プラトン『法律』第五巻メモ

プラトン『法律』(プラトン全集 (岩波) 第13巻) 第五巻を読んだときのメモです。

まず第四巻の終わりにクレイニアスが「序文」の最初からやり直そうと提案したため,その内容について検討されます――といっても何のことはなく,徳性論のようなものがまた語られます。
後半に行くにつれて,土地や財産の分配といった,国のありようが語られてきますが,意外なことに?最善の国家については,『国家』篇で述べられた,「共同所有」の考え方が基本的に踏襲されています。『国家』を執筆した時からプラトンは色々挫折を経験したはずですが,それでも死の直前に書かれたと言われる本対話篇まで,理想は不変だったのか,と思わされるところです。

以下,読書時のメモです。

アテナイからの客人「「自分のもののうち,支配するものは隷属するものより,つねに尊敬されなければならない。こういうわけで,わたしは自分の魂を,主である神々とそれにつづく者たちのつぎに,第二のものとして尊敬すべきだと主張するが,この勧告は正しい。しかるに,われわれのうちいわば誰ひとりとして魂を正しい意味で尊敬してはおらず,ただ尊敬していると思っているに過ぎない。」」(726)

第四巻での,詩人 (に成り代わったアテナイからの客人) が立法者に問いかける,という場面を再開したので,かぎかっこを二重にしています。
魂の方が (身体より) 神々に近いため,「魂を尊敬せよ」ということが盛んに言われます。ではそれは何なのか?ということが色々例示されます。

アテナイからの客人「「またもしひとが不正な方法で富をてにいれたがり,あるいは,そうして手にいれてやましさを感じないならば,そのときにも,このような贈物によって自分の魂を尊敬していることにはならない,――いやそれどころではない――,魂の価値と美とを,彼はわずかの黄金で売りわたすのだから。しかもじっさいは,地上および地下のすべての黄金をもってしても,徳に等しい価値は持ちえないのだ。」」(728A)

アテナイからの客人「「要約して言えば,立法者が一つ一つ取りあげて,これは醜く悪いもの,また反対に,これは善く立派なものと定めたものに対し,前者からはあらゆる手段をつくして遠ざかり,後者をば,あらゆる力を傾けて実行しようと欲しない者は,知らないのだ,人間は誰でもそのような態度を取ることによって,最も神的なものである魂を,最も恥ずべき,最も無様な仕かたで扱っているということを。」」(728A)

アテナイからの客人「「われわれのみるところでは,尊敬とは,一般的に言って,優れたものに従い,劣ったものをば,それがより善くなることが可能ならば,できるかぎり善くすることである。」」(728C)

色々言われますが,一言で言うとソクラテス流の「善く生きる」ということかなぁと思います。そのくらい,特に目新しいことがないなあと思いましたが,ただ「立法者が善いと定めた」ものに近づくことが,魂を尊敬すること,というところが微妙に初期対話篇などと違ったニュアンスを感じます。

アテナイからの客人「「思うに,彼はこれらの尊敬を次のもの,ないし次のようなものとして示すのではないだろうか。すなわち,尊敬されるべき身体とは,たんに美しいものでも,強いものでも,速いものでも,大きいものでも,健康なものでさえもなく,――世間一般にはそう思われているであろうが――,そうかといって,ましてこれらと反対のものでもない。これらすべての性質を適度に具えた身体こそ,他にぬきんでて最も節度もあり,健全なものでもある。なぜなら,極端なものは,一方は魂を思いあがった向こうみずなものにし,他方は,卑屈な意気地のないものにしてしまうからである。」」(728D)

「第三に来るのは身体に対する尊敬」(第一は神々,第二は魂) ということで,どんな身体が善いかということが語られますが,身体の性質については中庸がよいと。金銭や物の所有についても同様のことが言われます。

アテナイからの客人「「思慮ある立法者なら,むしろ老人に向かって,若者に対して恥を知れと戒めるであろう。とりわけ,自分が何か恥ずべきことを行なったり口にしたりするのを,誰か若者に見られたり聞かれたりすることのないように注意させるだろう。老人が恥知らずな振舞いにおよぶところでは,若者たちもすこぶる恥知らずであるのはとうぜんなのだ。」」(729B)

年長者 (老人) に対する思いがけぬ厳しさを見せます。といっても極めてまともな内容ではあります。

アテナイからの客人「「またもしひとが,友人や仲間たちの自分に対する尽力を,彼らが考えるよりも大きく重大なことだとみなし,自分の友人に対する親切を,友人や仲間が考えるよりも小さなことだとみなすならば,人生の交わりにおいて,彼らの好意をうけるであろう。」」(729C)

ここは個人的にとても印象的な言葉です。

アテナイからの客人「「さらにまた,外国人に対しては,彼らとの契約をとくに神聖なものとみなさなければならない。すべて外国人に対する罪は,同国人同士のそれに比べて,復讐の神にいっそう深いかかわりを持つと言えよう。なぜなら,外国人は仲間も身寄りもいないのだから,人間からも神々からも,いっそう同情されてしかるべきなのだ。」」(729E)

外国人に対する優しさが感じられる一節です。といっても前述の年長者に対するものと似た感じではあります。人間は「神の下に平等」という感じでしょうか。

アテナイからの客人「「何ら不正を行なわない人間も尊敬に値するが,不正を行なう者に不正行為を許さない者は,前者よりも倍以上に尊敬に値する。前者は一人分の価値しかないが,後者は他人の不正を当局者に知らせるので,他の何人分かの価値があるからである。しかしさらに,当局者の行なう処罰にできるかぎり協力を惜しまない者は,偉大な申し分のない市民であり,徳の栄冠は彼にありと宣言されなければならぬ。」」(730D)

なるほど,と思いますが,こういう「善意」の発想が SNS によるさらし行為や炎上への加担,監視行為を生むのだろうか?とも連想してしまいました。法律違反を警察に通報する,という人や実際に法に基づいて取り締まりを行なう人,という意味ならその行為が国全体の不正を減らすのは間違いないと思うので,尊敬に値するというのは当然といえるとは思います。

アテナイからの客人「不正を行なうが,矯正可能な不正をなす人びとの場合には,不正な者はすべて,自らすすんで不正をなすのではないことを,まず知るべきである。なぜなら,最大の悪のどれひとつも,何ぴとも自らすすんで獲得することはけっしてないであろう。まして,自分の所有するもののうちで最も貴重なもののなかにおいて,そうすることはない。」(731C)

誰しも自らすすんで不正をなすのではない,というのは,『ゴルギアス』だったと思いますがこれも初期対話篇を思い出します。「自分の所有するもののうちで最も貴重なもの」というのは魂のことだと直後に言われます。

アテナイからの客人「「すべての悪のうち最大のものは,多くの人びとの魂に生まれつき具わっており,ひとは誰でも自分にそれを許し,それから逃れる手段を講じない。これは,『およそ人間というものはもともと自分が可愛いのであり,またとうぜんそうあって然るべきなのだ』という言い方に含まれているところのものである。しかしほんとうは,このあまりにも自分を愛しすぎることが,各人にとってそれぞれの場合に,すべての過ちの原因なのである。なぜなら,愛する者は愛の対象について盲目であり,自分のものを真なるものよりもつねに尊敬すべきだと考えて,その結果,正しいもの,善きもの,美しいものについての判断を誤るからである。」」(731D)

すべての悪のうちの最大のものは自己愛,悪くいえば自惚れと。最大,といわれてもあまりピンと来ませんが,確かに何か過ちがなされたケースを想像すると,根本にこれがあるのかもしれない,と思います。
この直後に,これが文字通りの「無知の知」,つまり『ソクラテスの弁明』で知られるいわゆる「無知の知」(または「不知の自覚」) ではなく,無知を知であるという思い込みをもたらす,ということが言われます。

この後暫くは快楽・苦痛・欲望という「人間的な側面」について語られますが (第5章),「大きな快楽を伴う小さな苦痛は望むが,大きな苦痛を伴う小さな快楽は望まない」など当たり前のことが書かれていて,特に目新しさはありません。またその後も,勇気・思慮・節制・健康というものが快苦の感情を減らす,ということが言われたりします(第6章)。この辺りは何となくアリストテレスの『ニコマコス倫理学』に似てきた,と思うのは気のせいでしょうか。

アテナイからの客人「さて法律の「序文」としてこれまで語られてきたことは,これで終りとしましょう。序文のつぎにはとうぜん法律 (ノモス) が来なければなりません。いや,より正確には,国家の法律の下図を描かなければならない,と言った方がむしろいいでしょう。織布やその他何にせよ,編んでつくられたものの場合,横糸と縦糸とは同じ種類の糸からつくることはできません。縦糸の材料はより優れた性質をもっていなければならないのです,――それは強くて,その性質に何かしっかりしたところがありますが,横糸の方はもっと柔かで,適当な順応性を持っています――。」(734E)

やっと序文が終わりました。第四巻では,説得的な序文に対して,本文は強制的であると言われていました。縦糸,横糸という例えは『政治家』篇を思い出しました。

アテナイからの客人「たとえば,国家の浄めについてですが,それはこんなふうにするのがいいでしょう。浄めの方法はたくさんありますが,あるものは穏やかであり,あるものは厳しいのです。同一人が僭主であるとともに立法者でもある場合には,厳しくて最善の浄めを行なうことができるでしょうが,立法者が僭主の権力を持たないで,新しい国制と法律を制定する場合には,浄めのなかで最も穏やかなものでも行なうことができれば,それだけでけっこう満足するでしょう。最善の方法は最良の薬と同様に苦いものです。それは罪を伴う裁判によって懲らしめるやり方であり,最高の罰としては死や追放を科すのです。というのは,最大の罪を犯した者で矯正不可能な者は,国家にとって最大の害悪として,排除してしまうのが普通だからです。」(735D)

「浄め」とは,この前に羊や牛の例もあるのですが,善いものと悪いものをふるいにかけるものというような意味で,今でいう刑法のことだと思いました。確かに刑事罰というのは,国家の構成員を選り分けるもの,という見方もできるのかもしれません (現代感覚でいえば,犯罪者にも人権はあるわけで,どうかなあと思ってはしまうところではある)。
立法者と僭主が,同一人である場合と別々の場合,で分けるのは何気に新鮮な気がしました。立法権と行政権という感じでしょうか。今で考えれば分かれているのが当たり前ですが,プラトンの著作で,これらを明確に区別して語るところがどのくらいあっただろうか,と思います。

アテナイからの客人「この国の市民になるために集まってこようとする人たちのうち,悪い人びとは,わたしたちはあらゆる説得の手段と充分な時間とをかけて,徹底的に吟味して,入ってくるのを防ぐでしょうし,善い人びとは,できるかぎりの好意と親切とをもって迎えいれることにするでしょうから。」(736C)

移民・難民問題を連想します。似たことをマルクス・ガブリエルが言っていました (『未来への大分岐』p.220)。

アテナイからの客人「改革者のなかには,自ら莫大な土地を持ち,数多くの債務者をかかえながら,正義感から,これらの困窮している債務者たちに対し,負債の帳消しとか土地の再分配とかによって,自分の持っているものを彼らと分かち合おうと欲する人びとが,必ずあるものです。このような人びとは,何らかの仕かたで中庸を堅持し,貧乏は財産を減少することにではなく,欲望を増大することにあると考えているのです。この考えが国家の安全の最大の基礎となり,それを確固とした土台として,その上に今後,上述の条件にかなったどんな国家構造をも建てることができます。」(736D)

ここの前半で言われているのは,現在の資本主義社会の格差で苦しんでいる人たちを何とか救えないか,と苦悩している政治家を連想します (現実に存在しているかどうかはともかく…)。つまりプラトンは既にそういった状況を想定していたのだと思います。「貧乏は財産を減少することにではなく,欲望を増大する」というのも,欲望に歯止めがかからない資本主義社会に対する新しい尺度の示唆にも読めます。
但し「負債の帳消しとか土地の再分配とか」が必要なのは,古くからある国家の場合の話で,新しい国家 (ここで言われている空想上のものも含む) ではそういった土地の権利の問題などはないとも言われています。
この後,5040 という数が急に出てきます。1~10のすべてで割り切れる数ということで,色々解説されますが端的に言うと分割の単位に便利ということだと思います。

アテナイからの客人「新しい国を最初からつくるにせよ,滅びてしまった古い国を再建するにせよ,神々と神殿とについて,つまり,それぞれの神のためにどんな神殿を国内に建立すべきか,またどんな神やダイモーンにそれを捧げるべきかについて,心ある人ならば誰も,デルポイやドドネやアンモンの神託が,あるいは古い言い伝えが,何らかの仕かたで――たとえば,神々がお姿をあらわされたとか,神々のお告げがあったとかいって――人びとに信じこませたものを,変えようと試みたりはしないでしょう。」(738B)

神々の伝統は変えないと。次に続きます。

アテナイからの客人「その目的は,それぞれの地域がきめられた時期に行なう集りが,あらゆる必要をみたす機会を提供し,また犠牲の祭りを通して,人びとが互いに挨拶をかわし,親しくなり,知り合うことにあります。国家にとって,市民が相互に知り合う以上に大きな善はありません。」(738D)

決められた時期の祭りというものが,「人びとが互いに挨拶をかわし,親しくなり,知り合うこと」を目的にしていると。これはしごくまっとうに思えますが,プラトンの著作に現れると妙に新鮮な感じもします。悪く言えば現世利益的というか。
それと,何か「定期的なもの」というのがあるとしてそれは何か?と考えると,そこ (「祭り」) に行きつくのか…?とも思ったところ。

アテナイからの客人「さて,法律の制定にあたって,わたしがつぎにとる手は,将棋で神聖線から駒を動かすように,普通行なわれない手ですから,初めて聞く人をおそらく驚かすでしょう。」(739A)

「将棋」と訳されたのは一体何なのでしょう?(ギリシア語を調べる能力と気力がちょっとありません…。)勿論,今の日本の将棋ではないのは確かですが。

アテナイからの客人「そこで,あの昔からの諺が国中で最もよく行なわれているところが,最善の国家であり,最善の国制,最善の法律なのです。その諺とは「まこと友人のものは共同のもの」というあれです。もしこのことが――つまり,妻たちが共同のものであり,子供たちが共同のものであり,全財産が共同のものであるということが――現にどこかで実現されているか,あるいは将来実現されるとするならば,そしていわゆる個人のものが,生活のあらゆる面から,あらゆる手段をつくして,すっかり拭い去られ,ほんらい個人のものとされるものでさえ,何とかして共同のものになるように,たとえば,目や耳や手が共同のものとして,見たり聞いたり働いたりするとみえるような,さらにすべての人が,同じものに喜びや悲しみを感じ,称賛にも非難にもできるかぎり一致するような,あらんかぎりの工夫がこらされるならば,つまり,何らかの法律が国家を可能なかぎり一つのものにつくりあげるならば,このことが法律の持つ卓越性の規準であって,何ぴともこれより正しく,これより優れた他の規準を定めることはできないでしょう。」(739C)

『国家』でも語られた,妻,子供,財産の共有が,最善であるということが改めて語られます。理想はやはりそこなのですね。しかも今回は,目や耳や手のような個人のものもなんとか共同のものになるような,さらに喜びも悲しみも同じになるようなものが「法律」の卓越性と。
法律というものが国家を決める,いいかえると国民1人1人を1つの法律に抽象化する,という見方もできるのかもしれません。仮にそうだとすると,人間1人1人が法律に近い,換言すると全体として分散が小さい,ことがよい国家・法律である規準になる,と言っているようにも思えます。まあ変化が少ない方が真理に近いというのはプラトンがずっと書いていたことですが。でも国民1人1人の幸福というものを考え,多様性を尊重し,その総和 (または総和ではない別の指標?) が国の利益であってほしい,と自分なんかは思うので全く賛同はできません。多様性を尊重するというのは,上述の言い方をすれば分散が大きくなるということで,やはりプラトンが書いている理想とは真逆なのでしょう。

アテナイからの客人「子供が生まれやすい人びとに対しては産児制限をし,反対の場合には,名誉や不名誉をあたえたり,年配の者の若者に対する警告の言葉によって戒めて,熱心に多産を奨励し,これらの工夫によって,わたしたちのいうところの目的を達成することができます。そしてそのようにしてもついに,五〇四〇という家の数を保つことがどうしても困難になったならば,つまり,夫婦の和合の結果,わたしたちの市民が増えすぎてどうしようもなくなった場合には,これまでにたびたび述べた,あの昔ながらの方策が残っています。つまり適当と思われる人びとを,送る方も送られる方も親愛の情をもって,植民として送り出すのです。」(740D)

人口を一定にするための方策が言われます。
今の日本では,少子化が叫ばれて久しいですが,だからといって国策として多産を奨励したりして人口を維持することは今後も恐らくしないし,さもないとこのまま国が亡びるとしても,亡びを選ぶという気もします。今の日本の「大衆」はその亡びより自由を守ると考えると思います。そう考えると日本も成熟しているなと思います (私が勘違いしてなければですが)。ただ「国」として困るのも確かではあり,その立場の本能的な面をプラトンが推量して描いている,と捉えることもできると思います。
それはともかく,人が増え過ぎたら植民として送り出す,というのは,「昔の先進国の植民地政策というのは,こういう側面があったのだろうか」と思いました。考えてみれば当然かもしれませんが。
この後で,逆に災厄で人口が減った場合には,賤民を市民に受け入れるべきとも言われます。

アテナイからの客人「何ぴとも個人的には金銀をいっさい所有することを許されませんが,日常の交換のための貨幣は別です。」(742A)

「財産の私有は禁止」と言われていたが,貨幣はよいと。自分には「財産=貨幣」という認識があったため割と新鮮です。

アテナイからの客人「わたしたちの言うところによれば,心ある政治家の意図するところは,大衆の主張とは違っているのです。大衆は,よき立法者とは,彼が叡知を傾けて立法するその国が,できるだけ大きく,また金鉱や銀鉱に富み,海陸ともにできるだけ多くの人びとを支配して,できるだけ富裕であることを意図すべきだと主張します。彼らはさらに,真の立法者は,その国が最も善く,最も幸福であることを意図すべきだと付け加えるでしょう。しかし,これらの意図のうちあるものは実現可能ですが,あるものは不可能なのです。ですから,国の建設者は,実現可能なものの方はこれを欲するが,不可能なものに対しては,空しい望みを抱いたり,実現を試みたりはしないでしょう。」(742D)

確かに現実の政治家を考えるとそうかもな…と思った一方,プラトンは理想を追求するのが哲学者であり,政治家でもあるべき,とも言っていたはずとは思います。
ただ,別に政治家が理想を持っていない,と言われているわけでもありません。あるいは,ここで言われているような「国としての大きさ・富の豊かさ」をもとより善いものと思うべきでない,ということでしょうか。
その後の「非常な金持ちが同時に善き人であることは不可能」という部分も面白いです。

アテナイからの客人「最大の病気,これは内乱とよぶよりは分裂とよんだ方がいっそう正しいでしょうが,この病気に冒されまいとする国家では,国民のどこかの部分に,極端な貧困や富があってはならないからです。この二つが内乱や分裂を生むのですから。」(744D)

アテナイからの客人「まず分配地の評価額を貧困の限界とすべきである。そしてこれは不変でなければならず,いかなる役人も,誰に対しても,その財産がこれ以下に下るのを見逃してはならない。また役人以外でも,有徳の評判を得たいと願う者は誰でも,同じようにすべきである。立法者はそれを尺度として,その二倍,三倍,四倍までは持つことを許す。しかし,もし誰かがそれ以上を所有するならば,財宝の発見によるにせよ,贈与によるにせよ,金儲けによるにせよ,あるいは何か他の類似の幸運によって限度以上を手にいれたにせよ,それを国や国の守護神に献ずるならば,彼は評判を保ち罪を免れるであろう。しかし,もし誰かがこの法律に従わない場合は,誰でも欲する者はそれを告発して,限度以上の財産の半分を貰うことができる。そして有罪とされた者は,自分自身の財産のなかからそれと同額を別に罰金として支払い,また,先の限度以上の財産の残りの半分は神々のものとなる。すべてに染みんの,分配地以外の全財産は公に記録され,法律の任命する役人の管理下におかれなければならない。」(744E)

前から私有財産の禁止ということは言われていましたが,ここを読むと完全なる平等を強制するわけでもないようです。が,分配地の評価額の4倍というリミットを設ける,という社会主義と資本主義の折衷案のようなことが言われます。
現代の感覚では,「なかなかすごいことを言っている…」という感じです。ただ現代における格差の問題が,(行き過ぎた) 資本主義に由来するものであること,政治とは資源を再分配するものであるということを考えると,一理あるという気もしてしまうのは確かです。

この後の部分(14章)では,都市を国土の中央に置き,他の国土も含め12分し,5040の分配地を配分する…という話が言われます。

アテナイからの客人「ところで,わたしたちはぜひとも次のことを考慮しておく必要があります。それはいま述べたいっさいが,言葉どおりすべて実現するような好機にめぐりあうことはとうていないだろうということです。」(745E)

アテナイからの客人「「諸君,以上の議論のなかで,いま言われた批判がある意味で真実であることに,わたしが気づいていなかったなどとは思わないでいただきたい。そんなことはないのだ。というのは,将来の計画をたてるときには,いつでも次のようにするのが最も正しいとわたしは思う。つまり,計画が目差すべき理想を示す者は,最も立派な,最も真実な点を何ひとつとして落としてはならず,他方,それらのうちに実現不可能なものがあることを発見した者は,それを脇にのけて実行せずにおき,残されたもののうち,理想に最も近く,なすべきものに最も似た性質を持つもの,それを実現すべく工夫をこらさねばならない。しかし,立法者にはその意図を最後まで語らせるべきで,それが済んだら,そのとき初めて,彼の立法の提案のうち,どれが役に立ち,どれが困難であるかを,彼ともども調べてみるべきである。」」(746B)

あくまで理想は理想で,現実には実現不可能なものもあると。これに似た言葉は『国家』でも言われていました。
ただ,理想があってこその現実,ということはぶれていないと思います。プラトンは「イデア」を棄てたとしても,「理想」を棄てたわけでは決してなかったのだと思います。かつ,現実に目を向けざるを得なかった。『国家』篇から『法律』篇まで,この両者に挟まれながら,最善の国家を目指したプラトンの苦悩を想像して余りあるところです。

アテナイからの客人「立法者たる者は,これらすべてに眼を向けて,すべての市民に,これらの数の与える秩序からできるかぎり外れることのないように命じるべきです。なぜなら,家政にとっても,国政にとっても,他のどんな技術にとっても,一つの教科として,数の学問ほど大きな力を持つものはないからです。その最大の利点は,生まれつき無気力で愚鈍な人間を目覚めさせ,理解力に富んだ,物覚えのよい,俊敏な者に仕立てあげ,この神的な術知のおかげで,彼が生まれつきの能力を超えた進歩をするということです。」(747A)

「12の部分への分割」が,土地だけではなく貨幣や固体や液体や重さの単位にまで影響を及ぼすが,それを理解するために数学への理解が必要,という意味で言われているのだと思います(但し,「ひとが卑しさと貪欲とを法律と慣習によって取り除くならば,立派な教科となる」が,そうでなければ「知恵の代りに奸智をつくりあげる」とも)。
あんまり厳密な意味は不明ですが同意したくなります。現代で言えば,数学に加えて哲学も加えてもよいのかも。いずれにしても,政治に携わる人,政治の意味を考える人,双方にとって,数学 (や哲学) (的な思考) が重要な役割を果たすと思います。ある事柄についてニュートラルな立場で「それは何なのか」と考えて説明できることは,政治に限らず全体の成熟につながるのではないか?と思います。そうでないと自社の製品がどういう技術に基づいているのかを知らず,ただ口先だけで売るようなものだと思います。

以上で第五巻は終了です。
プラトンは『国家』篇の後,理想の国家に対する考えが変わったと言われることが結構あると思いますが,ここを読むと,意外と変わっていないじゃん,という感想を持ちます。ただ「法律」というものを明確に背後に置いて語っているというところはそもそも異なります。
また「5040」という数字が出てきて,多用されているのも印象的です (『国家』でもいきなり調和級数が出てきたりしてましたが)。それが妥当かどうかは別にして,こういう法律とか政治を背負った内容でも,数学とか技術といったものを決して無関係なものとはせずに,「善さ」を説明するには必要である,という姿勢は全く以て共感します。当時は分ける理由がなかったのだと思いますが。

第六巻に続く。