寺田寅彦『災難雑考』メモ

寺田寅彦『災難雑考』読書時のメモ (青空文庫)。

この随筆は,つり橋が落下し修学旅行中の女学校の生徒が多数犠牲になった,という事故を取っ掛かりに,航空機等の事故が起きたときの対応についてや,自然災害への備えの重要さや,災害との付き合い方?のようなものなどが綴られているものです。
寅彦は科学者なので,

だれの責任であるとか,ないとかいうあとの祭りのとがめ立てを開き直って子細らしくするよりももっともっとだいじなことは,今後いかにしてそういう災難を少なくするかを慎重に攻究することであろうと思われる。

というような至極まっとうで,当時も表面的な責任追及に始終していたらしい事故調査を憂えているわけですが,それだけでは終わりません。

こうは言うもののまたよくよく考えて見ていると災難の原因を徹底的に調べてその真相を明らかにして,それを一般に知らせさえすれば,それでその災難はこの世に跡を絶つというような考えは,ほんとうの世の中を知らない人間の机上の空想に過ぎないではないかという疑いも起こって来るのである。

ここからが微妙に言いにくいことを言ってくれているという感があります。
現実は,「大津波が来るとひと息に洗い去られて生命財産ともに泥水の底に埋められるにきまっている場所でも繁華な市街が発達して何十万人の集団が利権の争闘に夢中になる。いつ来るかもわからない津波の心配よりもあすの米びつの心配のほうがより現実的であるからであろう。」と述べています。
これは,今の日本でも共通する難しい問題だと思います。事業のためにしろ,土地への愛着のためにしろ,必ずまたそういう津波で壊滅した所に戻る人はいると思います。これを悪いとは言えないと思いますが,もし今後大津波が起こる可能性が高いと公式に表明がなされた場所だった場合,それはもう自己責任としか言えないという気もします。
さらに難しいのは,現代ではそういう場合には国等が補償するのが当然といった風潮になっていることです。

こういうふうに考えて来ると,あらゆる災難は一見不可抗的のようであるが実は人為的のもので,従って科学の力によって人為的にいくらでも軽減しうるものだという考えをもう一ぺんひっくり返して,結局災難は生じやすいのにそれが人為的であるがためにかえって人間というものを支配する不可抗な法則の支配を受けて不可抗的なものであるという,奇妙な回りくどい結論に到達しなければならないことになるかもしれない。

分かりづらい言い回しですが,言わんとしていることはよく分かります。

もしもこのように災難の普遍性恒久性が事実であり天然の法則であるとすると,われわれは「災難の進化論的意義」といったような問題に行き当たらないわけには行かなくなる。

この「災難の進化論的意義」というのは,台風とか地震とか津波といった災難があることによって,今の日本がある,というようなもののようです。「災難が無くなったらたちまち「災難飢餓」のために死滅すべき運命におかれているのではないかという変わった心配も起こし得られるのではないか」とも述べられています。また植物や動物はこの進化論を忠実に守っている (というか組み込まれている?) ので災難に備えることを心得ているようだ,というようなことも述べられています。

日本人を日本人にしたのは実は学校でも文部省でもなくて,神代から今日まで根気よく続けられて来たこの災難教育であったかもしれない。もしそうだとすれば,科学の力をかりて災難の防止を企て,このせっかくの教育の効果をいくぶんでも減殺しようとするのは考えものであるかもしれないが,幸か不幸か今のところまずその心配はなさそうである。いくら科学者が防止法を発見しても,政府はそのままにそれを採用実行することが決してできないように,また一般民衆はいっこうそんな事には頓着しないように,ちゃんと世の中ができているらしく見えるからである。

これは政府・市民への痛烈な批判とも言えますが,卓見でもあると思います。特に最後の部分は,今の日本ではマスコミや政府が一般市民を悪く書くことは有り得ないのでこんな率直な表明もまず有り得ませんが,それが現実だと思いますし,人というのは変わらないものなので現在でも当てはまるものだと思います。

ここでは述べませんでしたが,ある航空機事故に際して「実に胸のすくほど愉快に思った」という秀逸な事故調査や,「優学生的災難論」というようなものなど,色々考えさせられることが多い随筆です。青空文庫でタダで読めるので,多くの人に読んで欲しい面白い作品です。

プラトン『恋がたき』メモ

プラトン『恋がたき』((プラトン全集 (岩波) 第6巻) を読んだときのメモ。
これは一応対話篇に入るのかもしれませんが,ソクラテス視点の物語風になっています。副題は「愛知について」。
設定が,ソクラテスがある二人組と,その二人組の一方に恋する男とで,知を愛するということ,愛知者とは何かということについて対話していくという内容です。「恋がたき」という表題の意味もピンときませんが,多分上述の,二人組の恋されていない方の男を,二人組の一方を恋する男の視点で指すのでしょう。たった3人 (ソクラテスを含めると4人) なのに随分ややこしい関係で,しかも対話の内容はこの設定と本質的に殆ど関係なく(笑),寧ろかなり硬派なテーマだといえるでしょう。
なお,本篇も『ヒッパルコス』と同様,偽作の疑い強し,と訳者が解説に書いています。「それならプラトン全集に入れるなよ」という気もしなくもないですが,どうも『アルキビアデス I』『アルキビアデス II』『ヒッパルコス』そして今回の『恋がたき』の,岩波プラトン全集第6巻に収録されている対話篇は,岩波プラトン全集が底本としている本で4部作としてまとめられている,ということだったと思います (解説に書いてあったのですが図書館に返したので詳細は今は確認できず)。

以下は読書中の転記部分とメモです。

「きみには,知を愛することが,立派なことだと思えるのかい,それとも…?」(132E のソクラテス)

「つまり,知ってのとおり,五種競技の選手たちは,陸上競技やレスリングの仕合では,その道の専門選手たちにおくれをとり,かれらにくらべると二流なのだが,ほかの選手たちの間では第一人者で,かれらより勝っている。おそらくきみは,愛知というものも,それを己が業としている者たちに,結果として,何かそのようなことをもたらす,と言っているのではあるまいか。…そしてそのようにして,何ごとにつけても,愛知者というものは,一流にかなわぬ二流どころの人物のようなものになる,とね。何かこのような男の姿を,きみはぼくの前に示しているように思えるのだが」
「じつにお見事だと思います,ソクラテス」と,かれは答えた,「…つまりは,職人どものように,ただひとつのことの世話のみに追われて他はすべてこれを無視するというようなことはせずに,すべてにほどよい接触を保っていることになる,端的に申しまして,こういうのが,愛知者なのですから」(135E)

相手の男は,愛知者とはできるだけ多くの物事について幅広く知識を持つ,というようなことを少し前に言っています。それに対してソクラテスは上記のように,「では愛知者とは全てにおいて二流になることになるのではないか」と言います。これは非常に厳しい指摘です。
正直,ここで男が言っている愛知者の像もそこまで一般的に間違っているとは思えませんし (ソクラテスも「一理あると思った」というような述懐の記述がある),自分も赤魔道士的なキャラというか,色んなことを自分でできるようになりたいと思ったりもするので,自分に言われているという気もしました。

「では,よいかね」と僕は言った,「もしきみ自身が,あるいはきみが多大の関心をもっている友だちの誰かが,たまたま病気になったとすると,きみは,健康を取り戻そうとして,あの,一流にはかなわぬ二流どころの人 (愛知者) を,家につれてくるだろうか。それとも,医者を呼ぶだろうか。」(135C のソクラテス)
「さて,したがって,いままでの話からすると,愛知者は,ぼくたちにとって,何の役にもたたない人だということになるのではないかな?」(136E のソクラテス)

ということで「愛知者」=役立たずの烙印を押されます。確かに具体例にあるように,何かあったときに二流では頼れません。自己満足のためには,二流でもよいのかもしれませんが…。

「では,どうだろう。或るひとりの人がいるとして,その人がすぐれた善い人と劣悪な人の別を識らない時には,当人自身も人である以上,ほかならぬ自己自身がすぐれた善い人なのか劣悪な人なのか,わからないのではないか。」(138A)
「また,いうまでもなく,このように,正義と思慮の徳が一体不離の関係にある時に,国々も立派に治められるわけだ。不正をはたらく者たちが,その罰を受ける時にね。」(138B)

ここでは『アルキビアデス I』と似たことが言われていると思います。

「すると,どうなんだろうね」と,ぼくはたずねた,「愛知者は,これらの領域においても,また五種競技の選手としてあるべきで,一流にかなわぬ二流どころの人物でなければならぬ,そして愛知者というものは,この技術に関するすべての領域で,二流どころの地位を占めるわけであるから,誰かその領域の専門家がいるかぎり,役立たずの人になることも,またとうぜんのなりゆきであると,言うべきなのだろうか。それとも,愛知者たる者は,何よりもまず,己れの家を他人の手にゆだねるべきではなく,そこでは,二流どころの地位を占めるべきでもない,己れの家を立派に治めんとするならば,みずからの手でこれを正しく裁き,善き方へあらためていかねばならぬと,こう言うべきなのだろうか」(138E のソクラテス)
「してみると,きみ,よいかね,とんでもないことだよ。知を愛し求めることは多くを学び知ることであるとか,専門的な諸技術をとりまく周辺の業であるということはね」(139A のソクラテス)

これが本篇のまとめとなっています。結局,上で言われていたような愛知者の定義はソクラテスに明確に否定されます。勿論,知というものが重視されているからこそ,知を愛するということがそんなつまらない結果になるはずはない,ということだと思います。知を愛すること自体が否定されているわけでは決してないでしょう。

すでに述べたように,本対話篇は,そのような意味で,プラトンの教えのいわば手引書の役割をはたしているといえよう。(解説)

『ヒッパルコス』などと同じように,偽作の疑いが強いとされているということは,プラトンの研究者からはきっと軽視されていると思われます。が,上記引用の解説にあるように,題名に反して(?),プラトンらしい思想と,ソクラテスらしい対話が楽しめる内容となっており,確かに入門的な内容といえると思います。
次回は7巻に移り,『テアゲス』の予定。