるもので,その結果,国全体に,富の上でも性格の上でも不均衡が生まれる。ここから,わたしたちの国では起こってもらいたくないことが,たいていの国ではじっさいによく起こるのである。」」(773B)

「つねに劣った方を選んで結婚するように」というのは (前提として自分が裕福で優れているということがあると思いますが) かなり意外な言葉です。
つまり結婚とは国の利益になるべきであって,そのためにはできるだけ国民が均一になるようにすべき,と考えられていることが分かります。他にも,せっかちな人は物静かな人を迎えるように,などとも言われます。
別の見方をすると,結婚によって格差が縮小するようにしている,とも言えます。翻って考えると,現代では,裕福な人は裕福な人と結婚するケースが多いようにも思われ,それはどうしても格差が拡大する方向のようにも思われます。だとすると,それを是正するのが国の役割という気もしますが,流石に現代では結婚相手を制限するのは自由の侵害という面が大きく無理なので,課税や給付によって行うということになるのでしょう。
なおこの辺りは,「これらのことを法律の条文によって規定すること (中略) は,滑稽なばかりでなく,多くの人びとの怒りを買うでしょう。」と言われ,法律化はさすがに考えられていなかったようです。

(第17章)

アテナイからの客人「もし誰かが故意にそれに従おうとせず,国のなかにあってよそものとして他人と交わらず,結婚しないままに35歳になるならば,彼は毎年罰金を払わねばなりません。」(774A)
アテナイからの客人「ところで,結婚を欲しない者は,金銭的には,以上の罰を科せられますが,尊敬という点では,彼は年下の者から受けるいっさいの尊敬を奪われ,若者たちも誰ひとりとして自分から進んで彼に従ってはなりません。」(774B)

独身者に厳しいですね。表向きは「子孫を残し,つねに自分に代って神に仕えるものを提供することによって,永遠のいのちに参与すべきだという先の言葉にあわせて」と言われますが,やはり「国家の利益」のためというのは間違いなさそうです。この辺りは,たまに日本の政治家の失言に現れますが,税金や国民の労働で成り立っている現代の国家でも本音は同じなのでしょう。

アテナイからの客人「婚約の権利は,第一に父親,第二に祖父,第三に父を同じくする兄弟に属し,これらの人びとが一人もいない場合には,つぎに同じ順序で母方の親族に移ります。」(774E)

本人の意思ではないのですね。まあ時代が違えば,それも当然と考えられていたのでしょうか。父権的というか,日本でも100年前は似たようなものだったのかもしれません。

(第18章)

ここでは結婚披露宴について,人数はどのくらいが良い,といったことが言われます。
また子供を作ることについて,酒に酔った状態でできた子供は,「性格も身体も真っすぐでない子供」(775A) になるということも言われます。科学的根拠はなかったと思いますが当時でも経験的に知られていたことなのか,それとも酒を戒めるための口実だったのか。

(第19章)

アテナイからの客人「つぎに所有物としては,どんなものを持っていたら,最も適当な財産を持っていることになるでしょうか。その多くは,考えることも,手にいれることも困難ではありませんが,奴隷のことになると,あらゆる点でむずかしいのです。」(776B)
アテナイからの客人「もちろん,わたしたちは誰でも,奴隷はできるだけ気立てのやさしい,できるだけ立派なものを所有すべきだと,言うであろうということは分っています。なぜなら,奴隷の方が兄弟や息子よりも,あらゆる徳性において優れていて,主人やその家財や家族全体を救ってくれたことが,これまでに数多くあるのですから。たしかに,こういうことが奴隷について言われていることをわたしたちは知っています。」(776D)

奴隷の所有について語られます。最初の言葉から,当時から微妙な問題ということは認識されていたことが分かります。
「奴隷の方が兄弟や息子より,あらゆる徳性において優れている」ことが数多くある,というのはかなり意外な言葉です。ただ直後には「また反対に,奴隷の魂には健全なものは何ひとつなく,道理をわきまえた人なら,こんな輩を何ひとつ信用すべきではないとも言われていますね。」(776E)とも。続きます。

アテナイからの客人「ひとが,見せかけでなく心から正義を敬い,真に不正を憎む者であることが明らかになるのは,自分が容易に不正を行なうことのできる人びとに対するときなのです。ですから,奴隷に接するときに示される性格や行為において,不敬や不正に汚されていない者は,徳を育てるための種を蒔く能力を,誰よりも充分に具えていることになりましょう。そして,主人にせよ,僭主にせよ,あるいはおよそどのような権力にしても,自分より弱い者に対して権力を行使する人について,同じことをしかも正しく言うことができます。」(777D)

これは至言だと思います。
プラトンは奴隷制度を否定はしていないし,懲らしめるべきは懲らしめ,付け上がらせてはいけない,とも述べています。また,いっそ別の国の言葉が分からない人たちを奴隷にすべきである,という案も出していて,後の帝国主義,植民地主義を予感させます。
しかし何というか,悪気があまり感じられません。それは,前に挙げたように「奴隷の方が徳性が優れている(ことがある)」と率直に認める面もあり,奴隷に対しても人格をはなから否定しているわけではない,と感じられるからのように思います。そういうふうに互いに接しているのであれば,会社の社長が平社員より幸福とは限らないのと同じで,奴隷も不幸ではないのかもしれません (職業選択の自由の面からは無論許されないでしょうが)。晩年ではありますが,プラトンにたまに感じる前向きさ,明るさのようなものがここでは出ているのかもしれません。
今の日本でも,外国人や低賃金の労働者,ブラック企業の社員など,実質的に奴隷のように扱われている人たちがいる,ということを認めない人は少ないと思います。寧ろ,プラトンが奴隷を見る目よりも,ずっと当人の尊厳を蔑ろにするケースが多いのではないかとも思います。なのでここで悪い意味で言われていることは今でも通用してしまいそうな気もします。

(第20章)

アテナイからの客人「新しく建設され,いままで住居というものがなかった国では,建造物のいわばすべてについて,それらのいちいちを,とくに神殿や城壁を,どんなふうにするかを考慮しなければならないようです。」(778B)

住居や建造物についての話題です。こういう話の勢いになると,『ティマイオス』の国家建設版,という印象がますます強くなってきます。
この後具体的に,神殿は高いところに立てて,隣接して役所と裁判所を,ということなどが言われます。

アテナイからの客人「城壁については,メギロス,少なくともわたしはスパルタに賛成し,城壁を地中に横たわったまま眠らせておいて,起こしたりはしますまい。(中略) 城壁というものは,第一に,国家にとって健康上少しも益がありませんし,またそのなかに住む人びとの魂に,一種の意気地のなさを植えつけるのが常です。城壁は,人びとを誘って,敵を防ぐよりもそのなかへ逃げ込ませ,夜も昼も絶えず誰かが見張りをすることによって国の安全を確保する代りに,城壁と城門に守られて眠りこけているのが,真の安全を得る手段だと考えさせるのです。まるで彼らは苦労を免れるために生まれてきたかのように,そして真の安楽は苦労を通じて得られることを知らないかのように。」(778E)

城壁についてのここは面白いところです。スパルタに賛成し,と言われていますが,理由がまさにスパルタ式ですね…わざわざ住民に苦労させるために城壁を作らないと。冗談なのか本気なのか分かりません。
ただ,城壁の必要性も認識はしているようで,作る場合の構造も述べられています。

(第21章)

アテナイからの客人「彼が個人生活に関しては強制の必要をいっさい認めず,各人はその欲するままに日を送ることが許されるべきであって,けっしてすべてを規則ずくめにすべきではないと考えるならば,どうでしょうか。つまり,個人生活は法律で規制せずに放っておきながら,公共の生活に関しては,市民が法律に従って生きるであろうと期待するとしたら,このような考えはけっして正しくはありません。」(780A)

何気なく書かれているところですが,個人の私生活をかなり規制するようなことが言われています。ただ,公的な場でちゃんと法律を守って生活していくには,プライベートでもそれなりにちゃんとしていないといけない,というのはある程度当たっているという気もします。それは,法律の延長線上 (または起源) にある「法」というものが,人間である限りは公私関係なく普遍的なものであるからだろう,という思いがあるからかもしれません。
ただ国家全体の利益を優先し,人権というものを考慮しなければ,こういう発想になるのも分かる気はします。現代の国家と「国力」というものの位置づけが違っていて,やはり特に戦力というものが重視されるので,規律が重要視されているのでしょうか。

この後で,結婚後も夫は「共同食事」をすべきである,ということが言われ,次の引用に続きます。
「共同食事」というのは『国家』篇や本対話篇でも何度か出てきて,すっかりおなじみの感があります。

アテナイからの客人「しかし,女性の方はまったく不当にも,法律の規制を受けずに放置され,彼女たちの共同食事の制度は日の目をみるに至りませんでした。わたしたち人間のうち,生来その弱さのゆえに,よりいっそう隠しごとを好み,奸智にたけた種族,すなわち女性は,立法者が不当にも手を引いたため,無秩序のままに放置されているのです。」(781A)
アテナイからの客人「すべての制度を女性にも男性にも共通に実施することが,国家に幸福にとってより好ましいことでしょう。」(781B)

確かに「共同食事」というのは国の守護者を対象にしたもの (暗黙的に男性),というのが『国家』篇での前提だったと思いますが,少し前に男性は常に適用されるべきと言われ,さらにここでは男女関係なく適用させるべきだと言われています。
引用の前者の女性に対する偏見はともかく(引用は省いたが,女性は男性より徳性が劣るとも),後者だけ見ると男女平等に少し近づいたともとれます。まあこの制度自体どうなの?とも思いますけど。安全のため,という記述が前にありますが,計画経済的なメリットがあるというのはあるでしょうか。
また,「女性に人前で公然と飲み食いすることを無理強いしようとすることなど,どうして嘲笑を招かずにできましょうか」(780C),「女性は引きこもってひそやかに生きることに慣れている」(同) ということもアテナイからの客人に言わせています。現代でもイスラム教の地域などは,これとあまり変わっていないのではと思われます。
そこで「共同食事」の説が,そういう状況を変えるために,男女関係なく同じ制度を適用すべき,と言っているのなら良いのですが…。そうとも取れる箇所はありますが,ただどうもそうではなくて,女性の方が徳性が劣るために法の支配を強めるべきだということを言っているように思えます。或いは,もっと合理的な理由をプラトンは持っていたのでしょうか?

(第22章)

アテナイからの客人「たしかに,今日でもなお多くのところに,人間がお互いを生贄にするということが残っているのが見られます。しかし別のところでは,これとは反対に次のようなことを聞いています。つまり,人びとは牛肉を味わうことなど敢えてしなかったし,また神々への供物も生きものではなく,麦粉菓子とか蜂蜜漬けの果物とか,その他これに類する清浄な供物であって,肉を食べたり,神々の祭壇を血で汚したりすることは敬虔ならざることであるとして,肉を遠ざけ,いわゆるオルペウス教徒の生活を当時の人びとは送っており,すべていのちのないものだけを口にし,反対にいのちあるもののすべてから遠ざかっていたのです。」(782C)

この部分,今でいうヴィーガン?を連想します。オルペウス教徒というのはあんがい先進的に思えてきます。
さて何故こんなことが急に言われているか?というと,何か深いところが考察されているように思うのですが,自分には理解できているか分からずうまく説明できません。ただ,「人間の種族はその生成の初めもなければ終りもなく,つねにあったし,また将来も絶えずありつづけるものであるか,あるいは人間が初めて生まれて以来,経過した時間の長さは測り知れないほどであったか,そのいずれかだということです」(781E) で始まる本章では,人間の欲望3つ:食べること,飲むこと,生殖の欲望,ということも言われ,それらを,恐怖と法律と真なる言論とによって快楽から善へと向け変えられる,ということも言われます。
正しい法律や支配がなく本能の赴くままなら,人間は共喰いをして生きていくようにもなりえるが,そうでなければ人間以外の生物を粗末にすることもない,ということでしょうか。

(第23章)

ここでは新婚夫婦の子作りに関することが言われます。省略しますが,監督者がいて,夫婦を監督し,定められたこと以外に目を向けている者がいれば報告するということも言われます。以前の巻でも思いましたが,ひどい監視社会です。

アテナイからの客人「子供をつくる機関と子供をつくる者たちを監督する期間は,子供が生まれやすい場合には10年とし,それ以上にわたってはなりません。しかしもし誰かが,この期間が過ぎても子供ができなかった場合には,身内の者たちや監督の役にある婦人たちとともに,双方に都合のよい条件を協議して離婚させます。」(784B)

子供ができなかった場合は離婚させる,というのを国としてさせるのはすごいですね。やはり「国力」を考えた場合には何としても子供を産ませる,ということでしょうか。

アテナイからの客人「しかし法の定めるところに従って子供を設けた後に,もし男が妻以外の女性と,女が夫以外の男性と同様の関係を持つならば,相手がまだ子供をつくる年齢にある場合には,子供をつくる年齢にある人びとについて言われたのと同じ罰を与えるべきです。しかしその年齢を過ぎると,このような事柄に関して自制心のある男女は大いによい評判を受け,反対の者は反対の評判を,というかむしろ不評判をこうむります。大部分の者がこのような事柄に関して節度を守るならば,規則などつくらずにそっとしておくべきですが,風紀が乱れている場合には,いま定めた法律に従って規則をつくり,それを実施しなければなりません。」(784E)

いわゆる不倫に関してでしょうか。ここまでの流れであれば,子供が沢山作れるのであれば不倫も不問に付す,とでも言いかねないところですがさすがにそこまではなく,そこは節度を優先させるようです。

アテナイからの客人「結婚年齢の限界は,女性は16歳から20歳まで,男性は30歳から35歳までとすべきです。」(785B)

婚期が短いですね…。特に女性はなんでこんなに短いのだろう,とも思いますが一昔前の日本もそんな感じだったのかもしれません。寿命も今とはだいぶ異なったからというのもあるのでしょうか。前には男性は35歳を超えたら罰金とありましたし…。

アテナイからの客人「役職につくのは,女性は40歳,男性は30歳からとします。軍務に関しては,男性は20歳から60歳までとします。しかし,女性については,軍務に関して女性を用いる必要があると考えられる場合にかぎって,子供を生んでしまってから50歳に至るまで,各人に可能な,また適当な仕事を課すべきです。」(785B)

女性も (男性と身体能力的な面以外では区別せずに) 軍務に就かせる,というのは『国家』篇でも言われていたことで,結婚・出産を前提にしてはいますが社会復帰のことまで考えられているのは結構進んでいるような印象も持ちます。

第6巻のメモは以上。
主に結婚に関する話題が多くを占めましたが,やはり支配者の立場として「現実的」な見方をしているのかなぁという印象です。かつ個人の自由というかプライベートがあまり考えられていません。ここまで結婚・出産を強いるような法律は,子供を生ませて少なくとも人口が減らないようにしなければならない,という国の将来を考えれば,立法者の立場としてどうしても必要だと考えたのかもしれません。
勿論,個人の自由や尊厳が認められている現代から見ればありえないものが多いわけですが,明文化されていないだけで,国を支配する人びとの意識がそこまで変わったわけではない,とも思えます。
奴隷に関することも同じで,今は制度的には勿論奴隷制はあり得ませんが,特に低賃金で立場の弱い人の,人としての尊厳が守られていない例は多くあると思われ,実質的にそういう扱いを受けていると思います。民主主義/資本主義の現代でも,プラトンの当時と同じことが実質的に起っているのは,どう考えるべきなのでしょう。まあそう思うのは日本人だからであり,欧米やそれに倣った新興国では,立法者や為政者の意識はもっと変わっているのかもしれません。

法律というのは,元々,ある意味「理想」に似ていると思いますが,理想をあらゆることについてこまごまと書こうとすると,理想たりえなくなる,という矛盾のようなものがあるように思います。そこに苦しみつつ書いたのがこの『法律』ではないか?とも思います。

プラトン『法律』第六巻メモ(1)

プラトン『法律』(プラトン全集 (岩波) 第13巻) 第六巻を読んだときのメモ第1弾です。

第五巻までと割と大きな転換で,ここでは役人の役職について前半~中盤で述べられます。ここまで法律の必要性やその内容について色々語られてきたわけですが,それを実際に執行するための手段として,どう役職を作って選出するか,ということがかなり詳細に語られていきます。この詳細さは,『クリティアス』でのアトランティスの国土づくりを少し思い出します。また,裁判制度について語る部分もあり,これは短いですがかなり面白いと個人的に思いました。
後半では,結婚に関する規定が色々述べられますが,長くなったのでメモ(2)に。

以下,読書時のメモです。

アテナイからの客人「さて,これまでいろいろと述べてきましたが,次の仕事は,おそらくあなたの国のために役職を制定することでしょう。」
クレイニアス「まさしくそうです。」
アテナイからの客人「国制をととのえるのには,次の二つの段階があります。第一は役職の制定および役人の任命,つまり,いくつの役職があるべきか,またどんな仕かたで任命がなされるべきかという問題です。それが済んだらつぎに,それぞれの役職に法律を付与しなければなりません。」(751A)

ということで,国の為の役職についてです。これは面白そうなテーマと感じます。なのでメモも少し多めかもしれません。
今で言えば,公務員について,どんな職種があり何を行なうか,ということになるでしょうか。こういう政府・行政の業務に着目した描写というのは『国家』には見られず,『法律』で法律による国家機構を考えて行く上で考えざるを得なかった観点なのかなと思います。

アテナイからの客人「立法の仕事というものは大事なものではありますが,立派につくられた国家が,立派に制定された法律の施行を,不適格な役人の手に委ねるならば,立派な法律から何の利益も得られず,天下の物笑いになるばかりでなく,おそらく国家にとって最大の損害と不名誉とがそれから生じるであろうということは,誰にも明白だということです。」(751B)

前述のテーマの前にちょっと別の話として言われる言葉ですが,これは今でも (今だからこそ?) 通用する至言だと思います。
ただ,これは「理想」と「現実」という難しい問題という気もします。確かに法律というのは「理想」(言葉で表せる限りの) といえると思いますが,それを「現実」に落とし込むために,どうしても役人がいる,ということになるので,うまく役人を登用できないと,仏作って魂入れず,になります。

アテナイからの客人「役人の地位に向かって正しく歩む者たちは,彼ら自身もその家族も,子供のときから[その地位に]選出されるに至るまで,充分な吟味をうけていなければなりません。つぎにまた,選挙人たるべき人びとも,法を重んじる習慣のなかに育てられ,それぞれにふさわしい候補者を,あるいは嫌悪をもって,あるいは好意をもって,正しく退けるなり受けいれるなりできるように,充分に教育されていなければなりません。しかしこの点については,最近一緒になったばかりで,互いに知り合ってもいないし,そのうえ教育もない人びとが,どうして役人を間違いなく選ぶことができるでしょうか。」(751C)

この国家では,役人は「選出」されるもの,つまり選挙で選ばれるもの,というのが新鮮に思えます。しかし確かに,どうやって役人は選ばれるべきなのか?とも考えさせられます。今の日本で言えば,公務員試験によって選ばれるわけですが,当時はそもそもテストの概念があったのかどうか。
アテナイからの客人は,いきなり法律を受け入れて役人を適切に選び出せるようになるのは難しいが,子供のときからその法律に親しんで充分に受け入れていれば,適切に選び出すことができるだろう,ということをこの後で言っています。
以下,細かい規定は殆ど省いていますが,37人の護法官のうち,19人を入植者,残りをクノソス人から選ぶということがまず言われます。
また,役人(護法官)を選出する具体的な流れも語られます (753B~D)。

アテナイからの客人「クノソス人は入植者のなかから,できるだけ最年長で最善の人びとを,少なくとも100人選んで,彼らと協力して,これらすべてのことを取りしきらなければならないと言います。そして他にクノソス人自身のなかからも100人を選びます。これらの人びとは,新しい国へやってきて,役人が法律に従って選ばれ,選ばれた上で審査が行なわれるようにと,協力して配慮しなければならない,とわたしは言うのです。そしてこれらのことが済むと,クノソス人はクノソスに帰り,新しい国は自分で自分を守り,繁栄するように努力すべきなのです。」(754C)

アテナイからの客人「しかし,あの37人のなかに入った人びとは,現在も,また将来もずっと,次の目的のためにわたしたちに選ばれたものとします。第一に,彼らは法律の番人でなければならず,ついで市民各自が自分の財産の額を役人に申告する,財産登録の番人でなければなりません。ただし最高の財産階級は4ムナまでで,第二は3ムナ,第三は2ムナ,第四は1ムナまでは控除されます。もし誰かが申告以外の余分なものを持っていることが明らかになると,そのような財産はすべて国庫に没収されます。」(754D)

アテナイからの客人「誰でも望む者は,彼を不当利得のかどで告発し,護法官自身の前で裁判にかけることができるのです。」(754E)

ということで,護法官の仕事3つが語られます。今の日本で言うと何なんでしょう?「法律の番人」というのは,奇しくも日本では内閣法制局の通称として知られていると思います。財産登録の番人というのは,税務を取り仕切る国税庁やその上の財務省になるでしょうか。最後のは裁判官にも思えますが。

この後,将軍,騎兵隊長,部族騎兵隊長,部族歩兵隊長の選出が語られます (第4章)。かなり詳しく選出手続きが述べられています。ここでも,将軍と騎兵隊長を選出するのは,「戦争に参加すべき年齢のときに参加した者や,現に戦争に参加する者すべて」ということが言われます。

アテナイからの客人「政務審議会は12の30倍の人数から成り,――360という数は,これをさらに分けるのに好都合でしょう――,それを90人ずつ4つの部分に分け,おのおのの財産階級から90人ずつの審議員を選出します。最初に,最高の階級からの候補者指名には,全市民がかならず投票しなければならず,従わない者には定められた罰金が科せられます。」(756B)

次に政務審議員の選出について。財産階級別に選ばれるようです。以下,第2~第4階級の選出過程も同様に言われます。

アテナイからの客人「たしかに「平等は友情を生む」という古い諺は真実であって,まったく正しく,適切に語られています。しかし,この友情を可能にする平等とはどういう平等なのかということがすこぶる不明瞭であるために,それがわたしたちをすこぶる混乱させるのです。というのは,二種類の平等があって,それらは名前は同じですが,実際は多くの点でほとんど正反対のものだからです。」(757A)

「二種類の平等」というのは何なのか,というのは以下の引用で言われます。結構根本的なことを言っているように思えます。

アテナイからの客人「一方の平等は,どんな国家,どんな立法者でも,栄誉を与える際にそれを容易に導入することができます。これは尺度,重量,数による平等で,分配に籤を用いることによって,それを適用することができます。しかし最も真実な,最もよき平等は,誰にでも容易に見分けられるというものではありません。なぜなら,それを判定する能力はゼウスのものであって,この能力が人間の助けになるのは,いつもわずかだからです。しかし,国家なり個人なりにとって,それが助けになるかぎり,すべての善きものがそこから生みだされるのです。なぜなら,それは,より大きなものにはより多くを,より小さなものにはより少なくをと,双方にその本性に応じて適当なものを分け与え,とくに栄誉については,徳において大いなるものにはつねに大いなる栄誉を,徳と教養とにおいて反対のものにはそれにふさわしいものを,双方に比例的に分け与えるからです。じっさい,政治というものも,わたしたちにとってはいつも,まさにこの正義のことなのです。いまもわたしたちは,クレイニアス,この正義を目差し,この平等に眼を向けて,現在誕生しつつある国家を建設しなければならないのです。」(757B~D)

量的な平等と質的な平等,という感じでしょうか。
ここは,プラトンの中でかなりの葛藤があったのか?と思わされるところでもあります。実際,この前に示された政務審議員の選出過程は,「君主制と民主制の中間に当たる…」と言われますが,どちらの長所も短所も知っているために考え抜かれた過程なのだろうと思います。
また,政治における「正義」が,徳を多く持てば多くの栄誉を与えること,ということだと言われていますが,徳ではなく「功績」とでも置き換えれば現在でもそう変わらないかもしれません。本当は,困っている人に多く分配することこそが「正義」では,と思わなくもありませんが,そういう「国民は法の下に平等」という意味での「平等」は当時全然なかったのだと思われます(今もあるかどうかはよく分かりませんが)。

アテナイからの客人「審議員の大部分は,ほとんどの時間自宅にあって,家の仕事に精を出すのが許されます。そして彼らの12分の1を12の月のそれぞれに割り当て,1か月交替で守護者の役につかせ,外国からの,あるいは国内からの来訪者に迅速に応待させます。」(758B)

このくらいの (1年に1か月くらいの) 非常勤であれば,自分も役人をやってみたいと思いました(笑)。

ここまでは国家 (都市) に関する役職の話で,ここから先は地方に関する役職が述べられます。込み入ってくるので引用とは別に章ごとに少し内容をまとめます。

(第7章) 神殿の神官,都市保安官,市場保安官といったものがあると述べられます。
男女の神官の選出方法に関しては,引用はしてませんが「世襲だが,いなければ籤」ということが言われます。これは少し面白いと思いました。「神的偶然に委ねる」,という言い方もされていますが,言い方を変えると偶然性と神は同じ,と考えられていたということでしょうか。

アテナイからの客人「すべての神事に関する法律は,これをデルポイからもってきて,それに対して神事解釈者を任命した上で,この法律を用いなければなりません。」(759C)

政教分離なんて当然ない時代,神事が法律に出てくるのは当然だったのでしょうか?ただ,後世の宗教政治の萌芽という気はします。

(第8章) 保安官の仕事について。地方の防衛がメインテーマで,警察みたいなもの?と思いましたが,それだけでもないようで,後で示す引用のような面白いことも言われます。防衛については,

  • 1つの部族あたり5人の地方保安官もしくは監視隊長
  • 5人組のそれぞれに25~30歳の12人の若者
  • 国家の(12に分かれた部分の)いずれかが籤によって割り当てられ,1か月交替で各地を回る

といったものです。加えて,

アテナイからの客人「まず第一に,国土が敵に対してできるだけよく防衛されるように,必要なかぎり,堀をつくり,溝を掘り,砦を築いて,何にせよ,国土や財産に危害を加えようとする者を,できるかぎり防がなければなりません。」(760E)

アテナイからの客人「また雨水が山の高みから山あいの落ち窪んだ谷間へと流れ込むときに,国土に害をなさず,むしろ利益をもたらすようにと,水の溢出を堤防や堀で防ぎます。こうして谷が雨水を受けいれ,呑みこんで,下流のすべての畑や土地のために,流れや泉をつくり,最も乾いた土地にさえ,たくさんのよい水を供給するようにします。」(761B)

アテナイからの客人「またこのような場所にはどこにも,若者たちは自分たちやまた老人たちのために体育場をつくり,老人向きの温浴場をしつらえ,よく乾いた薪を豊富に用意し,病に苦しむ人びとや,百姓仕事に疲れきった人びとの身体を癒すべく,やさしく受けいれてやります。これは,下手な医者にかかるよりもはるかに役に立つものです。」(761C)

ということで警察のようなものかと思いきや,地形を利用して防衛に利用したり,生活用水を供給したり,保健施設を作ったりすることも含まれています。ちゃんと老人をいたわっているのが意外なところ(笑)。まあこの執筆当時はプラトンも立派な老人なので,色々大変さが分かっていたということでしょうか。

(第9章) 続き。こちらの方が不正の摘発など,警察のような業務のことを言っているかもしれません。

アテナイからの客人「ところで,王のように最終決定を下す人たちを除いて,いかなる裁判官も役人も,裁判や職務の遂行に関して,執行監査を受けないですますことはできません。とくにこれらの地方保安官の場合,もし彼らがその管理下にある人びとに対して,不公平な賦役を課したり,農業の収穫を同意を得ないで奪い去ろうと企てたりして,不当な振舞いに及ぶならば,またもし賄賂として贈られたものを受けとり,あるいはそのうえ不正な判決を下したりするならば,誘惑に屈したものとして国中に恥をさらさせます。」(761E)

不正に厳しいですね。行政に監査が必要,という考えが既に示されていることに驚きます。当然あるべき姿だとも思いますが,一方で,役人には古今東西を問わず賄賂が付いて回っているのも事実だと思います。なぜこの目標が未だに果たせていないのだろう?とも思います。

アテナイからの客人「隊長と部下の地方保安官たちには,在職中の2年間を次のように過ごさせます。まず,それぞれの地域ごとに共同食事があり,全員がそこでいっしょに食事をとらなければなりません。」(762B)

『国家』で言われていた共同生活でしょうか。他にもかなり厳しい制約が言われます。共同食事を1日でも欠席したら,その人を「誰でも鞭で懲らしめても罰を受けません」とか。いやいや普通に傷害罪でしょ…と突っ込みたくなりますが(汗)。

(第10章) 都市保安官,市場保安官の役割について。
都市保安官については,特に水に関して,清潔な水が引かれるように管理するのが任務だと言われます。他に市街地の道路,幹線道路,建造物が法に違反していないか?の管理など。最高の財産階級のなかから6人が選出され,選挙管理人のくじによって3人が選ばれると。
市場保安官については,市場に対して,都市保安官と概ね同じ内容が言われます。ただ選ばれるのは第2と第1の財産階級から5人と言われます。

(第11章) 音楽と体育の役人について。いずれも,教育の担当者と,競技の担当者 (=審判官) があると言われます。
ここでは,その道の専門家である候補者の中から籤で選ぶと。詳しく言われるのは競技の審判官で,選ばれたあとの資格審査が割と強調されていると思います。

(第12章) 「男女児の教育全般にわたる監督者」について。この役職の資格は,50歳以上で嫡出子を持つ父親であると言われます。
かなりその教育は重要視されているようで,
「その役が国家における最高の役職のなかでもとくに最も重要なものでもある」(765E),「人間はたしかに温和な生きものだとわたしたちは認めますが,しかしながら,人間は一般に正しい教育と恵まれた資質とを得てこそ,最も神的な,最も温和な動物になるのであって,もし不十分な,あるいは立派でない育てられ方をすると,大地の生みだすもののなかで,最も獰猛なものになるのです。」(766A),「国中の人びとのなかで,あらゆる点で最善の人を子供たちの監督者に任命すべく,できるかぎりの努力を傾けなければならないのです。」(766A) と,当然とはいえ力強い言葉が並びます。

アテナイからの客人「政務審議会とその執行部とを除くすべての役人が,アポロンの神殿に赴いて,秘密投票を行ない,護法官たちのなかで,教育に関する事柄を司るのに最も優れていると各人が考える人を選びます。そして最も多くの票を得た人が,護法官を除く他の,選挙母体たる役人たちによって資格審査をうけた上で,5年間その任にあたり,6年目には,同じ方法で別の人がその役に選ばれるべきなのです。」(766B)

他の役職は,自分が読み間違えていなければ,(階級の制限はあるにせよ) 市民から選出していたと思いますが,これだけは (「秘密投票によって」) 役人が護法官の中から選出している,ということになるのでしょうか。今の日本では教育委員長のようなもの?
例えば現代でも,ある特定の思想団体・宗教団体をバックに持つ政党があったりします。仮に市民から国や地方の教育者や教育行政の担当者を選出するとなると,その思想団体・宗教団体の思想・教義に偏重した人が選出される可能性があります。そこを民主主義の範疇ととるか,教育の中立性が守れないととるか?と考えると結構難しい問題のような気がします。
もっとも,仮に役人から選出するにしても,今の日本で議会のチェックが全くないとは考えにくいので,多かれ少なかれ市民のバックにある団体の影響を受けているとも思えます。というか2018年頃からの○○学園問題など,「行政のプロセスをゆがめられた」と言われた問題は,まるっきりその構図かもしれません。行政 (役人) と立法 (政治家) のどちらが民意なのか?一義的には後者なのでしょうけど,現実に遍くそうなっているとも思われません。

(第13章) 法廷の設置,裁判官・裁判について。これは面白いです。引用を多く省略しているので分かりづらいですが,公平な裁判を行なうためにどうすればよいのか?というプラトンの苦心を見ることができ,現在につながるものも多く見られます。

アテナイからの客人「つねに双方の争点が明瞭になることが必要であり,時間をかけてゆっくりとたびたび審議を行なうことが,争点を明瞭にするのに役に立ちます。ですから,互いに争う人びとは,まず隣人や友人や,争われている事柄を最もよく知っている人びとのところへ行くべきです。しかし,もしそれらの人びとのところで十分な裁決を得られなければ,別の法廷に赴かなければなりません。そしてこの二つの法廷が解決をすることができなければ,第三の法廷がその訴訟に決着をつけるべきなのです。」(766E)

ここは日本での三審制を想起します。ただ最初の審判は,知人などで解決を図るべきだと。ちょっと違いますが家庭裁判所や簡易裁判所を連想します。

アテナイからの客人「その他の場合にとっては2つの法廷があります。1つは誰か個人が個人を,自分に対して不正をなしたとして告発し,裁判に持ち込んで決着をつけようと望む場合であり,もう1つは公共体が市民の誰かによって不正を加えられたと,誰かが考えて,公益を擁護しようと欲する場合です。」(767B)

ここは,完全に一致ではないが,現在の民事と刑事を連想します。プラトンを読んでいると,こういう今では当たり前で考えることもないような,根本的なことを考えさせてくれるのが面白いとつくづく思います。
なお,第3法廷の裁判官については,引用は省略していますが,役人の各役職のそれぞれから最善の人を選ぶ,と言われています。元々,当時のアテナイは陪審制であり,ソクラテス裁判のように一般市民が判決を決めていたわけですが,素人ではダメだという問題意識があったのだと思われます。一長一短だと思いますし,次の引用とも関連しますが,これは現在の日本の裁判員制度にも通じる部分があるのかもしれません。

アテナイからの客人「しかし,国家に対する罪の告発では,まず一般大衆が裁判に参加することが必要です,――なぜなら,誰かが国家に対して不正を行なった場合には,被害をうけるのは国民すべてであり,彼らがそのような裁決に参加しないならば,不平を抱くのはとうぜんでしょうから――。」(768A)

アテナイからの客人「しかし私的な訴訟にも,できるだけすべての市民が参加すべきです。なぜなら,裁判に参加する権利にあずからない人は,自分が国家の一員であるとはまったく考えないからです。」(768B)

陪審制に (当時のアテナイの) 問題を感じながら,やはり市民参加に意味がある,とも思っていたことが窺われます。この部分は現代でも有効なのだと思います。また,国家に対する訴訟という,今で言う刑事事件を連想させる方の訴訟に,一般大衆が参加する必要性を重く見ていたことも(とはいえどっちも参加すべきとも言っているのですけど),今の日本の裁判員制度が刑事事件のみを対象としていることと繋がる部分があります。そこは,刑事事件がある意味国家に対する不正で,それに対して国家が量刑を下すものだから,と考えるとなるほどと思います。

13章の裁判制度 (の役職) の話は本当に面白いと思います。ただまだ語り残された部分があるらしく,「立法の仕事の最後になされるのが,最も正しいことでしょうから」(768C)と言われて終わります。続きが楽しみなところです。

(第14章) 法律の改善の必要性について。画家が描いた絵を例にしたりして,法律も悪くならないように,かつ良くなっていくようにすべきということが言われます。

アテナイからの客人「ところで目下のところは,役人の選出のところまで来たわけですから,序論的部分はこれで充分に終ったとして,法律の制定を始めるのに,もはや何ら遅滞したり,逡巡したりする必要はありません。」(768D)

ということで,役人選出の話題についてはひとまず終わったようです。

アテナイからの客人「彼は最初に,法律を厳密さにおいてできるだけ欠けるところのないように書こうとするでしょう。ついで時が経ち,自分の善しとするところを実地に試してみて,次のようなことに気づかないほど愚かな立法者がいるとお思いですか。つまり,自分の築いた国家の体制と秩序とが,だんだん悪くなってゆくのではなく,つねにより善くなってゆくためには,必ずや自分の善しとするものの多くが,誰か後につづく者の手によって改善されねばならないようなものとして残されている,ということにね。」(769D)

この少し前に,「後継者は,その絵が時の経過により損なわれた場合に,これを修復し,また画家自身の…完成に近づけることができるのです。」という言葉も言われたりしていましたが,やはり『国家』第7巻~第8巻で言われていた時とは違っているなぁ,と思わされた部分です。その時は,善というのは不変であり,真の理想国家も不変であると言われていたと思います。しかしやはり時間というものがあって,また現実の変化というものがあって,法律も,あるいはその法律を適用した現実も,(1)経年劣化することがある,(2)技術的な未熟さゆえに最善ではないことがある,とプラトンは考えていたと。それを受け入れて付いていく必要性をここでは言っていると思います。理想は理想で変わっていない,ともとれますが,とにかく現実的です。

アテナイからの客人「わたしたちは法律を制定しようとして,すでに護法官も選んだのですが,わたしたちは人生の黄昏にあるのに対し,彼らはわたしたちに比べれば若いのですから,いまも言うように,わたしたちはただ法律を制定するだけでなく,これらの人びとが護法官であるとともに立法者でもあるように,できるかぎりの努力を傾けなければならないのです。」(770A)

ということで前述の,法律をメンテナンスしていく役割を,護法官に担わせようと言います。つまり役人が立法家も兼ねるということ?…と考えると今の日本ではそう驚くようなことでもないのでしょうか?実質的には官僚が法律を作っていますし。

ということで第6巻では主に役人の職や業務の制定が語られました。現代から見てもそれほど違和感を覚えるものは少ないと思います。特に裁判制度については,当時のアテナイにおける問題意識を反映して,より良いと思ったものを描いていると思いますが,驚くほど今の日本に通じるものがあると個人的に思いました。
プラトンも全くの想像でこれらを書いたのではなく,現実における国家や都市の役人の役職や仕事の中で,本当に必要で良いと思ったものを書き出し,悪いと思ったものを採り入れなかった,という感じではないでしょうか。であるなら,プラトンの (理想とまではいきませんが) 目標として描いた国家の延長線上に,我々は確かにいる,と言えるのかもしれません。

この後,主に結婚の話に移っていきますが,長くなったので一旦切ります。メモ(2)に続く…。

プラトン『法律』第五巻メモ

プラトン『法律』(プラトン全集 (岩波) 第13巻) 第五巻を読んだときのメモです。

まず第四巻の終わりにクレイニアスが「序文」の最初からやり直そうと提案したため,その内容について検討されます――といっても何のことはなく,徳性論のようなものがまた語られます。
後半に行くにつれて,土地や財産の分配といった,国のありようが語られてきますが,意外なことに?最善の国家については,『国家』篇で述べられた,「共同所有」の考え方が基本的に踏襲されています。『国家』を執筆した時からプラトンは色々挫折を経験したはずですが,それでも死の直前に書かれたと言われる本対話篇まで,理想は不変だったのか,と思わされるところです。

以下,読書時のメモです。

アテナイからの客人「「自分のもののうち,支配するものは隷属するものより,つねに尊敬されなければならない。こういうわけで,わたしは自分の魂を,主である神々とそれにつづく者たちのつぎに,第二のものとして尊敬すべきだと主張するが,この勧告は正しい。しかるに,われわれのうちいわば誰ひとりとして魂を正しい意味で尊敬してはおらず,ただ尊敬していると思っているに過ぎない。」」(726)

第四巻での,詩人 (に成り代わったアテナイからの客人) が立法者に問いかける,という場面を再開したので,かぎかっこを二重にしています。
魂の方が (身体より) 神々に近いため,「魂を尊敬せよ」ということが盛んに言われます。ではそれは何なのか?ということが色々例示されます。

アテナイからの客人「「またもしひとが不正な方法で富をてにいれたがり,あるいは,そうして手にいれてやましさを感じないならば,そのときにも,このような贈物によって自分の魂を尊敬していることにはならない,――いやそれどころではない――,魂の価値と美とを,彼はわずかの黄金で売りわたすのだから。しかもじっさいは,地上および地下のすべての黄金をもってしても,徳に等しい価値は持ちえないのだ。」」(728A)

アテナイからの客人「「要約して言えば,立法者が一つ一つ取りあげて,これは醜く悪いもの,また反対に,これは善く立派なものと定めたものに対し,前者からはあらゆる手段をつくして遠ざかり,後者をば,あらゆる力を傾けて実行しようと欲しない者は,知らないのだ,人間は誰でもそのような態度を取ることによって,最も神的なものである魂を,最も恥ずべき,最も無様な仕かたで扱っているということを。」」(728A)

アテナイからの客人「「われわれのみるところでは,尊敬とは,一般的に言って,優れたものに従い,劣ったものをば,それがより善くなることが可能ならば,できるかぎり善くすることである。」」(728C)

色々言われますが,一言で言うとソクラテス流の「善く生きる」ということかなぁと思います。そのくらい,特に目新しいことがないなあと思いましたが,ただ「立法者が善いと定めた」ものに近づくことが,魂を尊敬すること,というところが微妙に初期対話篇などと違ったニュアンスを感じます。

アテナイからの客人「「思うに,彼はこれらの尊敬を次のもの,ないし次のようなものとして示すのではないだろうか。すなわち,尊敬されるべき身体とは,たんに美しいものでも,強いものでも,速いものでも,大きいものでも,健康なものでさえもなく,――世間一般にはそう思われているであろうが――,そうかといって,ましてこれらと反対のものでもない。これらすべての性質を適度に具えた身体こそ,他にぬきんでて最も節度もあり,健全なものでもある。なぜなら,極端なものは,一方は魂を思いあがった向こうみずなものにし,他方は,卑屈な意気地のないものにしてしまうからである。」」(728D)

「第三に来るのは身体に対する尊敬」(第一は神々,第二は魂) ということで,どんな身体が善いかということが語られますが,身体の性質については中庸がよいと。金銭や物の所有についても同様のことが言われます。

アテナイからの客人「「思慮ある立法者なら,むしろ老人に向かって,若者に対して恥を知れと戒めるであろう。とりわけ,自分が何か恥ずべきことを行なったり口にしたりするのを,誰か若者に見られたり聞かれたりすることのないように注意させるだろう。老人が恥知らずな振舞いにおよぶところでは,若者たちもすこぶる恥知らずであるのはとうぜんなのだ。」」(729B)

年長者 (老人) に対する思いがけぬ厳しさを見せます。といっても極めてまともな内容ではあります。

アテナイからの客人「「またもしひとが,友人や仲間たちの自分に対する尽力を,彼らが考えるよりも大きく重大なことだとみなし,自分の友人に対する親切を,友人や仲間が考えるよりも小さなことだとみなすならば,人生の交わりにおいて,彼らの好意をうけるであろう。」」(729C)

ここは個人的にとても印象的な言葉です。

アテナイからの客人「「さらにまた,外国人に対しては,彼らとの契約をとくに神聖なものとみなさなければならない。すべて外国人に対する罪は,同国人同士のそれに比べて,復讐の神にいっそう深いかかわりを持つと言えよう。なぜなら,外国人は仲間も身寄りもいないのだから,人間からも神々からも,いっそう同情されてしかるべきなのだ。」」(729E)

外国人に対する優しさが感じられる一節です。といっても前述の年長者に対するものと似た感じではあります。人間は「神の下に平等」という感じでしょうか。

アテナイからの客人「「何ら不正を行なわない人間も尊敬に値するが,不正を行なう者に不正行為を許さない者は,前者よりも倍以上に尊敬に値する。前者は一人分の価値しかないが,後者は他人の不正を当局者に知らせるので,他の何人分かの価値があるからである。しかしさらに,当局者の行なう処罰にできるかぎり協力を惜しまない者は,偉大な申し分のない市民であり,徳の栄冠は彼にありと宣言されなければならぬ。」」(730D)

なるほど,と思いますが,こういう「善意」の発想が SNS によるさらし行為や炎上への加担,監視行為を生むのだろうか?とも連想してしまいました。法律違反を警察に通報する,という人や実際に法に基づいて取り締まりを行なう人,という意味ならその行為が国全体の不正を減らすのは間違いないと思うので,尊敬に値するというのは当然といえるとは思います。

アテナイからの客人「不正を行なうが,矯正可能な不正をなす人びとの場合には,不正な者はすべて,自らすすんで不正をなすのではないことを,まず知るべきである。なぜなら,最大の悪のどれひとつも,何ぴとも自らすすんで獲得することはけっしてないであろう。まして,自分の所有するもののうちで最も貴重なもののなかにおいて,そうすることはない。」(731C)

誰しも自らすすんで不正をなすのではない,というのは,『ゴルギアス』だったと思いますがこれも初期対話篇を思い出します。「自分の所有するもののうちで最も貴重なもの」というのは魂のことだと直後に言われます。

アテナイからの客人「「すべての悪のうち最大のものは,多くの人びとの魂に生まれつき具わっており,ひとは誰でも自分にそれを許し,それから逃れる手段を講じない。これは,『およそ人間というものはもともと自分が可愛いのであり,またとうぜんそうあって然るべきなのだ』という言い方に含まれているところのものである。しかしほんとうは,このあまりにも自分を愛しすぎることが,各人にとってそれぞれの場合に,すべての過ちの原因なのである。なぜなら,愛する者は愛の対象について盲目であり,自分のものを真なるものよりもつねに尊敬すべきだと考えて,その結果,正しいもの,善きもの,美しいものについての判断を誤るからである。」」(731D)

すべての悪のうちの最大のものは自己愛,悪くいえば自惚れと。最大,といわれてもあまりピンと来ませんが,確かに何か過ちがなされたケースを想像すると,根本にこれがあるのかもしれない,と思います。
この直後に,これが文字通りの「無知の知」,つまり『ソクラテスの弁明』で知られるいわゆる「無知の知」(または「不知の自覚」) ではなく,無知を知であるという思い込みをもたらす,ということが言われます。

この後暫くは快楽・苦痛・欲望という「人間的な側面」について語られますが (第5章),「大きな快楽を伴う小さな苦痛は望むが,大きな苦痛を伴う小さな快楽は望まない」など当たり前のことが書かれていて,特に目新しさはありません。またその後も,勇気・思慮・節制・健康というものが快苦の感情を減らす,ということが言われたりします(第6章)。この辺りは何となくアリストテレスの『ニコマコス倫理学』に似てきた,と思うのは気のせいでしょうか。

アテナイからの客人「さて法律の「序文」としてこれまで語られてきたことは,これで終りとしましょう。序文のつぎにはとうぜん法律 (ノモス) が来なければなりません。いや,より正確には,国家の法律の下図を描かなければならない,と言った方がむしろいいでしょう。織布やその他何にせよ,編んでつくられたものの場合,横糸と縦糸とは同じ種類の糸からつくることはできません。縦糸の材料はより優れた性質をもっていなければならないのです,――それは強くて,その性質に何かしっかりしたところがありますが,横糸の方はもっと柔かで,適当な順応性を持っています――。」(734E)

やっと序文が終わりました。第四巻では,説得的な序文に対して,本文は強制的であると言われていました。縦糸,横糸という例えは『政治家』篇を思い出しました。

アテナイからの客人「たとえば,国家の浄めについてですが,それはこんなふうにするのがいいでしょう。浄めの方法はたくさんありますが,あるものは穏やかであり,あるものは厳しいのです。同一人が僭主であるとともに立法者でもある場合には,厳しくて最善の浄めを行なうことができるでしょうが,立法者が僭主の権力を持たないで,新しい国制と法律を制定する場合には,浄めのなかで最も穏やかなものでも行なうことができれば,それだけでけっこう満足するでしょう。最善の方法は最良の薬と同様に苦いものです。それは罪を伴う裁判によって懲らしめるやり方であり,最高の罰としては死や追放を科すのです。というのは,最大の罪を犯した者で矯正不可能な者は,国家にとって最大の害悪として,排除してしまうのが普通だからです。」(735D)

「浄め」とは,この前に羊や牛の例もあるのですが,善いものと悪いものをふるいにかけるものというような意味で,今でいう刑法のことだと思いました。確かに刑事罰というのは,国家の構成員を選り分けるもの,という見方もできるのかもしれません (現代感覚でいえば,犯罪者にも人権はあるわけで,どうかなあと思ってはしまうところではある)。
立法者と僭主が,同一人である場合と別々の場合,で分けるのは何気に新鮮な気がしました。立法権と行政権という感じでしょうか。今で考えれば分かれているのが当たり前ですが,プラトンの著作で,これらを明確に区別して語るところがどのくらいあっただろうか,と思います。

アテナイからの客人「この国の市民になるために集まってこようとする人たちのうち,悪い人びとは,わたしたちはあらゆる説得の手段と充分な時間とをかけて,徹底的に吟味して,入ってくるのを防ぐでしょうし,善い人びとは,できるかぎりの好意と親切とをもって迎えいれることにするでしょうから。」(736C)

移民・難民問題を連想します。似たことをマルクス・ガブリエルが言っていました (『未来への大分岐』p.220)。

アテナイからの客人「改革者のなかには,自ら莫大な土地を持ち,数多くの債務者をかかえながら,正義感から,これらの困窮している債務者たちに対し,負債の帳消しとか土地の再分配とかによって,自分の持っているものを彼らと分かち合おうと欲する人びとが,必ずあるものです。このような人びとは,何らかの仕かたで中庸を堅持し,貧乏は財産を減少することにではなく,欲望を増大することにあると考えているのです。この考えが国家の安全の最大の基礎となり,それを確固とした土台として,その上に今後,上述の条件にかなったどんな国家構造をも建てることができます。」(736D)

ここの前半で言われているのは,現在の資本主義社会の格差で苦しんでいる人たちを何とか救えないか,と苦悩している政治家を連想します (現実に存在しているかどうかはともかく…)。つまりプラトンは既にそういった状況を想定していたのだと思います。「貧乏は財産を減少することにではなく,欲望を増大する」というのも,欲望に歯止めがかからない資本主義社会に対する新しい尺度の示唆にも読めます。
但し「負債の帳消しとか土地の再分配とか」が必要なのは,古くからある国家の場合の話で,新しい国家 (ここで言われている空想上のものも含む) ではそういった土地の権利の問題などはないとも言われています。
この後,5040 という数が急に出てきます。1~10のすべてで割り切れる数ということで,色々解説されますが端的に言うと分割の単位に便利ということだと思います。

アテナイからの客人「新しい国を最初からつくるにせよ,滅びてしまった古い国を再建するにせよ,神々と神殿とについて,つまり,それぞれの神のためにどんな神殿を国内に建立すべきか,またどんな神やダイモーンにそれを捧げるべきかについて,心ある人ならば誰も,デルポイやドドネやアンモンの神託が,あるいは古い言い伝えが,何らかの仕かたで――たとえば,神々がお姿をあらわされたとか,神々のお告げがあったとかいって――人びとに信じこませたものを,変えようと試みたりはしないでしょう。」(738B)

神々の伝統は変えないと。次に続きます。

アテナイからの客人「その目的は,それぞれの地域がきめられた時期に行なう集りが,あらゆる必要をみたす機会を提供し,また犠牲の祭りを通して,人びとが互いに挨拶をかわし,親しくなり,知り合うことにあります。国家にとって,市民が相互に知り合う以上に大きな善はありません。」(738D)

決められた時期の祭りというものが,「人びとが互いに挨拶をかわし,親しくなり,知り合うこと」を目的にしていると。これはしごくまっとうに思えますが,プラトンの著作に現れると妙に新鮮な感じもします。悪く言えば現世利益的というか。
それと,何か「定期的なもの」というのがあるとしてそれは何か?と考えると,そこ (「祭り」) に行きつくのか…?とも思ったところ。

アテナイからの客人「さて,法律の制定にあたって,わたしがつぎにとる手は,将棋で神聖線から駒を動かすように,普通行なわれない手ですから,初めて聞く人をおそらく驚かすでしょう。」(739A)

「将棋」と訳されたのは一体何なのでしょう?(ギリシア語を調べる能力と気力がちょっとありません…。)勿論,今の日本の将棋ではないのは確かですが。

アテナイからの客人「そこで,あの昔からの諺が国中で最もよく行なわれているところが,最善の国家であり,最善の国制,最善の法律なのです。その諺とは「まこと友人のものは共同のもの」というあれです。もしこのことが――つまり,妻たちが共同のものであり,子供たちが共同のものであり,全財産が共同のものであるということが――現にどこかで実現されているか,あるいは将来実現されるとするならば,そしていわゆる個人のものが,生活のあらゆる面から,あらゆる手段をつくして,すっかり拭い去られ,ほんらい個人のものとされるものでさえ,何とかして共同のものになるように,たとえば,目や耳や手が共同のものとして,見たり聞いたり働いたりするとみえるような,さらにすべての人が,同じものに喜びや悲しみを感じ,称賛にも非難にもできるかぎり一致するような,あらんかぎりの工夫がこらされるならば,つまり,何らかの法律が国家を可能なかぎり一つのものにつくりあげるならば,このことが法律の持つ卓越性の規準であって,何ぴともこれより正しく,これより優れた他の規準を定めることはできないでしょう。」(739C)

『国家』でも語られた,妻,子供,財産の共有が,最善であるということが改めて語られます。理想はやはりそこなのですね。しかも今回は,目や耳や手のような個人のものもなんとか共同のものになるような,さらに喜びも悲しみも同じになるようなものが「法律」の卓越性と。
法律というものが国家を決める,いいかえると国民1人1人を1つの法律に抽象化する,という見方もできるのかもしれません。仮にそうだとすると,人間1人1人が法律に近い,換言すると全体として分散が小さい,ことがよい国家・法律である規準になる,と言っているようにも思えます。まあ変化が少ない方が真理に近いというのはプラトンがずっと書いていたことですが。でも国民1人1人の幸福というものを考え,多様性を尊重し,その総和 (または総和ではない別の指標?) が国の利益であってほしい,と自分なんかは思うので全く賛同はできません。多様性を尊重するというのは,上述の言い方をすれば分散が大きくなるということで,やはりプラトンが書いている理想とは真逆なのでしょう。

アテナイからの客人「子供が生まれやすい人びとに対しては産児制限をし,反対の場合には,名誉や不名誉をあたえたり,年配の者の若者に対する警告の言葉によって戒めて,熱心に多産を奨励し,これらの工夫によって,わたしたちのいうところの目的を達成することができます。そしてそのようにしてもついに,五〇四〇という家の数を保つことがどうしても困難になったならば,つまり,夫婦の和合の結果,わたしたちの市民が増えすぎてどうしようもなくなった場合には,これまでにたびたび述べた,あの昔ながらの方策が残っています。つまり適当と思われる人びとを,送る方も送られる方も親愛の情をもって,植民として送り出すのです。」(740D)

人口を一定にするための方策が言われます。
今の日本では,少子化が叫ばれて久しいですが,だからといって国策として多産を奨励したりして人口を維持することは今後も恐らくしないし,さもないとこのまま国が亡びるとしても,亡びを選ぶという気もします。今の日本の「大衆」はその亡びより自由を守ると考えると思います。そう考えると日本も成熟しているなと思います (私が勘違いしてなければですが)。ただ「国」として困るのも確かではあり,その立場の本能的な面をプラトンが推量して描いている,と捉えることもできると思います。
それはともかく,人が増え過ぎたら植民として送り出す,というのは,「昔の先進国の植民地政策というのは,こういう側面があったのだろうか」と思いました。考えてみれば当然かもしれませんが。
この後で,逆に災厄で人口が減った場合には,賤民を市民に受け入れるべきとも言われます。

アテナイからの客人「何ぴとも個人的には金銀をいっさい所有することを許されませんが,日常の交換のための貨幣は別です。」(742A)

「財産の私有は禁止」と言われていたが,貨幣はよいと。自分には「財産=貨幣」という認識があったため割と新鮮です。

アテナイからの客人「わたしたちの言うところによれば,心ある政治家の意図するところは,大衆の主張とは違っているのです。大衆は,よき立法者とは,彼が叡知を傾けて立法するその国が,できるだけ大きく,また金鉱や銀鉱に富み,海陸ともにできるだけ多くの人びとを支配して,できるだけ富裕であることを意図すべきだと主張します。彼らはさらに,真の立法者は,その国が最も善く,最も幸福であることを意図すべきだと付け加えるでしょう。しかし,これらの意図のうちあるものは実現可能ですが,あるものは不可能なのです。ですから,国の建設者は,実現可能なものの方はこれを欲するが,不可能なものに対しては,空しい望みを抱いたり,実現を試みたりはしないでしょう。」(742D)

確かに現実の政治家を考えるとそうかもな…と思った一方,プラトンは理想を追求するのが哲学者であり,政治家でもあるべき,とも言っていたはずとは思います。
ただ,別に政治家が理想を持っていない,と言われているわけでもありません。あるいは,ここで言われているような「国としての大きさ・富の豊かさ」をもとより善いものと思うべきでない,ということでしょうか。
その後の「非常な金持ちが同時に善き人であることは不可能」という部分も面白いです。

アテナイからの客人「最大の病気,これは内乱とよぶよりは分裂とよんだ方がいっそう正しいでしょうが,この病気に冒されまいとする国家では,国民のどこかの部分に,極端な貧困や富があってはならないからです。この二つが内乱や分裂を生むのですから。」(744D)

アテナイからの客人「まず分配地の評価額を貧困の限界とすべきである。そしてこれは不変でなければならず,いかなる役人も,誰に対しても,その財産がこれ以下に下るのを見逃してはならない。また役人以外でも,有徳の評判を得たいと願う者は誰でも,同じようにすべきである。立法者はそれを尺度として,その二倍,三倍,四倍までは持つことを許す。しかし,もし誰かがそれ以上を所有するならば,財宝の発見によるにせよ,贈与によるにせよ,金儲けによるにせよ,あるいは何か他の類似の幸運によって限度以上を手にいれたにせよ,それを国や国の守護神に献ずるならば,彼は評判を保ち罪を免れるであろう。しかし,もし誰かがこの法律に従わない場合は,誰でも欲する者はそれを告発して,限度以上の財産の半分を貰うことができる。そして有罪とされた者は,自分自身の財産のなかからそれと同額を別に罰金として支払い,また,先の限度以上の財産の残りの半分は神々のものとなる。すべてに染みんの,分配地以外の全財産は公に記録され,法律の任命する役人の管理下におかれなければならない。」(744E)

前から私有財産の禁止ということは言われていましたが,ここを読むと完全なる平等を強制するわけでもないようです。が,分配地の評価額の4倍というリミットを設ける,という社会主義と資本主義の折衷案のようなことが言われます。
現代の感覚では,「なかなかすごいことを言っている…」という感じです。ただ現代における格差の問題が,(行き過ぎた) 資本主義に由来するものであること,政治とは資源を再分配するものであるということを考えると,一理あるという気もしてしまうのは確かです。

この後の部分(14章)では,都市を国土の中央に置き,他の国土も含め12分し,5040の分配地を配分する…という話が言われます。

アテナイからの客人「ところで,わたしたちはぜひとも次のことを考慮しておく必要があります。それはいま述べたいっさいが,言葉どおりすべて実現するような好機にめぐりあうことはとうていないだろうということです。」(745E)

アテナイからの客人「「諸君,以上の議論のなかで,いま言われた批判がある意味で真実であることに,わたしが気づいていなかったなどとは思わないでいただきたい。そんなことはないのだ。というのは,将来の計画をたてるときには,いつでも次のようにするのが最も正しいとわたしは思う。つまり,計画が目差すべき理想を示す者は,最も立派な,最も真実な点を何ひとつとして落としてはならず,他方,それらのうちに実現不可能なものがあることを発見した者は,それを脇にのけて実行せずにおき,残されたもののうち,理想に最も近く,なすべきものに最も似た性質を持つもの,それを実現すべく工夫をこらさねばならない。しかし,立法者にはその意図を最後まで語らせるべきで,それが済んだら,そのとき初めて,彼の立法の提案のうち,どれが役に立ち,どれが困難であるかを,彼ともども調べてみるべきである。」」(746B)

あくまで理想は理想で,現実には実現不可能なものもあると。これに似た言葉は『国家』でも言われていました。
ただ,理想があってこその現実,ということはぶれていないと思います。プラトンは「イデア」を棄てたとしても,「理想」を棄てたわけでは決してなかったのだと思います。かつ,現実に目を向けざるを得なかった。『国家』篇から『法律』篇まで,この両者に挟まれながら,最善の国家を目指したプラトンの苦悩を想像して余りあるところです。

アテナイからの客人「立法者たる者は,これらすべてに眼を向けて,すべての市民に,これらの数の与える秩序からできるかぎり外れることのないように命じるべきです。なぜなら,家政にとっても,国政にとっても,他のどんな技術にとっても,一つの教科として,数の学問ほど大きな力を持つものはないからです。その最大の利点は,生まれつき無気力で愚鈍な人間を目覚めさせ,理解力に富んだ,物覚えのよい,俊敏な者に仕立てあげ,この神的な術知のおかげで,彼が生まれつきの能力を超えた進歩をするということです。」(747A)

「12の部分への分割」が,土地だけではなく貨幣や固体や液体や重さの単位にまで影響を及ぼすが,それを理解するために数学への理解が必要,という意味で言われているのだと思います(但し,「ひとが卑しさと貪欲とを法律と慣習によって取り除くならば,立派な教科となる」が,そうでなければ「知恵の代りに奸智をつくりあげる」とも)。
あんまり厳密な意味は不明ですが同意したくなります。現代で言えば,数学に加えて哲学も加えてもよいのかも。いずれにしても,政治に携わる人,政治の意味を考える人,双方にとって,数学 (や哲学) (的な思考) が重要な役割を果たすと思います。ある事柄についてニュートラルな立場で「それは何なのか」と考えて説明できることは,政治に限らず全体の成熟につながるのではないか?と思います。そうでないと自社の製品がどういう技術に基づいているのかを知らず,ただ口先だけで売るようなものだと思います。

以上で第五巻は終了です。
プラトンは『国家』篇の後,理想の国家に対する考えが変わったと言われることが結構あると思いますが,ここを読むと,意外と変わっていないじゃん,という感想を持ちます。ただ「法律」というものを明確に背後に置いて語っているというところはそもそも異なります。
また「5040」という数字が出てきて,多用されているのも印象的です (『国家』でもいきなり調和級数が出てきたりしてましたが)。それが妥当かどうかは別にして,こういう法律とか政治を背負った内容でも,数学とか技術といったものを決して無関係なものとはせずに,「善さ」を説明するには必要である,という姿勢は全く以て共感します。当時は分ける理由がなかったのだと思いますが。

第六巻に続く。

プラトン『法律』第四巻メモ

プラトン『法律』(プラトン全集 (岩波) 第13巻) 第四巻を読んだときのメモです。

第四巻では,第三巻最後でのクレイニアスによる場面の転換を受けて,空想上の国づくりに着手していきます。しかしいつの間にか,最善の国制は何か?正義とは何か?万物は神が尺度であり,神に気に入られるにはどうすればよいのか?といった話になっていきます。
最後の方では,法律とは強制する内容か (単式),強制と説得を含む内容か (複式),といった話で具体例も挙げられます。

以下,読書時のメモです。

アテナイからの客人「まことに隣接している海というものは,その土地にとって,日々の生活には快適なものであっても,実情は,まったく「塩辛く苦い隣人」なのですからね。というのも海は,その土地を,貿易や小売りのあきないで満たし,ひとの心に,不正直で信頼のおけぬ品性を植えつけ,そのため国民は,お互いの間においても他国の人びとに対しても,ひとしく信頼を欠き,友愛を失ったものとなるからです。」(705A)

第三巻の終わりで「言葉の上で国家を建設する」と言われた流れで,まずどういう場所にその国家が存在するのか,ということが言われます。シムシティの最初に地形を自分を作るようなもので,『国家』よりも『クリティアス』を連想します。
そこでクレイニアスは,海から80スタディオン (14.5キロ),良港に恵まれ,資源にも恵まれ,急峻な地形の土地を想定します。それを受けてアテナイからの客人が言ったのが上記引用です。海の近くでは,どうも外の人間との交わりや交易による金銭のやり取りが多いことにより,品性が下がると考えていたようです。似たような理由で,資源も多すぎない方がよいと言われます。

アテナイからの客人「今度は,代ってあなた方のほうが,当面の立法にさいし,万一にもわたしが,徳を目差さぬものとか,徳の一部だけを目指すようなものを立法することがありはせぬかと,注意深く監視していてほしいのです。というのも,わたしは,次のような法律の制定だけが正しいものだと想定しているのですから。すなわち,なにか立派な結果が不断に付随してくるもの,ただそういうものだけを,ほかのもののなかから,あたかも弓を射る人のようにつねに狙い,それ以外のものは,たとえ富とかそれに類するものがたまたま得られようと,今言われた立派な結果が伴わぬかぎり,そんなものはいっさい無視してしまう,そういう法律なのです。」(705E)

立法というものが,徳の全体に着目してなされるべきである,という考えは第一巻で述べられていました。

アテナイからの客人「その習慣とはたとえば,たびたび船をはなれて打って出ては,再び素早く軍船に退却したり,また敵の攻撃にあったときに踏みとどまってあえて死を選ばないでも,いっこうに恥ずべきことを行なっているとは思わない習慣,いなむしろ,武器を捨てて,彼らの言う,かの「恥ずかしくない逃走」を行なおうとも,もっともらしい言い分けが,即座に生まれてくるような,そういう習慣ですね。」(706C)

海戦では逃走は恥ではない,というような慣習があったことを窺わせます。『楊令伝』で,海戦で船を失って河や海に飛び込んだ兵は敵軍であろうと討たない,という暗黙的なルールが描かれていたことを思い出しました。
さはさりながら,アテナイからの客人は,前に引用したように海の近くに国が位置することの弊害を強調したのと同様,基本的に海戦については見下すようなことを多々述べており,上記の慣習についても感心しないものと述べているし,ホメロスを持ち出して,海戦よりも陸戦の方が誉れ高いということを強調しています(706D)。またサラミスの海戦やアルテミシオンの海戦よりも,マラトンとプラタイアの陸戦の方が,ギリシアを救い立派にしたと言います(707C)。

アテナイからの客人「しかし,それはそれとして,とにかく目下わたしたちが,国土の性質や法律の組み立て方を検討しているのは,国制にそなわる徳を目標としてのことなのです。わたしたちは,世の大多数の人びとのように,ただたんに生きながらえてあることだけが,人間にとって,最も貴いことだとは考えません。むしろ,できるかぎり善き人となり,この世にあるかぎりそのようでありつづけることこそ,最も貴いことと考えています。」(707D)

ここはプラトンらしいですね。『クリトン』の引用が脚注にありましたが,「善く生きる」ということが,この遺作である『法律』で,ソクラテスではなくアテナイからの客人の口から言われることに意味があるという気がします。

アテナイからの客人「では,これにつづく問題をおっしゃってください。あなた方の国に入植するのは,どこの人ですか。」(707E)

土地を決めたら,そこに移住するということになります。この後,移民の種類 (例えば種族 (言語,宗教等) が一つの場合,バラバラの場合など) がいくつか想定されるところがちょっと面白いです。例えば一つの種族の場合は,まとまりはあるが,本国とは異なる新しい法律を受け入れるのは容易ではない。逆にバラバラの場合は,新しい法律を受け入れやすいが,まとまりができるには時間がかかる,など。これは根本的には,第三巻 (681A 辺り) でも話題になった,小さな集団が大きな集団になる時の折り合いの問題とも共通しそうです。

アテナイからの客人「わたしが言おうとしているのは,こういうことです。人間は誰ひとり,何ひとつ立法を行なっているのではない,むしろ,ありとあらゆる偶然や禍が,ありとあらゆる仕かたで起こってきて,それらが,人の世の立法のいっさいを司っているのだ,ということです。」(709A)

立法というのが外的要因によるもの,もっといえば「変化」によるもの,ということでしょうか。
但しこの後では,その偶然や外的要因を認めた上で,その上で真実や技術を身に着けた立法者が必要であると言われます。さらに,そのどうにもならない偶然を自分に有利にするための「祈願」の方法も必要と言われます。まあ偶然をどうにかできると本気でプラトンが考えたとも思えませんが,色んな事象についての原因を変数化して,最善の (利得を最大化する) 方法を追い求めているという印象があります。

クレイニアス「どうやら最善の国家は,僭主制から生じてくるとおっしゃっているようですね。ただし,最優秀の立法者と節度ある僭主とを伴う場合の僭主制ですが。そして,そういう状態から最善の国家への変化は,最も容易に,また最も速やかに行なわれると,おっしゃるのですね。また,つぎに容易な変化は,寡頭制からであり――いやそれともべつのご意見でもおありでしょうか――[さらに第三番目は,民主制からであると]。」
アテナイからの客人「いや,そうではありません。むしろ,その変化のいちばん容易なのは僭主制からで,二番目は,王制の国制から,三番目は,ある種の民主制からなのです。第四番目のもの,つまり寡頭制ですが,これはそうした最善の国家の誕生を,いちばんうけいれにくいでしょう。なぜなら,その国制においては,権力者が最もたくさんいるからです。いいですか,わたしの言わんとするところは,こういうことなのです。最善の国制への変化が実現するのは,真の立法者が自然の恵みによってあらわれて,しかも彼が国家最高の権力者たちとある種の力を共有する場合のことだというのです。そしてその権力者が,僭主制の場合のように,数において最少,力において最大である場合,まさにそのとき,その変化は,通常,速やかにかつ容易に行なわれるものなのです。」(710D)

「最善の国家は僭主制から」というのは,やはり『国家』とはかなり違いますが,実は同じという気もします。王制と僭主制の違いは?という問題もありますが。単純に権力者の力 (の絶対値) と数に着目して,力のベクトルの向きを考えていないところが『国家』との違いかな,と思います。この点は第三巻でも思った点です (693E 近辺)。「絶対値」に着目している限りは,『国家』と変わっていない,という仮説です。次の一節にも当てはまるかもしれません。

アテナイからの客人「つまり,一人の人間において,最大の権力と,思慮や節制の働きとが落ち合って一緒になるとき,そのときこそ,最善の国制と最善の法律の誕生が芽生えてくるのであって,それ以外の方法では,けっして生じてはこないのです。」(712A)

ここは有名な「哲人王」と変わらないですね。理想は不変?
実際,現代でも,民主主義は「一番マシな政体」と言われることはありますが,例えば専制君主がいて,その人の行動の動機が,現代における民主主義政体の一般市民の望み (分かりやすく言えば選挙で勝った政党の公約とか) とたまたま一致するとします。変な利権に満ちたり実は色々と偏りのある国会議員たちを通さずショートカットして実現してくれたら,そっちの方が民主主義を体現しているような気がします。それが完全に夢物語とも言い切れない気もします。ただ真逆になる可能性もあります。『国家』などで思った記憶がありますが,確率的な問題も多分にあるという気もします。

アテナイからの客人「それはね,あなた方,お二人ともがほんとうの意味での国制をもっておられるからですよ。これに対し,今しがたわたしたちの名づけたものは,国制ではありません。むしろ,自分たちのある部分を主人としてその支配をうけ,それに隷属している諸国家の暮し方にすぎません。」(712E)

この前で,クレイニアスとメギロスが,自分たちの国制が,民主制,寡頭制,貴族制,王制,そして僭主制のどれに当たるのか?とアテナイからの客人に聞かれますが,メギロスが色々例を挙げたあげく,はっきりとは限定できない…と答えたのを受けた言葉です。つまり「~制」という区分けは,三角形とか正四面体といったものと同じ空想上あるいは理想的なもので,現実にはそのまんまのものは存在しない,という感じでしょうか。
でも,考えてみれば日本も,天皇制 (=僭主制?王制?) ともいえるし,当然民主制でもありますが,実体は寡頭制・貴族制のようでもあります。ポリモルフィックで,色んな表出のされ方があり,本質は何なのだろう?と思ったりします。

アテナイからの客人「さきほどわたしたちは,共同体建設のことを詳しく語りましたが,その国家よりもなおはるか昔のクロノスの時代に,きわめて幸福な一種の統治,あるいは定住がなされていたと伝えられています。そして今日の国家のいかなるものにせよ,最もすぐれた仕かたで治められているほどのものは,その統治を模倣しているのです。」(713B)

洪水で世界が滅亡して,そこからの話は語られていましたが,それより前にそんな国家があったと。すべての国家はそこを模倣しているというほどの国家について,当然,この後語られます (が短い)。

アテナイからの客人「この物語は,今日もなお真実を保ちながら,こういうことを伝えています。神が,ではなく,誰か死すべきものが支配する国家は,いかなる国家も,不幸や労苦をまぬかれるすべはない,ということです。むしろ,わたしたちは,手段のかぎりをつくして,いわゆるクロノスの時代を模倣すべきであり,そして知性 (ヌゥス) の行なう規制 (ディアノメー) を法律 (ノモス) と名づけて,公的にも私的にも,わたしたちの内部にあって不死につながる [その知性という] ものに服しながら,国家と家をととのえなくてはならないということを,その物語は意味しているのです。」(713E)

クロノスはその国家の支配者として,人間ではなくダイモーンをあてがった,ということが前後で言われます。

アテナイからの客人「というのも,世の人の主張によれば,法律の着目すべき目標は,戦争でもなければ徳の全体でもない。むしろ,現今どんな国制がしかれているにせよ,その国制の支配が永久につづき,破壊されることのないようにと,その国制にとっての利益に,目を向けねばならないというのです。」(714B)

日本の「行政」というものを仮定すれば,まさしくその通りだなとふと思いました (現代と違って三権分立なんて当然ないと思われるので比較はできませんが)。しかし「立法」がその国の体制を維持することが目的になってしまうと,不幸なことが起こるという気もします。しかし次のも含めて,どうもリアリティを感じるところです。

アテナイからの客人「また,自然にかなった「正義」の定義としては,次のように言われるのがいちばんよい,というのです。」
クレイニアス「どのようにですか。」
アテナイからの客人「「正義」とは,強者の利益である,というように。」
クレイニアス「もうすこしはっきりおっしゃってください。」
アテナイからの客人「こう言えばよいでしょう。国家においてはいつでも,かならずや勝者が法律を制定するのだと,彼らは主張するのです。それとも,そうではないでしょうか。」
クレイニアス「お言葉のとおりですね。」
アテナイからの客人「そこで,彼らはこう主張するのです。民衆が――いや,これは何か他の国制でも,あるいは僭主でもいいのですが――勝利をおさめた上で法律を制定する場合,その支配権が持続するようにという自分自身の利益以外に,彼らがみずからすすんで第一番の目標と定めるものが,なにかほかにあると思うか,と。」
クレイニアス「どうしてそんなものがあると思われましょうか。」
アテナイからの客人「したがってまた,その制定されたことを誰か犯すような者がでてくると,制定者は,その制定されたことを「正義」と名づけ,その者を,不正を犯すものとして,懲らしめるのではありませんか。」(714C)

一旦権力を握った支配者が,その権力を持続させることを目的化し,「正義」となしてしまう…。これは非常にありそうなことですが,自分のようなサラリーマンも無縁ではないという気もします。日々働いて給料を貰っているという現状維持のため,会社を絶対視して,会社のためと思いこんで不法や不正を働く,ということも,ありそうな話です。支配者といえども,近視眼的には同じような心持ちに反射的になりがちなのかもしれません。それが積み重なって「正義とは強者の利益」となると考えると,多少は同情的にもなります。
それにしても,「正義とは強者の利益」論については『国家』第一巻でのトラシュマコスの激しい言説を思い出すところです。ただここでは,体制の維持を「正義」と結びつけているのがちょっと印象的なところです。

アテナイからの客人「しかし,わたしたちは今こう主張します。そのようなものはもとより国制ではないし,また,国家全体の公共のためを目的として制定されていないような法律は,まことの法律ではない,と。さらに法律が,一部の人のために制定されるような場合,そうした一部の人は,党派者ではあっても市民ではなく,また,彼らが言うところの,それら法律の正しさなるものは,空しい言葉にすぎないとも,主張します。」(715B)

アテナイからの客人は,まるでソクラテスが乗り移ったかのように決然と言います。力を持っていたとしても,その力を国家全体のために使うために法律を制定するべきであると。
このあと支配者は「法律の従僕」という話もあります。国家における憲法とは,権力を縛るためのものである,という現代でいう「立憲主義」を連想する下りです。

アテナイからの客人「「さて,われわれ人間にとっては,万物の尺度は,なににもまして神であり,その方が,人びとの言うように,誰か人間が尺度であるとするよりも,はるかに妥当なことなのである。」」(716C)

植民者たちに呼びかける,という形になっているので,かぎかっこを二重にしています。
「万物の尺度は,なににもまして神」という箇所は,全集の傍注に「『法律』全巻の根本となる,最も重要な命題」と書いてありました。直接的には首をかしげたくなる部分でもありますが,完全な「神」を措定することで,人間の不完全さを常に前提として立てる,ということなら分かる気もします。
この後,神々に気に入られるような条件が語られます。神々に犠牲や祈りをささげることも当然言われますが,両親への敬いということも,やや意外ながら?重く語られます (意外というのは,「孝」という儒教的な観念を連想する一方,無条件に親や年長者を敬えということはあまりプラトンは書いていなかったと思うので)。『エウテュプロン』で,殺人で親を訴えようとしたエウテュプロンをソクラテスがたしなめる場面をちょっと思い出しました。

アテナイからの客人「「しかし立法者には,法律のなかで,こうしたこと,つまり,一つのことがらについて二つの説をなすということは,許されてはいない。立法者は,一つのことがらにはいつも一つの説を,明らかにしなくてはならない。」」(719D)

アテナイからの客人「「だが,あなたの方は,適度を口にするとき,今しがたのような話し方で,言うべきではない。むしろ,適度とはどういうものなのか,どれだけの量なのか,ということを言わなくてはならない。さもなければ,そうした説は,まだ法律とされてはならないと考えてもらいたい。」」(719E)

ここは詩人 (に成り代わったアテナイからの客人) が立法者に問いかける,という場面なのでかぎかっこを二重にしています。
この前で,詩人は「湧き起こってくる思いを泉のように流れるにまかせている」ため,真実を知らずにいる,ということが言われます。やはり詩人に対しては厳しいですね。しかしその反撃として,では逆に一つに定まるような説を表すための「適度」というものはどういうものか?ということを問いかけます。
「適度」とはどういうものか,というのは第三巻でも,民主主義と君主主義の適度な混合がよいと言われていましたが,妥協という印象はありました。でも「適度」とは何か?が分かればそこは解決するかもしれません。

アテナイからの客人「世の中には,医者もいれば,医者の助手もいます。しかしその後者をも,わたしたちはむろん医者と呼ぶでしょう。」
クレイニアス「もちろんです。」
アテナイからの客人「つまり後者は,自由民であろうと奴隷の身であろうと,医者と呼ばれるわけです。しかし[奴隷の医者 (助手) の方は],主人の指示,観察,経験にもとづいて,その技術を身につけているのであっても,自由民がみずから学ぶときや,自分の弟子たちに教えるときのように,ものごとの本来のあり方に則ってするのではありません。いわゆる医者と呼ばれている者に,以上の二種類があることを,あなたは認めますか。」(720A)

自由民的な医者と,僭主的な (奴隷出身の) 医者という対照が語られます。この後で具体的に説明がされますが,説明もせず横柄な態度で診て処置を施す僭主制的な医者と,よく説明し同意の上で治療を行なう自由民的な医者という感じで語られます。これはすぐ後の「説得」と「強制」(または「威嚇」)の伏線になっています。

アテナイからの客人「よりすぐれた医者なら,これらのどちらの方法で治療を行なうでしょうか。またよりすぐれた体育教師なら,どちらの方法でその訓練を行なうでしょうか。両様の方法を使いながら,一つの医療の効果をあげるのでしょうか。それとも,どちらか一つの方法,しかも二つのうちのより劣った方法で,病人の気持を扱いにくくしながら,行なうのでしょうか。」
クレイニアス「それはあなた,複式の方法を用いる方が,はるかにすぐれているでしょう。」
アテナイからの客人「では,もしよろしければ,その複式のやり方と単式のやり方を,立法の場に適用してみて,それぞれを考察してみようではありませんか。」(720E)

ということで,前述の医者の例だとどちらが優れているか?という話になります。アテナイからの客人が,「両方か,それともより劣った方か」と問うのもちょっと変わっていますが…(より優れた方,というのがない)。
また突然「複式」「単式」という言葉が出てきます。簿記か?と思いました。
この後で,結婚に関する法律の単式と複式の例が語られます (この内容もぶっとんでいるのですが)。複式というのは,「こういう理由なので,こういう内容を守らないと,こういう罰を科す」という説得と威嚇 (強制) の両方が書かれ,単式は,「こういう内容を守らないと,こういう罰を科す」という威嚇 (強制) のみが書かれている,ということのようです。

アテナイからの客人「こうした事情があるにもかかわらず,立法者の誰ひとりとして,いまだかつて心にとめていないと思われる事実があります。立法のためには,説得と共生という二つの方法を,たとえ教養のない大衆を相手にする場合に許される範囲内にせよ,その二つの方法を用いることができるにもかかわらず,一方の方法しか用いていない,という事実です。つまり彼らは,説得の上に強制を混ぜながら立法しているのではなく,ただひたすら強制だけにうったえて,立法しているのですからね。」(722B)

単純に考えて,法律に,なぜそういう法律を作ったのか,なぜ違反すると罰を与えるのか,と付記する (かつ公開される) ことは,後になってその法律の妥当性を検証する際に有用になると思います。法律が時代に合わなくなる,というのはよくありますからね。
悲しいかな,私は法律というものを読んだことが殆どないので,現代の日本における法律が,ここで言う「説得と強制」両方を含むのか,「強制」だけなのか,というのを知りません (この後でも語られるような,前文・序文というものがあって,そこに「説得」の内容が書かれているのが一般的かな?と想像していますが)。
反対に,「強制」しか書かれない法律というのを想像すると,「民は由らしむべし,知らしむべからず」という『論語』の (誤った解釈の?) 一説を思い出しました。当時はみなそうだったとありますが,近代までそういう意識が普通だった,というのは歴史を少し考えれば納得できます。
その意味では,(法律に限らないとも語られているのを含めて) こんな昔からそれを指摘していたプラトンの慧眼は,さすがだと思います。

アテナイからの客人「つぎにわたしが言いたいと思っていることは,何だとお考えになりますか。それはこういうことです。立法者たる者は,いっさいの法律に対して,つねにそれを序文抜きのものにすべきでないのはもとより,個々の条項の場合においても,そうしてはならない,ということです。というのも,そうすることによって,ちょうど先刻 [一例として] 話された二つの法律の相互の間に優劣が見られたように,それと同じだけの優劣が,両者の間で見られることになるでしょうから。」(723B)

法律には序文が必要であり,それは「説得」的なものという位置づけが語られます。かつ,序文にとどまらず,個々の条項についてもそうあるべきと言われます。
ソフトウェア開発の世界の話ですが,ふと Knuth の「文芸的プログラミング」というものを思い出しました。私も昔の本で言及されているのを読んだだけで詳しくは知らないのですが,それはソースコードの1行1行に対応するドキュメントが常にあるようにし,同時に更新していく,というものだったと思います。現実には,なぜそうなっているかというドキュメント (ソースコードのコメント含む) の重要性はよく言われますが,文芸的プログラミング自体はいささか過激で,実際には行なわれていないと思います。他の例で言うと,料理のレシピのそれぞれの手順に,なぜこの材料を使い,分量はこれくらいなのか?ということを常に一緒に書くみたいなものでしょうか。
ここで言われている,常に「説得」を併記するという話は,いわば「思考 (意思決定) プロセスの見える化」にもつながってくる話なのかなと思います。一般論としては程度問題だろうと思われ,法律の各条文がこうあるべきか?は分かりませんし,実際そうなっていないと思います。でも本当はそうあるべきかもしれない,とも思います。プラトン流の「理想」と考えればよいのでしょうか。

クレイニアス「あなたのおっしゃるとおりだと思われます。しかし,それはそれとして,あなた,わたしたちはもうこれ以上,ぐずぐずしながら時を費やさないようにしましょう。むしろもう一度本論に立ちもどって,あなたさえよろしければ,さきほどあなたが,序文としての建前をもってではなしに話しておられたあの箇所から,はじめましょう。」(723D)

アテナイからの客人「すると,神々や神々のあとにつづく者たち,および,存命中の,あるいは他界した親たち,それらに関しては,今も言うように,あのとき充分にわたしたちはその序文をつけたというわけですね。そこであなたは,この序文のうちでなお言い残されているものを,いわば明るみに出すように,命じておられるものと見うけられます。」
クレイニアス「まったくそのとおりです。」
アテナイからの客人「わかりました。では,それらにつづく問題は,自分自身の魂や身体や財産に関し,それに払うべき努力,また控えるべき努力の限度はどのようであるべきか,ということです。」(724A)

ということで,また退屈な話に戻るようです(汗)。本対話篇は「3歩進んで2歩下がる」ということを延々とやっている感じですね。

第四巻メモは以上。
法律というものが,(1)単に「強制」のための内容なのか,それとも (2)「強制」と「説得」を含む内容なのか,というのは興味深い話でした。法律を,単に執行されるものだと考えると (1) でも違和感が少ないのかもしれませんが,自分が立法に関わりかつ執行もされる,というケースを考えると (2) のようになっているべきだ,と思う気がします。日本の民主主義は,本来,選挙権のある全国民が立法に関わっていることになるはずなので,(2) であるべきでしょうか。それとも,殆どの法律が官僚によって作られる現実に即すと,(1) でもいいのでしょうか。
また,では今の日本の法律はどちら側なのか?と思った時,自分が法律というものを殆ど読んだことがないことに気づきました。実際に読んでみて,ここで言われているようなことが当てはまるのかどうか?ということを確かめないといけませんね。

プラトン『法律』第三巻メモ

プラトン『法律』(プラトン全集 (岩波) 第13巻) 第三巻を読んだときのメモです。

第三巻では,国の成り立ちや国制についての話に入ってきます。そうなると当然『国家』や『ポリティコス(政治家)』が連想されます。それらとは何がどう違うのか,或いは違わないのか。
またギリシアとペルシアの歴史についても語られます。高校の世界史に出てきたような言葉も多く出てきますが,それがこの対話篇当時にも歴史として知られていた,というのはちょっとした感慨があります。

以下,読書時のメモです。
ちなみに第三巻はメモは1ページだけにしたのでかなり長くなりました…。

アテナイからの客人「この問題は,これですんだことにしておきましょう。さて,国制の起源ですが,それはそもそも,どこにあったと言うべきでしょうか。思うに,こういうところから考察すれば,最も容易に,最も見事に,それを考察できるのではないでしょうか。」(676A)

なんだか唐突に国制の起源に話題が移るようです。「こういうところ」というのは,「時間の無限の長さと,そのなかで起こるさまざまの変化」と直後に言われます。

アテナイからの客人「ところが,その期間には,幾万ともかぞえきれないたくさんの国家がつぎつぎ生まれ,またそれと同じ割合で,それに劣らぬ数の国家が滅亡したのではないでしょうか。さらにそれらの国家では,繰り返しいたるところで,ありとあらゆる国制が採用されてきたのではありませんか。それは,ときには小さな国家から大きな国家へ,ときには大きな国家から小さな国家へ,また,すぐれた国家から劣った国家へ,劣った国家からすぐれた国家へと,変化してきたのではありませんか。」
クレイニアス「とうぜんのことです。」
アテナイからの客人「そこでわたしたちは,できれば,そうした変化の原因を把握してみようではありませんか。というのも,おそらくそれが,国制のそもそもの成立と推移を,わたしたちにあきらかにしてくれると思いますから。」(676B)

プラトンが生きていた当時でも,「幾万ともかぞえきれない」国家が過去にあった…これは一種の詠嘆でもあると思いますが,2,400年後である現代でもそんなにスケールが変わっていないような気もします。
国制については『国家』『ポリティコス(政治家)』でも論じられたと思いますが,ここでは帰納的というか,歴史上の国家に対して反映や滅亡の原因を分析して,その「変化」をもとに,すぐれた国家になる条件を得ようとしている,というところが新しいという気がします。こんなところでも,前2篇よりも現実的になったのかな?と思うところではあります。
この後,「大昔に洪水のために生じた滅亡」がテーマになり,国家,国制,立法,徳と悪徳などの記憶も全て失われてしまい,何もないところから,またそれらが生じてきた (長い時間を必要とした) 過程が語られます。ちょっと『国家』第2巻~の流れを連想します。

アテナイからの客人「したがって,内乱も戦いも,その期間は,いろいろな理由から消失していたわけです。」
クレイニアス「どんな理由ですか。」
アテナイからの客人「まず第一に彼等は,荒涼としたところにいたので,お互いにやさしい気持を抱き,親切を示し合っていました。つぎに食糧は,彼らが争って手に入れねばならぬものでもありませんでした。」(678E)

アテナイからの客人「しかし富も貧しさも同居していないような共同体にあっては,おそらくこの上ない高雅な性格が生まれてくるでしょう。なぜなら,驕慢も不正も,羨望も嫉妬も,そこには生じてこないからです。」(679C)

アテナイからの客人「そこでわたしたちは,こんなふうに言ってもよいのではないでしょうか。こういう仕かたで生活を送ってきた多くの世代は,洪水以前の世代や今日の世代にくらべて,きっとその技術もつたなく,知識も乏しいものであったにちがいない。他の技術もさることながら,とりわけ今日陸上海上で見られる戦争の技術や,また,その場所を国内にかぎっての戦争の技術,――いわゆる訴訟,内乱のごとく,悪事と不正を互いに働き合う目的で,言葉と行為のいずれによっても策略のかぎりを工夫しているような――,そういう戦争の技術に関しても,乏しいものであったにちがいない。しかし他方,それだけにいっそう人が好く,勇気もあり,またいっそう思慮深く,あらゆる点ではるかに正しくもあったと。」(679D)

洪水で世界がリセットした直後からの話ですが,一見してポジティブな言葉が並んでおり,平和なイメージが湧きます。
初期のプラトンの対話篇,「~とは何か」の追求が行われる場面を何となく思い出します。こういう素朴な生き方をしていた頃から変わっていないことを大切にする…ということは,プラトン対話篇に通底していることのように思います。

アテナイからの客人「さて,わたしたちが以上のことを話題にし,さらにそれにつづくことすべてを話そうとしているのも,その目的は,次のことにあるとしなくてはなりません。当時の人びとにとって,どうして法律が必要となったのか,また,彼らの立法者は誰であったのか,ということを理解するためなのです。」(679E)

法律が導入される前の世界は一種の「モナド」だったのかもしれないと思います。そこに法律という「窓」が必要になったのは何故か?ということがここから語られるようです。

アテナイからの客人「そうした時代の国制は,一般に家父長制 (デュナステイアー) と呼ばれているように思われます。」(680B)

アテナイからの客人「するとそういう国制は,滅亡がつづく困窮状態のため,一軒一軒ごとに分散してしまった者たちの中から,生じてきたのではないでしょうか。その国制にあっては,最長老の者が支配権を握っているのですが,それはその支配権を,父あるいは母から譲りうけたことによるのです。そして [それ以外の者たちは],その長老に服従し,鳥たちのように一つの集団をつくっているのですが,それはつまり,家長の支配に従っているのであり,あらゆる王制のなかで,最も正当な王制の姿をとっているのです。」(680D)

確かに何も無い状態では,身内・家族の年長者が支配権を持つところから始まるという気もしますし,「自然的」という気もします。しかし,完全にニュートラルな状態で,自然と理性に従って,誰が誰に従うべきか?と考えると意外と奥深い問題という気もします。そしてこれは後で (689E以降) 言われます。

アテナイからの客人「さて,その次の段階では,もっと大勢の者たちがひとところに集合し,もっと大きな集団 (ポリス) をつくります。そして,初めて山麓で農耕に向かい,また野獣たちを防ぐための防備の城壁として,粗石だけの一種の囲いをつくるのです。こうして今度は,共有の一つの大きな家をつくりあげるのですね。」
クレイニアス「そのようになるのが,おそらくとうぜんでしょうね。」(680E)

次の段階です。

アテナイからの客人「その大きな家が,初めの小さなものからしだいに大きくなってくる場合,それぞれの小さな集団は,一族ごとに,最長老の支配者と若干の風習――それらは互いの暮し方が隔たっているために,それぞれに固有のものとなっていますが――をたずさえてきます。その風習が固有であるというのも,神々と自分自身に関して彼らの風習としているものが,彼らを生んだ者,育てた者の異なるに応じて異なっており,節度あるものからは節度ある風習が,勇敢なものからは勇敢な風習が,生まれているからなのです。このようなわけで,とうぜんそれぞれの部族は,自分の性向を,その子供や,子供の子供に刻みつけながら,今も言うように,それぞれ固有の掟をひっさげて,より大きな共同体のなかへはいってくることになるのです。」
クレイニアス「どうしてそうでないことがありましょう。」
アテナイからの客人「さらに,それぞれの部族にとって,自分たちの掟は好ましく思われるが,他のものの掟は二次的なものになるのも,やむをえないことでしょう。」
クレイニアス「そのとおりです。」
アテナイからの客人「ではどうやらわたしたちは,知らぬ間に,立法の源に足を踏みいれたようですね。」
クレイニアス「まことにそのようです。」(681A)

ここは今を生きる人間にとってもかなり核心的なことを言っているように思えました。小さな集団が集まって大きな集団になるときに (会社の合併とか,部署の統合とか,あるいは (個人が最小の集団と考えれば) 自分がなにがしかの集まりやサークルに属する場合など,なんにでも当てはまると思います),それぞれの風習や掟が,互いに異なる場合にどうするか。これにどう折り合いをつけるかが,「立法の源」であると示唆されています。こういう誰しもが厄介な問題として直面した経験があることが,立法術の延長線上に位置づけることができる,というのは言われてみれば尤もかもしれませんが言葉にされると新鮮で,プラトンを読む甲斐があると思う瞬間です。

アテナイからの客人「わたしたちは,議論が横道へそれたものだから,さまざまの国制や建国の間をぬってくわしく調べてきたおかげで,それだけの儲けものをしているわけです。わたしたちは,一番目,二番目,三番目の国が,かぎりなく長い時間の間に,思うに,相ついで建国されていくさまを観察してきました。ところが今や四番目のものとして,このラケダイモンの国が――もしお望みなら,民族といってもよいのですが――建国当時の姿を保ち,しかも今は建国を終えたものとして,わたしたちの前に登場してきたのです。」(683A)

一番目,二番目,三番目の国というのは,ここまで話されてきた家父長制 (デュナステイアー),それが集まったもの,そしてその後でさまざまな国制を内包した国制,ということになるようです。この後は (現存の) ラケダイモンの国の成立が話されることになりますが,起源としてはアルゴス,メッセネ,ラケダイモンという3つの国に分かれて建設されたようです。

アテナイからの客人「したがって,そうした備えが将来堅固なものとなり,長期間存続するだろうと当時の人びとが考えたとしても,それはとうぜんのことではなかったでしょうか。それというのも彼らは,互いに数々の苦労と危険をわかち合いもしてきたし,また兄弟を王にいただき,一族によって治められもしてきたのですから。その上さらに,数多くの予言者たち,とりわけデルポイの神アポロンに,おうかがいを立ててきたのですからね。」
メギロス「彼らがそう考えるのもとうぜんのことです。」
アテナイからの客人「ところが,それほどの大きな期待も,今しがた言ったように,その小部分であるあなた方の領土を除いては,どうやら当時,間なしに消え失せたようです。しかもその小部分がまた,今日にいたるまで,他の二部分との争いを,かつてやめたことがありません。これがもし,かりに当時の意図が実現され,みなが和合して一体となっていたのなら,戦いにおいて,それこそ不敗の力を保っていたことでしょうに。」(685D)

かなり省きましたが,3つの国は連携して異国への軍備なども万全であったにもかかわらず,1つの国を除いては亡びたそうです。それがこの後で述べられます (引用は略)。

アテナイからの客人「ではどうでしょう。今の議論によって明らかにされたことこそ,だれにも共通した一つの欲望の形なのでしょうね,議論そのものがそう主張しているように。」
メギロス「どのようなことでしょうか。」
アテナイからの客人「わが魂の要求するままに事が行なわれてほしい,ということです。できれば事のいっさいが,さもなくば,せめて人間にかかわりのある事だけなりとね。」(687C)

ここもかなり省いていますが,軍備にせよ富にせよ,それを所有して何かをなすことが目的ではなく,「所有者がそれを用いることで,自分の欲するもの・ことを手に入れる」ということが潜在的にはそもそもの目的である,ということ?

メギロス「あなたの言おうとしておられることがわかりました。ひとが祈り熱望しなくてはならないのは,万事が自分の願望のままになるということではなく,それよりはむしろ,願望が自分の叡知 (思慮) に従うように,ということでなくてはならない。そしてこの,「知性が身にそなわるように」ということこそ,国家にせよわたしたちの誰ひとりにせよ,祈り求めなくてはならないことなのだ,――こういうことを,あなたは言おうとしておられるように思われます。」(687E)

アテナイからの客人「王たちが没落し,その意図したこともすっかり崩壊した原因は,臆病にあるのでなければ,支配者と支配さるべき者たちが,戦争に関することがらに精通していなかった,ということにあるのでもない。むしろ,それ以外のあらゆる悪徳によって破滅したのであり,とりわけ,人間にかかわりのあることがらのうち最も重要なことがらの無知のために,破滅したのだということです。」(688C)

王の没落,国の崩壊が「人間にかかわりのあることがらのうち最も重要なことがらの無知」のために,4つ存在している徳のうちの戦争とか臆病に関するもの以外に決定的なものがあると。これは前の引用の部分でもありましたが,国を動かすということでも潜在的にはその権力者の欲求によって動かす,ということから個人の徳がそもそもの原因となる,ということでしょうか。

アテナイからの客人「それでは,どんなものが,最大の無知と言われてふさわしいのでしょうか。あなた方お二人とも,わたしの言葉に賛成されるかどうか,考えてみてください。わたしとしては,次のような無知を,それと見なします。」
クレイニアス「どのような無知でしょうか。」
アテナイからの客人「自分ではあるものを,美しいとも善いとも思っているのに,それを愛さずにかえって憎み,反対に,劣悪で不正と思っているものを,愛し迎える,そういう場合の無知なのです。このように,快楽と苦痛が,理 (ことわり) にかなった思わくとの間できたす不調和を,わたしは無知のきわみであると主張します。」(689A)

自分が善いと思っているものと反対のものを愛すのが,ここでの「無知」ということが言われます。快楽と苦痛が,理にかなった思わくとの間できたす不調和…というのも,誰にでも反省することがあると思います。
国家でも同じことで,「大衆が支配者と法律に従わない場合」がそうなると。

アテナイからの客人「それでは,この点については,こういう決定がくだされ,告示がなされたものとしてください。すなわち,以上に意味における無知な市民には,支配権にかかわることは何ひとつゆだねてはならない。むしろ,たとえ彼が,いかに利害の計算にすぐれていようとも,またすべての気のきいたたしなみや,理解の敏捷さにかかわるようないっさいのことに,いかに骨身をけずっていようとも,無知の者としてこれを非難しなくてはならない。他方,これと反対の状態にある者は,たとえ彼らが,俗に言う「読み書きも泳ぎの心得もわきまえぬ」ものであれ,彼らを呼ぶに知者の名をもってすべきであり,またあらゆる支配権を,思慮ある者としてこれにゆだねなくてはならない,という決定です。」(689C)

アテナイからの客人「さて,国家にはかならず,支配者と被支配者とがいなくてはならないでしょう。」
クレイニアス「言うまでもありません。」
アテナイからの客人「よろしい。そこでつぎに,大国小国を問わず,また,家の大小においても同様に,支配し支配される資格には,どのようなものがあり,またどれほどの数があるのでしょうか。」(689E)

この後,支配者と被支配者になるべき組がつぎつぎ言われます。少し前のコメントで予告した部分ですが,まとめると (1) 親ー子供,(2) 高貴ー卑賎,(3) 年長者ー年少者,(4) 主人ー奴隷,(5) 強者ー弱者,(6) 思慮ある者ー知識のない者,(7) 籤に当った者ー外れた者,の7組です。それぞれ同等というわけではなく,それぞれに補足を加えながら (6) が最大のものであると言われます。
一見して (7) 籤に当った者ー外れた者,というのが異色です。「神に選ばれし者」だからとも言われますが,今の日本でも議員選挙で同票なら籤引きで決めたりするのを思い起こしました。

アテナイからの客人「彼らは,かのヘシオドスが『半分はしばしば全体よりすぐれている』と適切にも語っていることに,思い及ばなかったのではないでしょうか。ヘシオドスはこう考えていたのです。全体を獲得することは破滅を招くが,半分なら適度だという場合には,いつでも,適度の方が適度を超えたことよりもはるかにすぐれている。なぜなら,前者はより善いこと,後者はより劣ったことであるから,と。」(690E)

『仕事と日々』からの引用らしいです。中間性を善とした,アリストテレス『ニコマコス倫理学』を連想します。

アテナイからの客人「つぎに,第三番目の救い主は,お国の支配権が依然として乱れを見せ,血気にかられているさまを見て,いわば馬銜を噛ませるように,監督官 (エポロス) の権力を,籤による職権に準じたものとして導入しながら,それに配したのです。」(692A)

スパルタ建国時,なぜ生き残ることができたか?ということが神の力という文脈で語られる部分です。少し前の支配者ー被支配者の関係の「籤に当たったものと外れたもの」を連想します。第3番目と言っていますが,第1番目は王の家系を双子にする (権力を2つに分ける),第2番目は長老会のような有識者会議を作って権力を30人に持たせたことを言っています。

アテナイからの客人「このような点が,クレイニアスにメギロス,古今のいわゆる政治家や立法者たちに対して,わたしたちの非難しうる点なのですが,そのわたしたちの目的は,彼らの失敗の原因を探究することによって,それとは別の,どのような処置をとるべきであったかを,発見することにありました。その処置とはまさしく,今しがたわたしたちの言ったことにほかなりません。つまり,強大な支配権や混合の形をとっていない支配権を,立法によって設立してはならない,ということです。それというのも,わたしたちの意図によれば,国家とは自由なもの,思慮あるもの,みずからのうちに友愛を保つものでなくてはならず,立法者たる者,よくその点に着目して,立法しなくてはならないからです。」(693A)

前半の「失敗」とは,少し前に述べられた「マラトンの戦い」のことのようです。

アテナイからの客人「では聞いてください。国制には,いわばその母ともいうべき二つのものがあり,他の国制は,そこから生まれてきたと言って,まず正しいでしょう。そして,その一方を君主制,他方を民主制と呼ぶのがよく,前者の頂点にはペルシア民族が,後者の頂点にはわたしたち (アテナイ) が立っていると言ってよいでしょう。」(693D)

アテナイからの客人「ところが,今の二国のうち,その一方 (ペルシア) は君主主義を,他方 (アテナイ) は自由主義を,それぞれただそれだけを,必要以上に偏愛し,どちらの国も両者を,適量に保持してはいなかったのです。だがあなた方の国制,つまりラコニア (スパルタ) とクレテの国制は,その点でもっとうまくいっています。」(693E)

君主主義と民主主義を適量に保持するのが理想の国家,と言っていると思います。この辺りは『国家』篇とは結構異なった印象を受けます。というのは『国家』篇での国制は,(ここで言う) 君主主義が強いものとして,優秀者支配制と僭主独裁制を併置していました。また君主主義が多少弱まって民主主義が多少強まったものとしても,貴族政と寡頭制を併置していました。そして民主主義が強いものを民主制としていました。つまり,2次関数の頂点のようなものが民主制で,それよりずっとプラスにいけば貴族政~優秀者支配制,ずっとマイナスにいけば寡頭制と僭主独裁制…というイメージがありました。
しかしここでは,君主主義と民主主義は直線の反対方向に向かうもののように連想されます。つまり1次的で,第3の方向に膨らむものがない,という感じがします。
この後,ペルシアの王3代について言われます。特に,教育がうまくなされなかったので次の代の王で亡んだ,ということが言われます。

アテナイからの客人「まことに,いやしくも国家においては,誰かが並はずれた富をもっているという理由で,格別の名誉があたえられたりしてはならないのです。それはちょうど,もし徳に欠けるところがあれば,たとえその人の足が速く,容姿が美しく,また力が強かろうと,そのために格別の名誉があたえられてはならないし,たとえ徳があるにしても,もしそれに節制が伴わなければ,あたえられてはならないのと,同じことなのですから。」(696B)

わりと印象的な言葉です。この後,「節制が伴わなければ」の部分にメギロスが食いつき,この話題がしばらく続きます。

アテナイからの客人「節制が他のすべての徳から切り離され,ただそれだけが魂にそなわった場合,それは名誉なものと見られて正しいのでしょうか。それとも不名誉なものと見るべきでしょうか。」
メギロス「どう答えるべきか,わたしにはわかりません」
アテナイからの客人「ところが,そのあなたの答えこそ,まことに適切なのです。(略)名誉や不名誉の対象となるものにただ付随するだけのもの,そういうものは,言葉に出して言うべきではなく,言葉には出さず,黙っておく方がふさわしいのですから。」(696D)

節制とはそれ単独では意味をなさないが,徳や悪徳に付随してそれを増幅するものであると言われていると思います。『カルミデス』篇を思い出しました。

アテナイからの客人「では,わたしたちは言います。思うに,国家は,もしそれが人間の力に許されるかぎり安全に保たれ,幸福であろうとするなら,ぜひとも,名誉と不名誉の配分を正しく行なわなくてはならない。ところで,その配分の正しさとは,魂に属する善きもの――その魂には節制が伴う――が,最も貴いもの,第一位のものと見なされ,つぎには,身体に属する美しいもの,善きものが,第二位,さらに,いわゆる財産や金銭に属する善きものが,第三位,というように見なされることである。反対に,立法者にせよ国家にせよ,金銭をとくに重んじて名誉の地位に上げたり,あるいは,名誉の点で下位のものを上位に位置づけたりして,以上の順位から逸脱する場合には,その行ないは,神を敬うものでも,政にかなったものでもないことになるであろう。」(697A)

魂→身体→金銭,の順で名誉なものと言われます。
この後,「あまりにも民衆から自由を奪い去り,限度以上に専制的要素を持ち込み」などによるペルシアの凋落と民衆のモチベーション低下の様子も語られます。

アテナイからの客人「他方,アッティケの国制についても,つづいて同じような仕かたで,次のことを詳述しなければなりません。つまり,反対にいっさいの権威に縛られない完全な自由は,他者の権威に依存しながら適当な限度を守っている自由より,すくなからず劣っている,ということです。」(698A)

ということでペルシアの次は,その反対のアッティケの国制です。少し前にも引用しましたが,ペルシアの君主主義偏重に対して,アッティケの民主主義偏重が言われます。しかし「いっさいの権威に縛られない完全な自由」が,民主制として劣っているという意味なのだとしたら,やはり『国家』篇での民主制とは違う印象です。イデア的なものというより,やはりより現実的な印象です。
この後また,ギリシアがペルシアに攻められた歴史の話がしばらく語られます。

アテナイからの客人「ねえ,あなた方,昔の法律のもとでは,わが国の民衆は,けっして法律の主人ではありませんでした。むしろ,ある意味では,みずからすすんで法律に服従していました。」
メギロス「どのような法律に,とおっしゃるのですか。」
アテナイからの客人「まず第一に,当時の音楽に関する法律に,と申しましょう。もしわたしたちが,自由な生活の極端に増大してきたすがたを,最初から詳しく話そうとするのでしたらね。
それはこうです。当時わたしたちのもとでは,音楽は,それ自身のいくつかの種類や形態に分類されていました。歌の一種類に,神々に捧げる祈りがあり,それは賛歌 (ヒュムノス) という名称で呼ばれていました。(略) さらにまた,これらとは別の種類の歌として,まさに「ノモス」というこの名称で呼ばれるものもありました。もっともこれには,「竪琴に合わせて歌われる」という言葉がそえられていました。」(700A)

歌の種類として「ノモス」と呼ばれるものがあったと。ところで「ノモス」(νόμος) とは勿論法律のことでもあるので,「法律 (ノモス) の語源はこの歌で,ここで「竪琴に合わせて歌われる」と言われているように,そこから何かに「合わせる」,「守る」ものということで法律の意味になったのか?」と考えてしまうところではあります。が,ここでそう言われていないということは (思わせぶりではありますが),そういうわけではないのでしょう。

アテナイからの客人「ところが,その後時代がすすむにつれて,音楽のたしなみにそむいた違法を先導する者として,詩人たちが,――素質の面では詩人の才能をもってはいるが,ムゥサの定めた正しさや法規については無知にひとしい詩人たちが――生まれてきたのでした。彼らは,バッコスの狂乱にふけり,適度を超えて快楽のとりことなり,悲歌 (トレーノス) を賛歌 (ヒュムノス) に,アポロン賛歌 (パイオーン) を酒神歌 (ディテュランボス) に混合し,笛の調べを竪琴の調べで模倣し,ありとあらゆるものを互いに混ぜ合わせながら,無知ゆえにそれと気づくこともなく,音楽に関するこんな誤った意見まで主張したのです。」(700D)

秩序を壊す者として,詩人がまた悪者扱いされています (また,というのは『国家』篇での詩人追放論の印象が強いからですが)。しばらく前,682Aでは,ホメロスの詩を引用しながら「詩人はつねに真実に触れる」とありましたが…。

アテナイからの客人「こうして彼らは,このような作曲をし,それに類した歌詞をそえたりしながら,大衆のなかへ,音楽に関する違法と,充分な判定能力をそなえているかのような思い上がりを,植えつけたのです。その結果,劇場の観客たちは,あたかも自分たちが,音楽における美と美ならざるものとを熟知しているかのように,かつての沈黙から転じて騒々しくなり,かくて,音楽における「最優秀者支配制 」(アリストクラティアー) に代って,かの劣悪なる「劇場支配制」(テアトロクラティアー) が生じたのです。」(700E)

日本でも「劇場型政治」というものが言われて久しいと思いますが,ここの「劇場支配制」(テアトロクラティアー) という言葉はそれを想起させる部分です。尤もここは音楽について言われている場所ではありますが,この直後に「音楽だけであればさほど恐るべきものではないが,ここから万人のうぬぼれや法の無視が生じた」と言われます。そしてこれが,「自由」が発散する源であるということも言われます。
逆説的に言えば,自由を無条件に良しとする立場では,そういう「劇場型」もアリだということになるのかもしれません。しかしその帰結として何が生じるのか?(あるいは何も生じないのか?) と考えると,自由に「適度」が必要と言っているここでのアテナイからの客人の説は常識的なものに思えます。

クレイニアス「ほかでもありませんが,クレテの大部分が,ある植民をおこなおうとくわだてており,事の世話を,クノソスの人びとに委託しているのです。ところが,そのクノソス政府がまた,わたしのほか九人の者に,それを委託したのです。同時に政府はまた,法律についても,もしこのクノソスの法律でわたしたちの気に入るものがあれば,それを取り入れて制定するように,また,たとえ他国の法律でも,[気に入るものがあって] それがすぐれていると思われれば,他国のものであることに頓着せず,それを取り入れて制定するように,命じているのです。
こういうわけですから,さしあたり,わたしにもあなた方にもよいように,こうしてみてはどうでしょうか。これまで話された内容から選択して,いわば根本から建国するつもりで,言葉の上で国家を組み立ててみましょう。そうすれば,わたしたちにとっては,求めていることの吟味になるでしょうし,同時に,わたしはまたわたしなりに,その組み立て方を,将来の国家に役立てることもできるでしょう。」(702C)

ここで話はちょっとした展開を見せます。実はクレイニアスが,法律の起草をクノソス政府から委託されていると。それを踏まえて,今後また国家が「言葉の上で」建設されていくようです。『国家』篇第2巻と少し似た流れですが,どうなるのか。

第三巻のメモは以上。
ギリシア (やペルシア) の過去の国家の成り立ちから始まり,君主主義と民主主義の比較と,それらの適量が最善,という辺りがメインの内容だったかなと思います。まあ,ある意味,それを言っちゃあおしめえよというか,適度ということで一種の妥協をするというのは,「哲人王」と3つの比喩を引っ提げて最善の国制を追い求め,そこからの堕落という流れで種々の国制を論じた『国家』篇の勢いからすると,現実的というか「大人」な印象を受けました。
最後の最後で,クレイニアスによって実際に (実際にといっても本対話篇内部の話だと思いますが) 法律を作ることになっていると言われ,場面の転換になっています。正直,退屈な話が延々と続いてきていて読むのがしんどい,と思っていたところなので,少し面白くなるかな?と第四巻以降が楽しみです。

プラトン『法律』第二巻メモ(2)

プラトン『法律』(プラトン全集 (岩波) 第13巻) 第二巻を読んだときのメモ第二弾。

早速読書中にメモしたところを振り返ります。

アテナイからの客人「するととうぜん,不正な生活は,正しく敬虔な生活よりも,たんに醜く劣悪であるばかりか,じっさいは,はるかに不愉快なものともなるわけです。」
クレイニアス「少なくともこれまでの議論からすれば,そのようですね,あなた。」
アテナイからの客人「だが,たとえ事実が,いまの議論が明示したようではなかったとしても,多少ともなすところのある立法者が,若者のためによかれと思い,あえて彼らに多少の偽りを言う場合,これ以上に有益な偽りを言うことができるでしょうか。若者たちのすべてが,強制的にではなくみずからすすんで,すべての正しいことを行なうようにさせるのに,これ以上有力な偽りを言うことができるでしょうか。」(663D)

この辺りは,言っていることはなるほどという感じですが,会話の前後の脈絡があまりないような気がします。
次もセット。

アテナイからの客人「立法者がよく考察して見つけねばならないことは,ほかでもなく,なにを説得すれば国家に最大の善をなしうるか,ということなのです。またそれに関連し,万全の方策をも見出さねばなりません。いったいどのような方法をもってすれば,国家という共同体全体が,歌,物語,散文のいずれにおいても,生涯を通じてつねに,その問題に関してできるかぎり同一のことを口にするようになるかという,そのための方策をね。だが,これとは多少でも異なった意見をおもちでしたら,これに対して反論してくださって,いっこうに差しつかえありません。」(664A)

教育とは事実を教えるだけではない。「魂の向け変え」ということが『国家』篇で出てきたと思いますが,それを思い出しました。
しかし国家全体が,生涯を通じてつねに,同一のことを口にする…というのは今の感覚では明らかに社会主義的に思えます。最善のものは不変である,と仮定すればその通りなのでしょうが。

アテナイからの客人「では,老人から成る,この,わたしたちの国家の最善ともいうべき部分,それは年齢と思慮の点で,市民のうち最も説得力をもっている部分ですが,その部分は,いったいどこで,その最も美しい歌をうたえば,最大の善をもたらしてくれることになるでしょうか。いやそれとも,最も美しく,最も有益な歌に関するこの上ない権威ともいうべきこの部分を,わたしたちは,そうむざむざと放置しておいてよいでしょうか。」(665D)

飛ばしましたが,この前でムゥサ,アポロン,ディオニュソスに対応する3種の歌舞団として,(1)少年歌舞団,(2)30歳未満の者からなる歌舞団,(3)30歳以上60歳未満の者からなる歌舞団,があって,これらによって「最も楽しい生活と最も善い生活が一致することが神々によって語られている」と言われます。特に(3)の「老人たちから成るディオニュソスの歌舞団」について,どんな役回りなのかという疑問がクレイニアスによって呈されて,色々話されることになります。

アテナイからの客人「ではわたしたちは,彼らを心から歌に向かうようにさせるには,どのような仕かたで元気づければよいのでしょうか。次のような法律を立てるのが,よいのではないでしょうか。
まず第一に,十八歳未満の子供には,彼らが生活の労苦に立ち向かうようになるまでは,若者にありがちの激情的な性情を警戒させ,身心ともに,火に火をそそぐようなことをしてはならないと教えて,酒はまったく飲ませません。
つぎに,三〇歳までの若者に対しては,適度に酒を飲ませるが,酔っぱらうことや深酒は,かたくひかえさせます。
しかし,彼らが四〇歳に達した場合には,共同食事で食事をすませたあと,神々の名を呼び,わけてもディオニュソスを呼びよせて,老人たちのなぐさみでもある秘儀に臨ませるのです。というのも,その秘儀,―これはつまり酒のことですが―,それは,ディオニュソスが,老いのかたくなさに備える薬として,人間たちにあたえてくださったもので,そのおかげでわたしたちは若返り,あたかも火に入れられた鉄がそうなるように,魂の性格は憂いを忘れて頑固から柔軟となり,そのようにして,ずっと扱いやすくなるのですから。」(666A)

ということで,また酒が出てきました。「ディオニュソスの」歌舞団,というあたりから伏線はあったということになります。
ともあれ,ここでは善と楽しさ (快) の一致という流れで,善を広める力を持つが羞恥心がある年長者に楽しさを与えるのが酒,ということになるでしょうか。

アテナイからの客人「ところで,まず初めに,なんらかの楽しさが伴うものにはすべて,とうぜん,こういう事情が見られるのではありませんか。つまり,それの最も重要な要素は,まさにその楽しさそのものだけであるのか,あるいは,ある種の正しさがそれか,または三番目に,有用性がそうなのか,そのいずれかだということです。」(667B)

アテナイからの客人「さらにまた学問にも,楽しさ,つまり快楽が伴っていますが,しかし,その正しさや有用性,善さや立派さをつくり上げているものは,真実性なのです。」(667C)

学問に快楽が伴う,というのはもうすこし詳しく聞きたいところではありますが…。またこの前後には食物,模写の例もあり,それらの場合には,例えば食べる快楽とは副次的なもので,有用性を持つのは食べ物に含まれるものである…といったことが言われます。

アテナイからの客人「そうなると,快楽という尺度で判定されて差しつかえないのは,こういうものだけではないでしょうか。有用性も真実性も類似性も生み出すことなく,また,もとより害をもたらすこともなくつくり出されるもの,いやむしろ,それら (有用性,真実性,類似性) に付随する楽しさ,ただそれだけを目的として生じるもの,そういうものだけではないでしょうか。もしその楽しさに,以上のどれ一つも付随しないときには,これを快楽と名づけるのがいちばんよいでしょうね」(667D)

少しわかりづらい…。前に具体例として挙げられた,食物,学問,模写などは,有用性,真実性,類似性という「良さ」があるので,それは付随する楽しさで判定すべきではない,ということになるのでしょうか。
自分がここで連想したのはゲームです。上記引用の後にも,その快楽が害にも益にもならないものを遊戯と言う,とも言われていますが,まさに快楽を尺度にするのに相応しいのがゲームだという気がします。まあゲームにも歴史を学べたりするもの (学問?) とか感動する RPG (模写?) とか色々あり,ここで引き合いに出せるのはスマホでやる単純なパズルものなど,割と限定されるかもしれません。

アテナイからの客人「すると,今言われたことから,こんなふうに言ってもいいのではないでしょうか。およそいかなる模倣にしても,けっして快楽や真ならざる思わくを尺度として判定されるべきではない,―さらにつけ加えれば,いっさいの「等しさ」もまた同様である,とね―。」(667E)

アテナイからの客人「むしろ,いっさいの模倣は,なによりもまず,真実を尺度として判定さるべきであって,断じて,それ以外のものによってではありません。」
クレイニアス「まったくそのとおりです。」
アテナイからの客人「ところで,音楽はすべて,模倣や模写の技術だと言うのではありませんか。」
クレイニアス「そのとおりです。」
アテナイからの客人「そうすると,音楽は快楽を尺度として判定される,と主張する人があっても,けっしてそのような説をうけいれてはなりませんし,また,かりにそうした音楽があったところで,けっしてそれを卓越したものと見なして,探し求めたりしてはなりません。むしろ,わたしたちの求めるべき音楽は,美の原像との類似性を,よく保存しているものでなくてはならないのです。」(668A)

プラトンは「模倣」をテーマにするのが好きなようで,『国家』第9巻などは印象的です。それでも音楽は模倣,と言われるといつも違和感がありますが…。楽譜とか原曲通りに奏でること,という意味でもないのでしょう。プラトンに慣れている自分としては,何か感動する音楽があるとして,「そのまさに感動する部分」(←美の原像?)をどのくらい含むのか,ということを「類似性」と言っているのではないかと読めます。ただこれを恣意的に設定することが想像できるので,先に書いた違和感になってくるのでしょうか?
ただこれはプラトンの意図とは違うかもしれません。模倣するものとしては,この後にも挙げられるように,リズムや旋律を (善いとされる音楽に) 似せる,という具体的なものが想定されているっぽいので。

アテナイからの客人「こうしたやり方はすべて,敏速,技巧,動物的音声を愛好するあまり,笛や竪琴の音を,踊りや歌の伴奏以外においても用いているわけで,きわめて粗野なものであると。けだし笛,竪琴,いずれにせよ,歌い手ぬきで,ただそれだけを用いるというやり方からは,音楽の教養とはまったく関係のない,金銭目あての巧妙さが生まれてくることになるでしょう。」(669E)

かなり省いていますが,模倣,特に音楽の模倣について長く言及しています。引用した部分では,歌がない音楽を否定している?
この後の部分でも,音楽の「正しさ」の認識の重要さを説きます。「正しさ」というのは,「正当」という意味ではなくて「正統」という意味であるなら,模倣というのも正統性を保つという意味で,理解はできるような気もするのですが,「それがいかに立派につくられているか」(669B) ,これは正当性と言えると思いますが,も分からないといけないと言われています。

アテナイからの客人「どうやらここで,わたしたちは再び,あのことを見出しているようです。つまり,今しがたもわたしたちが元気づけ,また一種の方法をもって強制し,自発的にうたうようにさせているかの歌い手たちは,その一人ひとりが,リズムの歩みや旋律の調べに歩調を合わすことのできる程度までは,音楽教育をうけていなくてはならない,ということです。」(670C)

アテナイからの客人「さて,初めにこの議論が目的としたことは,ディオニュソス歌舞団のための弁護の正当性を立証することにあったわけですが,それは力のかぎり話されました。そこで,それがそのとおり成功していたかどうかを調べてみようではありませんか。
思うに,そういう集会は,いつものことながら,酒が進むにつれて,きまって騒がしくなるものです。それとてしかし,今話題になっている集会ではやむをえぬことだと,わたしたちは初めに前提しておきました。」(671A)

ということで,前に言われていた「老人たちから成るディオニュソスの歌舞団」の教育,なかんずく,酒の力を借りると言われていた点について振り返りが始まります。

アテナイからの客人「わたしたちはまた,こうも言いはしなかったでしょうか。そういう状態になると,酒を飲む人たちの魂は,まるで鉄か何かのように灼熱して柔軟にも若々しくもなるから,したがって,教育や形成の能力とそのすべを身につけた人にとっては,その人たちの指導は,彼らが若かった頃と同じように,容易に行われるのだと。」(671C)

さすがに無茶苦茶だと思いました(汗)。確かに,頑なさを和らげ若々しくなるというのは多少分かりますが,それが教育のため,「正しさ」を身に着けるために役立つと言われると…。マイナス効果の方が大きそうな気がしますが。

アテナイからの客人「酒宴に関する法律を制定するのも,その人の仕事でなくてはなりません。それは,その酒宴の席にある者が,期待にあふれ気が大きくなり,度を越して恥知らずになり,また,沈黙,会話,飲酒,音楽などの順序も,それを交互に行なうことをも守ろうとしなくなると,万事それと反対に振舞う気持をおこさせる法律なのです。そして,そういう感心できぬ大胆さのきざしがあらわれるや,これに戦いを挑むきわめて立派な恐怖,わたしたちが慎みとも羞恥心とも名づけたかの神的な恐怖を,正義の力をかりて,直ちに送りこむことのできる法律なのです。」(671C)

酒のマイナス面を法律によって抑え込む,という恐ろしい発想に思えます。まあここでいう「法律」が不文律的なものを指すのなら,現代でも通じているという気はしますが,「羞恥心という恐怖を,正義の力をかりて送り込む法律」と言われると思想弾圧的なものに繋がりそうに感じさせます。

アテナイからの客人「では,この体育という遊戯の起源もまた,すべての動物が,生まれつき跳びはねる習性をもっていることにあるのです。ところが人間という生きものになると,すでに言ったように,リズムの感覚をそなえているところから,踊りを生み出したのです。他方,[歌の]旋律がまたそのリズムを思い出させ目覚めさせるので,その両者が互いに一緒になって,歌舞としての遊戯を生んだのです。」
クレイニアス「まったくそのとおりです。」(673C)

教育とは音声に関わる部分 (音楽),身体の運動に関わる部分 (体育術) に分かれる,と言われ,今までは前者について詳しく論じたので,今度はぜひ後者をと言われて,話されることになります。
…が,実際には上記引用のあと,忽ち次の飲酒についての仕上げに入ってしまい,身体の運動に関わる部分は全然話されません。どこかテキスト自体が不完全な印象を受けます。

アテナイからの客人「では,もしあなた方お二人さえよろしければ,まず酒の酔いの扱い方について,最後の仕上げをしようではありませんか。」(673D)

アテナイからの客人「もしある国家が,今言われた飲酒のしきたりを真剣な問題と見なし,節制をわきまえるための訓練にする意味で,法律と秩序を守って行なうなら,また,その他の快楽に関しても,同様に同じ原理で,快楽に打ち勝つための方法と見なしてそれを回避しないようにするなら,それらのいっさいを同じ方法で扱わねばなりません。
しかし,もし国家が,その風習を娯楽と見なし,誰でも飲みたい人は,飲みたいときに,誰であれ飲みたい相手と一緒に,飲むことが許されているとするなら―その他酒以外のどんな風習の場合も同様ですが―,わたしは,そういう国家やそういう個人が飲酒に親しむべきであるということには,賛成投票をしないでしょう。むしろクレテ人やラケダイモン人の慣例どころか,カルケドン人の次のような法律に賛意を示すでしょう。」(673E)

ということで酒についての仕上げです。「カルケドン人の法律」というのは,直後に言われますが飲酒についてかなり厳しい制限を課すものです (軍役に服している時はいかなるときも飲んではいけないとか,官職にある者は在職年間は飲んではいけないとか)。
特に目新しい内容はなく,飲酒を一種のテストとして,法律によって制限するということが言われます。

第二巻は以上で終わります。
対話に起伏がなく,淡々と進められる感じで,読むのが退屈に感じられたのがこの巻だったというのが率直な感想です。また最後の方で,音楽について語り終えた後で,「もう半分」の体育術について語ると言いながらあまり語られずに終わったのは違和感を感じました。

プラトン『法律』第二巻メモ(1)

プラトン『法律』(プラトン全集 (岩波) 第13巻) 第二巻を読んだときのメモ第一弾。

第一巻の終盤は,酒に関する対話が続きました。これも完全に終わったわけではなく,第二巻でもまだ話題に上りますが,メインとなるのは,第一巻の中盤でも言及されていた,教育に関する対話になります。特に,音楽や歌舞が教育に与える影響とは?ということが論じられます。
読んでいて第二巻は,割と冗長で退屈…という印象も強いです。一つには,相手のクレイニアスがおとなしすぎる,ということもあるかもしれません。話に波乱が全く起きません。まあ前・中期対話篇と較べて,後期対話篇は,話としての面白さに欠けるというのは本対話篇に限ったことではない (と思われる) ので,そこは期待せずに読むしかないところではありますが。

以下,読書時のメモです。

アテナイからの客人「さて,当面の問題について,つぎに考察しなくてはならないのは,思うに,酒をかこむ会合が,わたしたちの天性のほどを見抜くという,ただそれだけの利点をもっているのか,それとも,その酒をかこむ会合が正しくとり行なわれた場合には,そこにはずいぶんと真剣になって考えるに値する,なにか大いなる利益がふくまれているのか,ということなのです。」(652A)

ということで,まだ酒の会合の話題が続きます。とはいえこの後,直接酒に関する言及がそんなにあるわけではありません。

アテナイからの客人「そこで,わたしが今一度思い出しておきたいことは,わたしたちの言う正しい教育とは,そもそも何であるか,ということです。それというのも,今のわたしの見当では,酒の会合というこのしきたりが立派に立て直されるとき,そこに,教育の擁護も見られると思うからなのです。」(653A)

第一巻でも教育に関することは言われており,また酒が教育に資するというようなことも言われていました。ここでも改めて,教育とは徳 (特に快楽と苦痛) を備え付けることということが言われます。
また,教育にはたるみが出てきてしまうので,神々は人間への休息として,神々への祭礼を,ムゥサたち,その指揮者アポロン,ディオニュソスの3神とともに与えた,と言われます(653D)。また(動物の中で)人間だけが,リズムとハーモニーを楽しみながら感じる感覚を持っている(神々から与えられた)と言われます(653E)。多くを省略しましたが,割と後々の伏線にもなっていそうな部分です。

アテナイからの客人「すると,わたしたちの場合,教育のない者とは,歌舞の心得をもたぬ者となるのではありませんか。他方,教育のある者とは,充分に歌舞の経験をつんだ者とすべきではありませんか。」(654A)

アテナイからの客人「すると,立派に教育をうけた者は,立派にうたい,おどることができるはずですね。」(654B)

なぜ唐突に,教育のある者が,充分に歌舞の経験を積んだ者であると言われるのでしょうか?クレイニアスは簡単に同意するのですが,それはこの後に詳しく話される内容だと思います。
それとは違うと思いますが,直接的には,労苦からの休息としての祭礼も教育に含まれるということが言われていたので,「休息の中に教育がある」という感じも受けました。

アテナイからの客人「すると,もしここにいるわたしたちが三人とも,歌と踊りについての立派さを認識できれば,わたしたちはまた,正しく教育された者と教育されていない者をも,認識できるわけですね。だが,その点で無知であれば,そもそも教育を守るものがあるのかどうか,あるとすればどこにあるのか,それさえついに,識別することができないでしょう。そうではありませんか。」
クレイニアス「そのとおりです。」
アテナイからの客人「ですから,つぎにわたしたちが,跡をつける猟犬のように探さねばならないのは,歌と踊りにおける立派な身振りと旋律 (メロディー) なのです。」(654D)

歌と踊りについての「善」が,教育についての「善」と通底しているために,前者の認識が後者に関わる,というプラトンらしい見方だと思います (「善」は「美」と言ってもいいのかもしれません)。

アテナイからの客人「さあ,どうでしょう,勇敢な魂が困難におちこんだ場合と,臆病な魂がそれとまったく同じ困難におちこんだ場合とでは,そもそもそこに生じる身振りと話し振りが似ているでしょうか。」
クレイニアス「どうして似ていましょうか,顔色すら似ていないというときに。」
アテナイからの客人「よい答えですね,あなた。しかし,いいですか,音楽はリズムとハーモニーにかかわるゆえに,そのなかには身振りと旋律がふくまれているのです。」(654E)

ここは少しうなった部分です。確かに身振り,話し振りの美しさみたいなものはあると思いますが,それが歌や踊りの立派さ(美しさ?)と共通していると。それなら,前に言われた,「歌と踊りについての立派さの認識が正しい教育の認識」というのもかなり実感が伴います。身振りや話し振りだけの話でもない,という気もします。

アテナイからの客人「そもそも歌舞は,さまざまの行為や状況を通じての諸性格の模倣であり,歌舞者 (俳優) はそれぞれ,各自の性質と模倣によってこれを演じます。したがって,そこで話される言葉,うたわれる調子,あるいは,なんらかの踊りの仕ぐさが,歌舞者 (俳優) の天性や習慣やその両方にかなっていて,自分にぴったりする場合には,歌舞者はそれに喜びを感じてほめたたえ,美しいと呼ばざるをえなくなります。しかし,それが彼らの天性や性格や習性にそむく場合には,彼らは喜びを感じることも,ほめたたえることもできず,醜いと呼ばずにはいられないのです。」(655D)

自分にはよく分からない部分ではありますが,実際に演劇を見たり,あるいは演じたりしている人には,天性と役柄の一致を感じたりすることはあるのでしょうか。
前半は『国家』の「詩人追放論」を思い出しました。

アテナイからの客人「悪い人間の下劣な性質に馴染んでいながら,それを憎みもせずに喜んで受けいれ,申しわけ程度の非難はしてみせるものの,じっさいに相手の悪徳に目ざめているわけではない,というような人がいますが,そういう場合のことですね。そんなとき,善悪どちらの性質に喜びを感じるにせよ,その人は,相手に同化されるにちがいありません。たとえ,それをほめるには羞恥を感じるにしてもです。しかし,そうだとすると,善きにつけ悪しきにつけ,こうした同化以上の大きな影響を確実にもたらすものとして,いったいそのほかに,なにをあげることができるでしょうか。」(656B)

すこしドキッとする部分です。あまり真似したくないようなものでも,受け入れると「同化」で,影響を受けること大だと。『国家』でも似たことが言われていたような。

アテナイからの客人「とすれば,すでに言ったように,もし誰か,旋律の正しさをわずかでも把え得る者があるなら,その人はそれを,迷うことなく法律と規則にもちこまなくてはなりません。というのも,快楽と苦痛を手段にする好奇心は,たえず新しい音楽を手がけてやまないにしても,それとて,神聖化された歌舞を古くさいときめつけて破壊するほどの大きな力は,まず持ってはいますまいからね。」(657B)

省略しましたが,エジプトの例が言われていました:立派な身振りや旋律を指定して神殿に告示し,そして芸術に携わる人が,それ以外の新機軸を出したり,国に伝承されている以外の新しいことをするのを許されてこなかった。かつ,それを「卓越した立法と政治の仕事」と。
旋律や他の芸術的なものの技術が,法律によって定められる,というのはどういうものなのでしょう。確かにそういったものが即ち教育であるということ,あるいはそういったものの絶対値のようなものがあってそれが国民の他の「善」の絶対値をも規定する,ということなら,国民の徳を最大化するために立法化するという発想はあり得るのでしょうか。
そういう風に考えると,理想的で不変な「善いもの」というものが存在する,というのが前提になっているのだなぁと思います。仮に「善いもの」が変化するものであれば,立法化は足枷でしかないと思います。

アテナイからの客人「かりに誰かが,体育競技,音楽競技,馬術競技というような区別をせず,そういう種類の別なく,ただ単純に競技を開催し,市民のすべてを集めてこう布告するとしたら,どういうことになるでしょうか。希望者は誰なりと,快楽についてだけ技を競うべくやってくるがよい。その手段に規定はなく,とにかく観客を最も楽しませた者,楽しませるという効果を最もあげて勝利を獲得し,競技者のなかでいちばん面白いとの判定を下された者,そういう者に賞品が設けてある,―こういう布告から,いったいどんな結果が生じると考えますか。」(658A)

アテナイからの客人「では,もしきわめて幼い子供が判定するとすれば,操り人形を演じた者を,勝利者とするでしょう。そうではありませんか。」
クレイニアス「そのとおりですね。」
アテナイからの客人「しかし,もうすこし大きい子供なら,喜劇を演じた者を勝利者とするでしょう。だが,教養ある婦人や若い青年たち,さらにおそらく大衆の大部分なら,悲劇を演じた者を勝利者とするでしょう。」
クレイニアス「おそらく,そうでしょうね。」
アテナイからの客人「しかしわたしたち老人は,たぶん,『イリアス』や『オデュッセイア』,あるいはヘシオドスの詩句を巧みに吟踊する吟踊詩人に,とりわけ楽しんで耳を傾け,彼をすぐれた勝利者と主張するでしょう。そうなると,いったい誰が,真の勝利をおさめたことになるのか。これが次の問題です。」(658C)

ここでは,子供から老人までの年代に応じて好むものとして,操り人形ー喜劇ー悲劇ー詩,という序列を作っています。実は結構面白いところという気もします。快楽を与えるもの,という共通点はあるわけですが,また全て「模倣」ではあると思いますが,より直接的なものから,真実に近いものになっていく…という感じなのでしょうか。

アテナイからの客人「わたしやあなた方としては,明らかに,わたしたち同年輩の者によって判定された者こそ,真の勝利者だと,言わざるをえません。なぜなら,わたしたちの国のその習慣こそ,あらゆる国,あらゆる所で今日見られるさまざまな習慣のなかで,とりわけ最善のものと思われるからです。」(658E)

仮にも,元々教育問題が言われていた中で,わたしたち同年輩の者,つまり老年者の判定が尊重されるというのは良く分からないところがありますが,年齢が上がるにつれて徳が養われる,ということから考えると当然なのかもしれません。かつ現代でも普通のこととして受け入れられそうな説でもあります。次に続きます。

アテナイからの客人「このわたしにしても,音楽は快楽を規準として判定されなくてはならない,というその点だけのことなら,世間の人びとと同意見なのです。とはいっても,どんな人の快楽でもよい,というのではありません。最もすぐれた人たちや充分な教育をうけた人たちを喜ばせるもの,とりわけ,徳と教育の点で他にぬきんでている一人の人間を喜ばせるもの,それこそ,最も立派なムゥサの技 (音楽) としなくてはなりません。」(658E)

音楽に関して,快楽は快楽でも,「徳と教育」の面で抜きん出ている人を喜ばせるものが,立派なものだと。
ところで本巻のような,音楽などの芸術方面において「徳」という言葉が出てくると,非常に胡散臭い感じを常に受けます。原語は ἀρετή (アレテー) だと思いますが,この言葉は,日本語の「徳」というともすると封建時代の遺物のような語感の言葉よりは,もっと広い意味があるとはよく言われることです。
また最近たまたまある新聞のエッセイで読んだのですが,『礼記』の「楽記」篇でも音楽に秀でることが徳のある人間の証である,ということが書かれていたそうです。
音楽を聴いて,感動する,心が動かされる,ということは自分もよくあるし一般論として否定はできないはずです。「その心の動きとは一体何なのか」という (技術的な) 側面が根本的にはプラトンが考えたテーマだと思います。が,それを教育に利用するということになると,プラトンが忌み嫌ったソフィストのしようとしていたことと紙一重のとても危うい試みになるのでは,という気がします。

アテナイからの客人「真の判定者は,劇場の観客から教わって,つまり,大衆の喝采やみずからの無教養ゆえに正気を失って,判定をくだすべきではありませんし,反対に,真実をわきまえていながら,勇気のなさや臆病ゆえに,判定の初めに神々に呼びかけたその同じ口で,嘘と承知の判定を軽々しく公表すべきでもないからです。」(659A)

この少し前に,「判定者はとりわけ勇気をそなえていなくてはならない」とも言われます。日常でも,周りが面白いと言っているからと,見る前から面白いことにしてしまっていたり,反対の意見が言えない,という例は結構あると思いますが,それに対してプラトンらしい厳しさを感じさせるところ。この後,シケリアやイタリアの反対の現実についての説明もあり,これも現代に当てはまりそうなところがあります。

アテナイからの客人「どうやら議論は,まわりまわって,三度目四度目に,同じところへ到着したようですね。すなわち,教育とは,法律によって正当と告示された理,また老齢の有為な人物から,その経験に照らし,真に正当なりと認められた理,そういう理へ子供たちを誘い導くことにほかならない,ということです。」(659D)

クレイニアス「わたしの見るかぎり,わたしたちの国クレテやラケダイモンの場合を除けば,あなたの今のお話しが実行されているのを,わたしは知りません。むしろ踊りについても,それ以外の音楽全般にわたっても,たえずなにか新しいものの生まれているのを,知っています。しかもそれらの変革は,法律によってではなく,ある種の無秩序な快楽によって行われているのですが,その快楽たるや,あなたがエジプトの例で説明されたように同一のものであったり,同一の状態を保ったりしているどころか,ひとときも同じ姿ではないものなのです。」(660B)

アテナイからの客人は直前に,「真の立法者は,称賛に値する美しい言葉を使って作家を説得し,説得できなければ強制し,作家をして,思慮も勇気もそなえ,あらゆる点ですぐれた人物の身振りをリズムで,調子をハーモニーでそれぞれ描きながら,立派な制作をするように,させることでしょう」(660A)と言います。それに対して抱いた自分の疑問を,ちょうどクレイニアスが聞いてくれました。
これに対してアテナイからの客人は,「こうあってほしいと望むことを話していて,真実を話したのではない」と弁解します。そして望んだとおりになれば,より立派な国になると言います。
この辺りの流れは,進化というか変化によって良くなるという発想がなく,「理」とでもいうものが不変とすると (「イデア」などからするとそうなるのだと思う),こうなるのかなという気がします。

アテナイからの客人「さあ,考えてみてください。わたしははっきりと申しますが,いわゆる悪しきものは,不正な人びとにとっては善いものですが,正しい人びとにとっては悪いものであり,いわゆる善きものも,善き人びとにとってこそ真に善いものですが,悪しき人びとにとっては悪いものとなるのです。そこで,さきほどもお尋ねしたことですが,わたしとあなた方とは同意見なのでしょうか,それとも,どうでしょうか。」
クレイニアス「ある点においては,わたしたちの意見は一致するように思われますが,しかし別の点では,まったく一致しないように思われます。」(661D)

この前で,「善き人は,大きく強かろうと,小さく弱かろうと,あるいは裕福であろうとなかろうと,とにかく思慮があり正しくさえあれば,幸福であり浄福である」(660E) などとも言われました。また,善いと考えられているものを全て身に着けていても,正義などの徳を欠いていたら,最大の禍いをもたらす,ということも言われました(661C)。この辺りは『国家』の「ギュゲスの指輪」を思い出しました。
しかし,本当の意味での「善いもの」というのは,正しい人にとっても不正な人にとっても善いものではないのか?とも思います。その意味では,「いわゆる善い (悪しき) もの」というのは,本文で具体的に挙げられている健康,器量,富など,何か限定があるのかもしれません。この辺り,日本語訳ではうまくニュアンスが伝わっていない可能性もありますが,相対的に善い悪いが論じられるのは若干プラトンらしくない印象も受けました。

アテナイからの客人「すると,わたしがあなた方を説得できない別の点とは,おそらくこのことなのでしょうね。健康,富,僭主的権力を一生涯所有してはいても,―いや,さらにお望みなら,不死と共に卓越した体力と勇気が彼にはそなわっており,いわゆる悪しきものは何ひとつ彼の身に生じないとつけ加えてもよいのですが―,たとえそうであっても,もし自分自身の内部にただ不正と傲慢だけをもつならば,そのような状態で生活をいとなむ者は,あきらかに幸福ではなくみじめになる,という点なのでしょうか。」
クレイニアス「まさにあなたのおっしゃるとおり,その点なのです。」(661E)

前の引用部分では,全面的に意見の一致を表明しなかったクレイニアスですが,ここで言われている「みじめである」というのが,周囲から「思われるもの」という意味で同意しているように思えます。
この後の部分(略)は,結構核心的なことが言われている気がしました。それを正確に読解できている自信はないのですが…。「正しい生き方」と「楽しい生き方」があったとして,それらが両立しないのなら (正しいが苦しい,楽しい (快い) が悪),それを是正するものが立法者のつとめ,と言っているのでしょうか。

メモ(2)に続く…。

プラトン『法律』第一巻メモ(2)

プラトン『法律』(プラトン全集 (岩波) 第13巻) 第一巻を読んだときのメモ第二弾。

第一巻後半は,酒がメインテーマです。前半でも片鱗は見られましたが,一味違うプラトンの飲酒論が見られます。また,「人間は神の操り人形」という,ちょっと深遠さを感じさせる比喩も出てきます。
なぜ,プラトンはここまで酒にこだわるのかな?と第一巻をずっと読んでいると思わされると思うのですが,第一巻の最後を読むと,少し納得する部分があります。プラトンが追求するものとして,他の対話篇で扱われてきたものと同じ水脈から出た一つの顕現にすぎない,という気がします。

以下,読書時のメモです。

メギロス「ともかく快楽に関するスパルタのしきたりは,世にも見事に制定されていると,わたしには思われるのです。というのも,わたしたちの法律は,最大の快楽や倨傲やありとあらゆる愚行に,とりわけ人がおちいりやすい機会を,全国土から追放しているからです。田舎であり町であれ,いやしくもスパルタ人の配慮が届いているところでは,酒宴はもとより,それに伴うあらゆる快楽を最大限にあおり立てるいとなみなど,あなたのお目にとまりはしないでしょう。また,酔っ払って騒いでいる者に出あえば,誰もが直ちに最大の罰を科そうとするでしょう。」(637A)

『ミノス』でも同様のことが言われていましたが,酔っぱらいは私は嫌なのでこれは個人的には歓迎です。この後,アテナイからの客人より,種々の国での酒に関する風習が言われます。

アテナイからの客人「では,およそ次のようなやり方で考察してみようではありませんか。いいですか,一方で山羊の飼育を,山羊という動物そのものはよい家畜だと言ってほめたたえる者がいると,他方別の者は,山羊が群れから離れ,農作地で草をはみ,害をはたらいているのを見て,これを非難するとしましょう。さらにどんな動物にせよ,その番人がいなかったり,感心できぬ番人がついていたりするのを見て,そのようにその動物を非難するとしましょう。そんな場合,わたしたちは,そういう人の非難を,多少とも正常と見なすでしょうか。」
メギロス「どうして正常と見られましょう。」(639A)

本来よいものでも,支配者に恵まれない例が挙げられます。「航海術の知識を持っているが,船酔いをしている人」(639A) という例も出てきます。続きます。

アテナイからの客人「では,ほんらい支配者のそなわっている集団,また支配者がそなわっておれば有益である集団,それがどんな集団であれ,そういうものがあるとして,それを称賛したり非難したりする人がいるとしましょう。その人が,支配者を得て立派な集り方をしているその集団の姿を見たことがなく,支配者がいないか,あるいは感心できぬ支配者を得て集まっている姿ばかりをいつも見てきているとすれば,どうでしょうか。いったい,そのような集団のそのような観察者が,多少とも意味のある非難や称賛をするだろうと思いますか。」(639C)

そのものの有益さを引き出す支配者がいる状態をもって,そのもの自身を評価すべきといった感じでしょうか。個人における「理性的部分」(『国家』)になぞらえて考えることができるのかもしれません。

アテナイからの客人「さて,そこでですよ。そういう集団にはたくさんの種類があるでしょうが,飲み仲間や酒宴も,その集りの一つとすることができるでしょうか。」
メギロス「それはもちろんです。」(639D)

アテナイからの客人「そうなると,素面で知恵のある者を,酔っている人びとの支配者に立てるべきであって,その反対であってはならないでしょうね。というのも,酔っぱらっている連中の支配者となる者が,これも酔っぱらっているばかりか,若くて知恵がないとしたら,それでなにかとんでもない失態をやらかさずにすめば,それこそ,大いなる幸運としなくてはならないでしょう。」(640D)

ということで,酒宴についてもそれが当てはまるのでは,ということが言われます。「飲み会の支配者って何?」というのが率直な疑問ではありますが。でもまあ確かに主催者とか上位者によって,飲み会の在り方が決まってくる,という面はあると思います。

アテナイからの客人「しかしもし誰かが,この上なく誤った扱い方をされているその風習の姿を見てこれを罵るのであれば,その人は明らかに,まず第一に,その風習が正しい仕かたで行なわれているのではないということを知らずにいるのだし,第二に,何事にせよそういうふうに,素面の主人や支配者ぬきで行なわれる場合には,わるく見えるものだということについても,無知でいるのです。」(640E)

クレイニアス「そのことは,まことにおっしゃったとおりですよ,あなた。ですが,つづいて次のことを,わたしたちに話していただきたいのです。もしその飲酒のしきたりが正しく行なわれるなら,それはわたしたちに,どのような善をもたらしてくれるのでしょうか。たとえば,今しがたもわたしたちの話に出たことですが,もし軍隊がしかるべき指揮を得ると,それに服する者たちの上に,戦いの勝利が生じてくるでしょうが,これはささいな善ではありません。他の場合もまた同様です。では,もし酒盛りが正しい仕かたで指導をうける場合,個人あるいは国家に,どのような大きい善が生じてくるのでしょうか。」(641A)

飲酒と善の関係という,一見変なテーマを真顔で論じるのがプラトンのよいところです(親睦が深まる的なことは既に言われています)。そして何故か?飲酒は教育に寄与するところ大である(641C)というようなことも言われます。

アテナイからの客人「日頃わたしたちは,人それぞれの育ち方を非難したりほめたりする場合,誰それは教育があるが,誰それは無教育だと言うものですが,時にはそういう人たちでも,小売りのあきないや蛇取り,その他それに類する仕事の才覚では,相当の教育をうけていることさえあるのに,それでもそのように無教育と言うものなのです。これはつまり,思うに,わたしたちの今の (教育) 議論は,そうした仕事の才覚を教育と心得ている人びとには,かかわるものではない,ということなのでしょう。むしろ,徳を目ざしての子供の頃からの教育を教育と考える人びとの,教育論なのです。」(643D)

ということで,この対話での対象は,かなり限定された「教育」のようです。
ただ,現代でも「教育とは何か」という問いを立てた時に,当てはまりそうな感じも多少あります。さすがに「徳」のためとは言わないと思いますが,「教養」のための教育で,具体的なスキルを対象としたものではないという感じでしょうか。そう考えると,抽象的なものを志向するという点でプラトンらしさはあります。

アテナイからの客人「わたしたちは,わたしたち各自を,それぞれ一個人とみなしていいでしょうね。」
クレイニアス「もちろんです。」
アテナイからの客人「ところが,各人は自分自身の内部に,二人の相反する無思慮な忠告者をもっている,と見なしてもよいでしょうね。その二人の忠告者を,わたしたちは,快楽と苦痛と名づけていますが。」
クレイニアス「そのとおりです。」
アテナイからの客人「その二つにつけ加え,さらに,将来のことについての「思わく」をももっています。その「思わく」の共通の名称は「予想」ですが,個別的には,苦痛の予想は「恐怖」,その反対のもの(快楽)の予想は「大胆」と呼ばれています。ところで,さらにそれらすべてに加えて,それら快苦のどれが善くどれが悪いかに関する「思考の能力」(ロギスモス)があります。そして,もしそれが国家の「共通の意見」になると,「法律」と名づけられるのです。」(644C)

急に何の前触れもなく,快楽と苦痛という忠告者を人は持っている,と言い出しましたが,そこから,その予想を含めた善悪についての共通の意見が「法律」 (個人の場合は「思考の能力」) である,と急に定義しました。こういうことをいきなり言われると,「今までのは何だったんだ?」という気にも多少なりますが,なるほどという内容でもあります。これが次の引用にも適用されてきます。

アテナイからの客人「わたしたち生きものはみな,神の操り人形だと考えてみるわけです。もっとも,神々の玩具としてつくられているのか,なにか真面目な意図があってつくられているのか,それは論外としてね。なぜなら,そんなことは,わたしたちに認識できることではありませんから。だが,次のことなら,わたしたちにもわかっているのです。
わたしたちの内部には,以上の情念が,まるで,なにか腱や絃のように置かれていて,わたしたちを引っ張りまわし,しかもそれらが互いに対立しているものですから,相反する行為へと互いに引っ張り合う,ということです。じつにそこが,徳と悪徳との明瞭な分かれ目になるのです。というのも,この議論の語るところによれば,各人はつねに,引く力のなかの,或る一つのものに従い,いかなる場合もそれから離れぬようにしながら,他の多くの腱に抵抗しなくてはならないのです。そしてその一つの引く力こそは,思考の能力 (ロギスモス) による,黄金でつくられた神聖な導きであり,国家の場合には,「共通の法律」と呼ばれるものなのです。これに対し,他の多くの引く力は,硬質で,鉄よりできていて,ありとあらゆる形態をとっています。しかし,さきの一つの導きは,なにぶんにも黄金でできているため,しなやかなのです。そこで,法律の行う,最高に見事なこの導きに対しては,ひとはつねに協力しなくてはならない。というのも,思考の能力は,見事なものではあっても,反面優しく,力を用いて強要してくるものではありませんから,その黄金の種族が,わたしたちの内部で他の種族に打ち勝つためには,その思考の導きを助ける補助者が必要となるのです。」(644D)

長い引用になりましたが,この比喩は何なのか?と最初読んだ時は底知れぬ感じと共に思いました。再度読んだ時には,卓抜した比喩のように思いました。「人間は神の操り人形の比喩」とでも言えるでしょうか。『法律』篇の全体を象徴する何かを暗示している予感がありますが,どうなのでしょうか…?
神の操り人形とは言いますが,「黄金でつくられた神聖な導き」は,思考によるもので,他力的なもの (神の必然的な力) ではないと思われます。「思考の能力は,見事なものではあっても,反面優しく,力を用いて強要してくるものではありません」というのも,人間の思考の能力というものが,色々と思い通りにならないものに引っ張られながらも,何か前向きなものであるというように感じられます。その,絶対性と他者性と自主性のようなもののバランスが,よく表れた比喩のように思うのです。

アテナイからの客人「では答えてください。その操り人形を酔っぱらわせると,わたしたちは,その人形を,どんな状態にさせるでしょうか。」
クレイニアス「いったいなんの目的があって,繰り返しそんなことをお尋ねになるのですか。」(645D)

酒の話題引っ張るなあ…と,クレイニアスと一緒に思うわけですが,アテナイからの客人 (というかプラトン) が本気であって,これをまとめるためにこそ色々伏線を張っているのだから仕方ありません。

アテナイからの客人「そもそも酒を飲むことは,快楽や苦痛,憤怒や愛欲を,いっそうはげしくするのでしょうね。」
クレイニアス「それは大いに。」
アテナイからの客人「これに対し,感覚や記憶や思わくや思慮の面では,どうでしょうか。同じくそれらを,いっそう強度にしてくれるでしょうか。それとも,もしひとがすっかり酔っぱらってしまうと,それらはその人から,まったく去ってしまうでしょうか。」
クレイニアス「そう,まったく去ってしまいます。」
アテナイからの客人「そうするとその人は,魂の状態において,幼い子供の頃と同様になるのではないでしょうか。」(645D)

この辺りは,先ほどの操り人形の比喩を思い浮かべながら読んでいました。そこでの言葉を使うと,酒を飲むと,色んな情念の力が強くなって,「相反する行為へと互いに引っ張り合う」力も強くなり,かつ「引く力のなかの,或る一つのものに従い,いかなる場合もそれから離れぬようにしながら,他の多くの腱に抵抗」する力が弱まる,ということになるでしょうか。

アテナイからの客人「では,このしきたりには馴染むべきであっても,あるかぎりの力でこれを避けたりすべきではないと,そうわたしたちに説得してくれるような説が,そもそもあるでしょうか。」
クレイニアス「どうやら,ありそうですね。だって,少なくともあなたの主張がそうですし,今しがたもあなたは,それを話すおつもりだったのですから。」(646A)

話の流れ的には,酒など避けるべきとなりそうですが,そうではないと。

アテナイからの客人「さらに,このこともよく知っていますね,彼らがみずからすすんで出かけるのは,そのつらさのあとにやってくる利益のためであることも。」
クレイニアス「よく知っています。」
アテナイからの客人「そうすると,他のしきたりについても,わたしたちは同様に考えるべきではありませんか。」
クレイニアス「まことに。」
アテナイからの客人「では,酒をかこんで閑談の時を過ごすことについてもまた,わたしたちは同様の考えをしなくてはなりません。少なくともそのことが,そうしたしきたりの一つと見られて,それで正しいとすれば。」(646C)

前を省略していますが,「彼らがすすんで出かける」というのはつらい治療を病院に受けに行くことです。
ということで酒にも,病気の治療のように,それ自体は身体にとって善いことではないが,後の利益を考えるとどうか?ということを考えないといけないと言われます。
酒それ自体のことを考えると,むしろその場で気を紛らわすためという感じだと思いますが,確かに宴席とかを考えるとそうかもという気はします。

アテナイからの客人「わたしが二つの恐怖と言ったのは,これらなのです。そのうちの後者 (羞恥心) は,苦痛その他いろいろの恐怖に抵抗するとともに,また最大の快楽のほとんどに抵抗します。」
クレイニアス「まことにおっしゃるとおりです。」
アテナイからの客人「したがって,立法者であれその他誰であれ,多少とも見どころのある者なら誰しも,その恐怖を「慎み」と呼び,これを最大の尊敬をもって貴ぶのではないでしょうか。またこれと反対の大胆さを,「慎みのなさ」と呼び,公私を問わず,万人にとっての最大の悪と見なすのではないでしょうか。」(647A)

羞恥心を貴ぶ,というのは個人的には救われる見解です。人は何故不正をしないのか?と考えた場合,罰を受けるのが怖いからというのもあると思いますが,多少なりともここでいう「慎み」のため,というのが人間的 (動物的ではなく) だと思うからです。

アテナイからの客人「そうなると,わたしたちはみな。恐れない者にも恐れる者にもならなくてはなりません。それぞれの理由がどこにあるのか,それはすでにくわしく話しました。」
クレイニアス「たしかに。」
アテナイからの客人「さらにまた,各人を,さまざまの恐怖からまぬかれた「恐れない者」に仕上げようと望む場合,わたしたちは,法律の助けをかりて彼を恐怖へ導き,もってそのような者たらしめます。」
クレイニアス「あきらかにそうします。」
アテナイからの客人「では,他方,いましめの助けをかりて,誰かを「恐れる者」にしようとする場合は,どうでしょうか。」(647B)

「恐れない者」というのは,敵を前にして恐れないという「勇気」の意味で,「恐れる者」というのは,前の引用の通りで「慎み」「羞恥心」のことだと思います。
さて,「恐れない者」に仕上げるにはいわゆるスパルタ式の訓練などが容易に想像できるわけですが (今の視点でよいかどうかは別にして),では「恐れる者」にするには?

アテナイからの客人「ではどうでしょう。そもそも人間に,恐怖を起こす薬を授けた神がいるでしょうか。ひとがその薬を飲もうとすればするほど,その一服ごとに,ますます自分が不幸になるように考え,わが身の現在未来のすべてに対して恐怖をいだくようになり,最も勇気のある人間ですら,ついにはありとあらゆる恐れにとざされる,だがいったんその飲物から解放されて悪夢から覚めると,いつでも再び元の自分に戻る,というような薬です。」
クレイニアス「いったいあなた,およそこの人の世に,そんな飲物があるなどと,どうして言うことができましょう。」(647E)

まず,人に恐怖を起こす飲み物があるかどうか?ということが問われ,「ない」ということになります。しかし,仮にあれば,お手軽かつ安全に勇気があるかどうかのテストができるので非常に有用である,ということが言われます。続きます。

アテナイからの客人「そこで,もう一度立法者に向かって,次のように言ってみようではありませんか。「それはそれとして,立法者よ,このように恐怖をつくる薬は,どうやら神もこれを人間にあたえられなかったし,わたしたち自身にも,その工夫はついていません,―いかさま師は,仲間とはみなしませんから―,だが反対に,恐れを感じなくなり,大胆であってはならぬことにまで,度外れに,時もわきまえず大胆になること,そういうふうにする飲物ならあるでしょうか。それとも,どう言ったものでしょう」」
クレイニアス「「ある」とおそらく彼は肯定するでしょう。酒がそれだと言いながら。」
アテナイからの客人「その飲物こそは,今言われたものと反対の作用をもっているのではありませんか。」(649A)

ということで,段々と結実してきました。酒が「大胆さを作る薬」であると。そしてこの後,勇敢さが恐怖の真っ只中で訓練されねばならないのと同様に,慎みは大胆不敵になる中で養成されなければならないと言われます。

アテナイからの客人「ところで,次のようなものはみな,わたしたちを,大胆不敵にするものではありませんか。憤怒,愛欲,驕慢,無知,食欲,臆病,さらにまた,富,美貌,強力,その他,快楽によって陶酔させ,錯乱状態におとしいれるいっさいのものです。そこで,一方では,これらの状態の,安上がりで比較的無害なテストを行なうという目的,同時に他方では,その訓練をもかねる,という目的からすれば,酒をかこんでの戯れながらのテスト,―むろん,多少の用心をもって行なわれるとしての話ですが―そのテスト以外に,それよりもずっと適切なものとして,いったいどんな快楽をあげることができるでしょうか。」(649D)

酒を飲むことで,色んな情念が強化されるが,実際に何か事件や事故が起きてそういった強い情念が生まれるよりも「安上がりで比較的無害」なので,テストとして最適である―何という,酒好きが聞いたら口実ができて喜びそうな論でしょう(笑)。いやまあ実際には,テストだと思って飲んでも美味しくはなさそうですが…。ここも当然,「神の操り人形」の比喩を思い浮かべてよいところだと思います。

アテナイからの客人「そうなると,魂の性質や状態を認識するというまさにこの行事 (酒宴) は,魂に関することの世話をしなくてはならぬあの技術にとって,最も有用なものの一つとなるでしょう。その世話は,わたしたちの主張によれば,政治術の仕事だと思われます。そうではありませんか。」
クレイニアス「まったくそのとおりです。」(650B)

ということで,酒宴は,魂の世話をする技術,つまり政治術の仕事にとって最も有用なものの一つ,ということでまとめられ,第1巻は終了します。一般的には酒の効能というと,気分が良くなるとか「百薬の長」とかが挙げられると思いますが,効果はともかく,「慎みを養成するためのテスト」で,政治術に有用であるとは,流石にプラトンは考えることが違う,と感嘆させられる第1巻でした。

プラトン『法律』第一巻メモ(1)

プラトン『法律』(プラトン全集 (岩波) 第13巻) 第一巻を読んだときのメモ第一弾。

今回の作品は,プラトン対話篇の中での超大作『法律』です。全12巻は,『国家』の全10巻を凌駕します。本メモも,巻ごとにまとめていくことにします。

また同時に本作は,プラトン最晩年の著作としても知られていると思います。が,それはあまり考えないようにしたいと思います。プラトンの思想を分析する観点からは,当然,中期対話篇の『国家』から,『テアイテトス』『パルメニデス』『ソピステス』やなかんずく『ポリティコス(政治家)』等,後期対話篇の期間を通してプラトンの思想がどう変わったのか,自分の政治経験がどう反映されているのか,といったことが着目点なのだろうと思います。
でも,自分には,そういったことはどうでもいいのです(←どうでもいいは言い過ぎだけど)。恐らく70を超える高齢になったプラトンが,確実に死を意識しながらなお,どんな思い,渇望を持ってこんな超大作を書いていたのだろう?ということに思いを馳せたいと思います。また文学作品 (というか,あまつさえ対話篇という形式で書かれた読み物) として考えた場合,著者は読者に,自分がいつ書いたものであろうと等しく読ませるものにすると思われるからです。かつプラトンもそう考えただろうと思うからです。自分のようなアマチュアの読者は,そこを素直に読むべきかなと思います。(但し後期対話篇については,アカデメイアの学生向けに書かれた専門性の高いもので一般向けではない,という説が有力のようなのですが。)

さて第一巻では,まず法律が何を目的に作られたものかということや,法律でどういったことが定められるべきか,といったことを軸に,様々なことが語られていきます。戦争に勝つことが法律の目的とか,快楽などの感情を法律で取り締まるとか,財産や集会を監視するとか,今の自分の感覚ではちょっと信じがたいことも言われたりします。それから,欲望や快楽に対する「訓練」や,飲酒についての話も展開されます。

以下,読書時のメモです。

アテナイからの客人「ねえ,あなた方,神さまですか,それとも誰か人間なのですか,あなた方のお国で法律制定の名誉をになっておられるのは。」
クレイニアス「神さまです,あなた,それは神さまですよ,いちばん正しい言い方をすればね。わたしたちの国ではゼウスですが,この方の出身地ラケダイモン(スパルタ)では,人呼んでアポロンと言っているはずです。そうではありませんか。」
メギロス「そうです。」(624A)

冒頭です。舞台はクレテ島で,アテナイからの客人,クレテのクレイニアス,スパルタのメギロスの3人で対話が進んでいきます。
まず目につくのは,ソクラテスが出てきません。後期対話篇では,ソクラテスが主要人物でないことはありましたが (『ソピステス』『ポリティコス(政治家)』),全く出てこないのは本対話篇だけかもしれません。それは何故なのか?アテナイからの客人というのは実はプラトン自身で,ソクラテスに頼らず,自分自身の考えであることを明確にした…というくらいなら誰でも思い付くことですが,そう思われることは当然プラトンも読んでいたでしょうから,それでもなおこうしたというのは何か別の理由があるのか?これだけでも論文になりそうなテーマですね。

アテナイからの客人「ではお二人は,あなたにせよこの方にせよ,そのようにすぐれた法の習慣のなかで育ってこられたのですから,今日は道すがら,国制と法律について話したり聞いたりして時を過ごすのも,思うに,そうまずいことではありますまい。」(625A)

クレイニアス「ここで立法者は,大衆の愚かさをとがめているように,わたしには思われるのです。というのも大衆は,誰もがすべての国に対し,生涯を通じて不断の戦いにさらされていることを,理解していないからです。そこで,もし戦時にあって,防衛上共同の食事をとり,指揮する者指揮される者の若干が,交替でその見張りに任命されなければならないのだとすれば,そのことは平和のときにも行なわれなくてはなりません。じっさい,世の多くの人びとが平和と呼んでいるものは,たんに名目だけのもので,じじつはむしろ,すべての国はすべての国を相手に,いつも宣戦布告のない戦いにまきこまれているのが,自然本来の姿なのですから。」(625E)

道すがら,国制と法律について論じながら歩いていくという,考えてみるとすごい設定です。「いつも宣戦布告のない戦いにまきこまれている」というのは強烈な言葉です。すごい主戦論者という印象を受けます。次に続きます。

クレイニアス「クレテの立法者は,戦いに着目することによって,公私を問わずわが国の慣習のすべてを制定したのであり,また,まさしくその見解に従って,法律をあたえてこれを守らせたのです。」(626A)

アテナイからの客人「あなたの下された,立派に治められている国家の規準ですが,あなたの言葉では,立派に治められた国とは,戦いで他国を征服できるように,組織され治められていなくてはならないようですね。そうではありませんか。」
クレイニアス「まったくそのとおりです。」(626C)

ということで法律とは,国家とは,戦に勝つことを目的に作られている,というクレイニアス説が言われます。
自分なども平和ボケしているとは思うので,そんなことあり得るのか?と思いますが戦が日常的に行われ重視される時代というのは,そういう考えもあるのでしょうか。

クレイニアス「だってあなた,自分が自分に打ち勝つことが,すべての勝利の根本ともいうべき最善のことであり,自分が自分に負けるのは,最も恥ずかしく,また同時に最も悪いことだとするのは,ほかならぬ今の場合 (自分の内なる戦いの場合) のことなのですよ。というのも,そうした表現は,わたしたち一人ひとりの内部に,自分自身に対する戦いがあることを,意味しているのですから。」
アテナイからの客人「ではひとつ,その議論を逆にしてみようではありませんか。」(626E)

国家の規準について前に述べられましたが,国家→村→個人間→自分自身,についても同じ規準が当てはまるだろうと言われ,そこで最終的に,「自分が自分に勝つことが根本」と言われました。そこから逆に辿って,国家も国家自身に敵を持つ,と言われることになります。

クレイニアス「どんな国家にしても,その内部で,すぐれた人びとが大勢の劣った人びとに勝っている場合は,その国家は,自分自身に勝っていると言われるのが正しく,またその勝利ゆえに称賛をうけるのが,当然でしょう。これに対し,その事情が反対の場合には,その評価も反対になるわけです。」(627A)

これも主戦派のクレイニアスの言葉です。自分には何となく,平等になっているべき (国家内は),という観念があるためか,「すぐれた人びとが大勢の劣った人びとに勝っている場合」が,国家として,自分自身に勝つ,というのは違和感を覚えるところではありますが,寡頭制のような国家では当然なのかもしれません。

アテナイからの客人「ところが,その最善のものとは,戦いでもなければ,内乱でもありません,―それらの手段に訴えることこそ呪われるべきです―,むしろそれは,相互の間の平和であり,かつ友誼なのです。さらに,国家が,自分で自分に勝つということにしても,思うにそれは,「最善のこと」に属していたというより,「やむをえない必然のこと」に属していたわけです。」(628C)

対して,アテナイからの客人は平和主義のように思えます…ここの前にも,内部で敵対する者同士,勝ち負けがつく前に和解させるべきということも言われていました。また前に言われた「自分自身に勝つ」というのは,最善のものではなく,「やむを得ない必然のこと」としているのも印象的です。少し後に比喩もあるのですが,そもそも病気にならない身体であることこそが最善である,しかしそれは病気になってどう直せばよいか,という段階では考えられにくいことだと。

アテナイからの客人「もしひとが,国家や個人の幸福に関してもそのような考え方をして,ただもっぱら外敵との戦いにのみ目を向けていたのでは,けっして真の意味での政治家になることはできないでしょう。また正真正銘の立法者になることもできないでしょう。いやしくも彼が,戦争に関する事柄を目的として平和の事柄を立法するというより,むしろ平和を目的として,戦争に関する事柄を立法するのでないかぎりは。」(628D)

ということで,アテナイからの客人は,前の方でクレイニアスによって言われた,戦のために立法するということに明確に反対の立場を取ります。病気になった時にそれを治そうとするのと同じように,戦も否定はしていないと思いますが,それはやむを得ないことであり,積極的に追及すべきは平和,という感じでしょうか。

アテナイからの客人「戦いには二つの種類がある。その一つは,わたしたちすべてが内乱と呼ぶところのもの,それこそは,今しがたも言ったように,あらゆる戦いのなかで最も恐るべきものだ。これに対し,わたしたちのすべてが,戦いの今一つの種類と見なすものは,国外の,異種族との間で不和になるときに交える戦いであり,これは,さきの戦いよりはるかに穏やかなものだと。」(629D)

本巻では,割と内乱の恐ろしさが強調されていて,アテナイからの客人も,外敵はしょうがないが内乱は絶対避けるべき恐るべきもの,というニュアンスのことを何度か言っています。この後も,外敵との戦いで勇敢な戦士より,内乱において武勇を示した人の方がより武勇の人と言われたり,「内乱に際して信頼に足る,心のしっかりした者となるには,徳のいっさいをそなえずしては不可能なことですから」(630B) と言われたりします。こういうわけで,戦のためにも徳が重要ということになってきます。

アテナイからの客人「ところで,わたしたちのこの議論は,いったいどこへたどりつくのでしょう。また,そもそも何を明らかにしようとして,このように話しているのでしょうか。それはあきらかにこういうことなのです。ゼウスの教えをうけたこのクレテの国の立法者は言うまでもなく,およそ多少なりと有能な立法者ならすべて,法律の制定にさいし,つねに最大の徳以外のものにとりわけ着目することはありえない,ということです。その最大の徳こそは,テオグニスも言うように,危機にさいして信頼に値することであり,ひとはそれを,全体にわたる正義と名づけることもできるでしょう。」(630C)

立法には「つねに最大の徳以外のものにとりわけ着目することはありえない」というのが,アテナイからの客人の一貫した考えで,かつプラトンの「理想」の一環なのでしょう。法律というものを見透かした時に,奥に「全体にわたる正義」が浮かんでくるかどうか。これは民主主義の国家では有効な検証の仕方かもしれません。

クレイニアス「これではあなた,わたしたちは,われわれクレテの立法者を,落第立法者の中に投げこんでいることになりますよ。」
アテナイからの客人「あなたともあろう方が!「わたしたちは」ではありません。むしろ「わたしたちみずからを」投げこんでいることになるのです。かりにも,リュクルゴスやミノスが,とりわけ戦いに着目して,ラケダイモンやクレテの制度いっさいを定めていたなどと考えているようではね。」(630D)

アテナイからの客人「つまり,あなた方の立法者は,徳の一部分,それもきわめてくだらない一部分に着目して制定したのではなく,徳の全体に着目して制定していたのであり,また彼は,当時の人びとの法律を,種目に応じて考察したのですが,しかもその種目は,今日の立法者たちが考察するとき念頭に置くようなものではなかったと,このように言うべきだったのです。というのも,今日の立法者は,それぞれの人がなにかの必要に迫られると,すぐにそのなにかを,考察につけ加えてゆきます。ある人は相続財産と女子相続人に関する事柄を,別に人は暴力行為に関する事柄を,また他の人びとは,それぞれそのように無数に異なったものを,つけ加えてゆくわけです。」(630E)

法律というのは,まず立法事実があって,必要な範囲でそれを帰納的に一般化したものでは?と自分などは思います。なのでここでの「今日の立法者」の言うことの方が,徳の全体に着目して (演繹して) 制定するというのよりは普通に感じます。
ただ,この「今日の立法者」への批判は,全体の利益にならないことがある,ということを問題視しているのかもしれません。確かに本当に必要なものが必要だと分かるタイミングというのは,または必要だと分かってもそれが立法されるタイミングというのは,必ずどこかで平等ではなくなるはずです (同じくらい重要な複数の立法が必要であっても,同時並行で立法できるわけではないので,必ずタイムラグができ,その「タイムラグ×立法されないゆえの不利益」が生じる)。それで,たまたま必要だと迫られたものだけが立法の対象になるのは,最善ではないという気もします。
尤も,仮にそうだとしても,「徳の全体に着目して制定」するのがよいのか?とも思います。

アテナイからの客人「彼らの交わりのいっさいにおいて,彼らの味わう苦痛や快楽や欲望を,またあらゆる情念 (エロース) のうちでも激しい情念をよく観察監視し,法律そのものを手段として,咎むべきを咎め,たたえるべきをたたえなければならない。また,怒りや恐怖,不運ゆえに魂に生じる動揺,幸運にめぐまれてその動揺からまぬかれるさま,さらに病気や戦争や貧乏のために―またはその反対の状況のために―人びとの味わうさまざまな感情,それらすべての場合において,立法者は,人それぞれの精神状態の美しいもの美しくないものを定義し,教示しなくてはならない。」(632A)

情念,感情について,法律で規定されて「よく観察監視」されるっていうのは,今の感覚からするとちょっと信じがたいことのように思います。その結果として現実に何か損害を起こしたりすれば,動機も問われるのだろうと思いますが。
精神状態の美しいもの美しくないもの,というもの自体はあると私も思います。がそれも,決まりを作ってそう仕向けられた時点で美しくなくなる,という気もします。続きます。

アテナイからの客人「つぎに立法者は,市民たちの蓄財と消費がどんな仕かたで行なわれているかを,監視しなくてはなりません。また,市民のすべてがお互いの間で,自発的あるいは強制的に行なう集会や解散について,彼らがそのそれぞれを,お互い同士どんなふうに行なっているか,またどういう場合に正不正が保たれたり欠けたりしているか,そうしたことをも,よく観察しなくてはならない。」(632B)

こちらもひどい監視社会です。今から見るとかなり自由が少ないと感じます。これが見識の持主であるアテナイからの客人の理想なのでしょうか。
現代の,権利とか自由というのが,電気や水のようなもので,今は当たり前にあるのが当時はなかったり殆ど顧みられることのないものだったのだろうと思います。かつ,これがあることが絶対的に幸福か,と言われると分からない面もあります。100年前であれば,また違う感想でしょうか。

アテナイからの客人「わたしの見るところ,もう一度出発点から出直し,わたしたちがやり始めたときのように,まず勇気を養う制度のことを,くわしく話さなくてはならないでしょうね。それにつづいて,もしお望みなら,さらに別の種類の徳を,またさらに別の種類をというように,順次に調べてゆきましょう。」(632D)

出発点から出直す,というのはプラトン対話篇ではお馴染みの光景です。その後の展開が予告されます。

アテナイからの客人「ところでその勇気ですが,さあ,わたしたちはこれをどう定義したものでしょうか。ただ単純に,恐怖と苦痛に対する戦いとのみ定義したものでしょうか。それともさらに,巧みにへつらう誘惑者たる欲望や快楽に対しての戦いをも含めたものでしょうか。そのへつらいこそは,謹直を旨とする人の気概すらも,蠟のように軟化させてしまうものですが。」
メギロス「わたしは後のほうだと思います。つまり,それらいっさいに対する戦いです。」(633C)

単純に「勇気」というものを考えた時には,ここで言われている前者を想定すると思いますが,それは当時も同じだったということが窺われます。欲望や快楽に対する戦いも勇気である,というのは新鮮に映りますが言われてみれば成程と思います。
ただ,それは「節制」(や「節度」) と言われるものではないのか?とも思います。ここは,アリストテレス『ニコマコス倫理学』などとも対比したいところです。

アテナイからの客人「それでは,もう一度話をもとへ戻し,あなた方お二人の国家には,快楽の方を避けずに享受してゆく制度として,どんなものがあるのか,それを話してみようではありませんか。ちょうど苦痛の場合に,これを避けず,むしろ苦痛の真只中に人を連れこみ,強制したり,あるいは名誉を手段に説得したりしながら,その苦痛を征服させた制度のようにね。それと同じような制度が,快楽に関しては,いったいあなた方の法律のどこに制定されているのですか。」(634A)

いわゆる「スパルタ式」の快楽版のような制度があるのか?という感じでしょうか。これについては第1巻の後半で,意外なものが実はこれである,ということが言われます。

アテナイからの客人「あなた方のお国では,じっさい法律のことはなかなか立派に整備されていますが,なかでも最も見事な法律の一つに,こういうものがあるからです。つまり,どの法律がよいかわるいかの吟味は,どんな青年にも許さず,むしろみんなが,声を一つにし口を合わせながら,いっさいの法律は,神々が制定者である以上立派に制定されている,と言うようにさせています。そして,もし誰か別の意見をなすものがあっても,それに耳を傾ける者をそのまま許してはおきません。」(634D)

これはあまり話の本筋とは関係ない部分ですが,前述の監視の部分とのつながりで,いまから考えるととんでもなく自由がないな,ということが思わされる部分ではあります。

アテナイからの客人「もしわたしたちの市民が,若いときから最大の快楽に無経験であるなら,そして,快楽にのぞんだときにそれを抑制し,どんな恥ずかしい行為も意に反しては行なわないだけの訓練を受けていないなら,彼らはやがて,快楽に対処する甘さゆえに,恐怖に打ち負かされる者と同じ目にあうだろう。つまり,快楽にのぞんで抑制のできる者や快楽にかけては熟達している者たち,―ときに根っからの悪党であるが―,そういう者たちの奴隷に,しかもさきとは別のもっと恥ずかしい仕かたで奴隷になるだろう,と。」(635C)

『国家』でも似たことが言われていたと思います。「快楽に対処する甘さゆえに,恐怖に打ち負かされる」というのは (周囲も含めて経験はないですが) 薬物依存のようなものを連想します。
感染症のワクチンのようなもので,免疫を付けることが,快楽に対しても必要,という感じでしょうか?苦痛や恐怖に対しては,前に言われていたように行なわれていたようですが。

これで第1巻の半分くらいです。
前期対話篇ではないので仕方ないのですが,「法律とは何か」という追求の仕方がされているわけではないので,何がテーマなのかが漠然としたものに感じられてしまうところはあります。
これ以降はメモ(2)に。