プラトン『国家』第四巻メモ(3)

プラトン『国家』((プラトン全集 (岩波) 第11巻) 第四巻を読んだときのメモ第3弾。

前回のメモ第2弾で,国家としての<知恵><勇気><節制>そして<正義>についての対話を見てきました。今回はその続きで,個人としての<正義>を考える部分です。
基本的には,国家の場合の延長線上にあります。というのは,「ひとが同じ名で呼ぶものは,それが大きなものであれ,小さなものであれ,同じ名で呼ばれるちょうどそのその点に関する限り,似ている」(435A) と言われているからです。しかし対話の中では,人の性質 (=国家と同じような<知恵><勇気><節制>に当たる) というものが魂全体から出てくるものなのか,それとも魂の内の別々のはたらきから出てくるものなのか,ということが大きなテーマとなり,それを説明するために順序だてられたソクラテスの話が面白いです。
最後に,国制に関する話題を始めたところでこの第四巻が終わります。

以下は読書時のメモです。

「しかるに,国家が正しい国家であると考えられたのは,そのなかに素質の異なった三つの種族があって,そのそれぞれが自己本来の仕事を行なっているときのことであり,さらにまた,それが節制を保った国家,勇気ある国家,知恵ある国家であるのも,同じそれらの種族がもっている他の状態と持前によるものであった」
「そのとおりです」と彼は答えた。
「してみると,友よ,個人もまたそのように,自分の魂のなかに同じそうした種類のものをもち,それらが国家における三種族と同じ状態にあることによって,当然国家の場合と同じ名前で呼ばれてしかるべきことになると,われわれは期待しなければならないだろう」(435B)

ここが丁度話題の転換点で,これ以後,国家としての<正義>→個人としての<正義>の追求へと移っていきます。

「そして,いいかね,グラウコン,ぼくの考えを打ち明けていえば,こうした問題をほんとうに正確にとらえるということは,われわれがいま議論のなかで採用しているような行き方をもってしては,けっしてできないだろう。その目標へ到達するための道としては,別のもっと長い道があるのだから。ただしかし,これまで語られ考察されてきた事柄に相応するような把握の仕方なら,できるだろうがね」(435D)

「こうした問題」というのは,直前のやりとりから,個人の魂の中身がどうなっているのか,ということだと思います。国家→個人という帰納的なアプローチによると,国家の場合は確かに人の魂,心というものは考えずに現実を基にしていたと思います。しかしながら,ソクラテスも読者も本当に解明したいのは (そしてなかなか解明できないのが),この問題という気もします。解説によると,「別のもっと長い道」は第六巻で取り上げられることになるようです。

「いったい,われわれは同じ一つのものによって,いま挙げられたようなそれぞれの性格のことを行なうのであろうか,それとも,三つの異なったはたらきのものがあって,そのそれぞれによって別々のことを行なうのであろうか。つまり,われわれは,われわれの内なるある一つのものによって物を学び,また別のものによって気概にかられ,さらにまた第三のものによって,食べたり生んだりすることや,すべてそれに類することにまつわるさまざまの快楽を欲望するのであろうか。それとも,われわれが行動を起すときにはいつも,われわれは魂全体によってそれらのひとつひとつのことをするのであろうか―。このような問題になると,納得の行くような決定を与えるのが難しいことになるだろう」(436B)

急に自問しだすこの辺からソクラテスの寝技にかかるというか,一体何が対話の目的なのかが分かりづらくなってくるところです(笑)。ただあとから振り返ってみると,これが結局「自分のことをする」という国家に関して言われた<正義>を個人にも適用するための種になっていることが分かります。

「いうまでもなく,同一のものが,それの同一側面において,しかも同一のものとの関係において,同時に,相反することをしたりされたりすることはできないだろう。したがって,もし問題となっているものの間に,そういう事態が起るのをわれわれが見出すとすれば,それは同一のものではなくて,二つ以上のものであったことがわかるだろう」(436B)

これも急に何を言ってるのかという感じですが,布石の1つです。教科書に載っている数学の証明とかで,「補遺」とか言って何の関係もなさそうな定理をまず証明しておいて,それが元の問題の証明の最後に使われたりすることがありますがそれに似ていますね。
それはそれとして,ソクラテスはここで「独楽は静止していると同時に動いている」といったパラドックスを明確に論破しています。この辺りは科学の本を読んでいるようです。

「では,以上のとおりだとすれば,われわれは,<欲望>というものがあるひとつの種類をなしていて,そのなかでいちばんはっきりしているのは,われわれが渇きと飢えと呼ぶものであると,こう主張してよいのではないかね?」
「ええ,そう主張するでしょう」と彼は答えた。
「一方は飲み物への,他方は食物への欲望なのだね?」
「ええ」
「ところで,渇きというものは,それがただ渇きであるかぎりにおいては,いま言われたもの以上の何かに対する,魂のなかの欲望であろうか?たとえば,渇きははたして熱い飲み物や冷たい飲み物に対する渇きであり,あるいはたくさんの飲み物や少しの飲み物に対する渇きであり,一言でいえば,何らかの性質の飲み物に対する渇きなのであろうか?それとも,渇きのうえに熱さの感じが加わってはじめて,それは冷たい飲み物に対する欲望となり,冷たさの感じが加わってこそはじめて,熱い飲み物に対する欲望となるというのが,ほんとうであろうか?また,多量という性格が加わることによって渇きが大きな渇きとなるならば,それはたくさんの飲み物に対する欲望となり,逆に渇きがわずかな渇きであるならば,少しの飲み物に対する欲望になるのではなかろうか?そして渇きそれ自体は,それの本来対象であるところの,飲み物それ自体以外のものに対する欲望となることはけっしてなく,同様にしてまた,飢えの対象となるのは,ただ単純に食べ物なのではないだろうか?」
「そのとおりです」と彼は言った,「それぞれの欲望それ自体は,ただもっぱら,その本来の対象であるそれぞれのもの自体に対するものであって,対象が『これこれしかじかの』ものであるのは,欲望のほうにも何かがつけ加わっている場合です」(437D)

ここは非常にプラトンらしさを感じる部分です。次にも書きますが,何というか数学的なんですよね。

「だがしかし」とぼくは言った,「およそ何かあるものとの相関関係において成立しているようなものは,ぼくの考えでは,その当のものが何らかの性質のものであれば,相関する相手も何らかの性質のものであるが,それぞれのもの自体は,ただそれぞれのもの自体との関係においてのみあるのだ」(438B)

続きですが,こういう話になると,数直線とか x-y 平面とか,あるいは関数型言語の Map 関数とか Functor 型のようなものを思い浮かべてしまいます。「飲み物」と「渇き」が線形独立である,といったイメージでしょうか。まあこれは自分のイメージなのでどうでもいいのですが。

「では,知識に関することはどうだろう?そのあり方は同じではなかろうか。知識とは,それ自体としては,ただ学ばれるものそれ自体の知識なのであり,あるいは知識の対象を他のどのような言葉で規定すべきであるにせよ,そのもの自体だけにかかわるものであるが,しかし,ある特定の知識,何らかの性質の知識は,ある特定のもの,何らかの性質のものを対象とする。ぼくの言う意味は,次のようなことだ。―知識が家を作ることの知識として成立した場合には,それは他のもろもろの知識から区別されて,建築術と呼ばれることになるのではないかね?」
「ええ,それに違いありません」
「それは,その知識が他のどの知識とも違うような,ある特定の性質の知識であることによってではないかね?」
「ええ」
「その知識は,ある特定の性質のものを対象とするからこそ,それ自身もある特定の性質の知識となったのではないか。そして同じことは,他のさまざまの技術や知識の場合にもいえるだろうね?」
「そのとおりです」(438C)

「何らかの性質のものを対象とする知識は,何らかの性質の知識」というのは当たり前のようですが,今までの話の延長線上で考えるとなるほどなと思います。対象がない知識 (というか,個人の「善」になるような知識?) というものが真の知識という,普通とは逆の (つまり具体的でない知識に意味はないだろうというのとは逆の) 結論になってしまうのでは,とも少し思います。

「そして,そのような行為を禁止する要因が発動する場合には,それは理を知るはたらきが生じて来るのであり,他方,そのほうへ駆り立て引きずって行く諸要因は,さまざまの身体条件や病的状態を通じて生じて来るのではないだろうか?」
「そう思われます」
「そうすると」とぼくは言った,「われわれがこう主張するのは,けっしていわれのないことではないというべきだろう―すなわち,それらは互いに異なった二つの別の要素であって,一方の,魂がそれによって理を知るところのものは,魂のなかの<理知的部分>と呼ばれるべきであり,他方,魂がそれによって恋し,飢え,渇き,その他もろもろの欲望を感じて興奮するところのものは,魂のなかの非理知的な<欲望的部分>であり,さまざまの充足と快楽の親しい仲間であると呼ばれるのがふさわしい,と」(439C)

この部分だけだと分かりづらいですが,「渇きは飲み物を欲するが,それでも人は飲み物を敢えて飲まない場合がある,それは魂の中の何か別のものである,それは何か」ということが考えられています。ここで<理知的部分>と<欲望的部分>というのが導入されます。
一番分かりやすいのが,「食べたい」(欲望) けど「食べると太る (あるいは持病が悪化する)」(理知) といったことだと思います。

「そしてそれはまた,ほかの多くの場合にもわれわれの気づくところではないかね」とぼくはつづけた,「欲望が理知に反して人を強制するとき,その人は自分自身を罵り,自分の内にあって強制しているものに対して憤慨し,そして,あたかも二つの党派が抗争している場合におけるように,そのような人の<憤慨>は,<理性>の味方となって戦うのではないかね?これに反して,自分に敵対する挙に出てはならぬと<理性>が決定を下しているのに,<気概>が<欲望>の側に与するということは,思うに,君はかつてそのような事態が君自身のうちに生じたのに気づいたことがあるとは主張できないだろうし,またほかの人のうちにしてもそうだろうと思うのだが」(440B)

欲望が理知に反する場合に,理知の側に立って戦うのが<気概的部分>ということが言われます。
実際には理知が欲望に負けることもしょっちゅうありますが,それでも気概というものは理知 (理性) の味方であり続けるものだと。
そういえば,なんかこの手の話題は,アリストテレスが三段論法を取り入れたりして精緻に分析していたような気もします。

「そうするとそれは,その<理知的部分>とも別のものなのだろうか,それとも<理知的部分>の一種族であり,したがって魂のなかには三つではなく二つの種族のもの―すなわち<理知的部分>と<欲望的な部分>と―があるだけだ,ということになるのだろうか?それとも,ちょうど国家において,金儲けを業とするもの,統治者を補佐する任をもつもの,政策を審議する任に当るものという,この三つの種族があって一国をまとめていたのと同じように,魂の内においてもまた,この<気概の部分>は第三の種族として区別され,悪しき養育によってだめにされないかぎりは,<理知的部分>の補助者であることを本性とするものなのであろうか?」(440E)

この辺りで気づくのですが,「三辺の比がそれぞれ等しい」という三角形の相似条件に当てはめるように,先に考えた国家と今考えている個人というものが相似ていると考えようとしているのが分かります。

「しかるに,この点はわれわれがよもや忘れてしまっているはずのないことだが,国家の場合は,そのうちにある三つの種族のそれぞれが『自分のことだけをする』ことによって正しいということだった」
「忘れてしまっているとは思いません」
「すると,ここでわれわれは,われわれのひとりひとりの場合もやはり,その内にあるそれぞれの部分が自分のことだけをする場合,その人は正しい人であり,自分のことだけをする人であるということを,憶えておかなければならないわけだ」(441D)

ということで,個人の場合にもやはり『自分のことだけをする』ことが<正義>だと言われます。
もっとも,素直に「自分のことだけをすることが正義」という言葉にしてしまうと,あまりにも誤解を生みそうなところではあります。<理知的部分>と<欲望的部分>と<気概的部分>のそれぞれがそれぞれのことだけをするように自分を戒める,と考えると途方も無く難しく感じます。

「そしてわれわれは,思うに,この部分のゆえに一人一人の人間を勇気ある人と呼ぶことになるのだ。すなわちそれは,その人の<気概の部分>がさまざまの苦痛と快楽のただ中にあって,恐れてしかるべきものとそうでないものについて<理性>が告げた指令を守り通す場合のことだ」
「正しい呼び方です」と彼は答えた。
「他方,知恵があると呼ぶのは,その人のうちで支配し,それらの指令を告げたあの小さな部分によるのであって,この部分もまた,三つの部分のそれぞれにとって,またそれらの部分からなる自分たちの共同体全体にとって,何が利益になるかということの知識を,自分の内にもっているのだ」
「ええ,たしかに」
「ではどうだろう,節制ある人と呼ぶのは,それらの部分の相互の間の友愛と協調によるのではないかね?すなわちそれは,支配する部分と支配される二つの部分とが,<理知的部分>こそが支配すべきであることに意見が一致して,この支配者に対して内乱を起さない場合のことだ」
「確かに節制とは」と彼は言った,「それ以外のものではありません。国家の場合も,個人の場合も」(442B)

<勇気><知恵><節制>についても,国家と同様であるということがここで言われます。実際,ここで言われていることは実感としてもそうだなあと思うことです。

「ただし実際には,グラウコン,それは―だからこそ役にも立ったわけだが―<正義>の影ともいうべきものだったのだ。生まれついての靴作りはもっぱら靴を作って他に何もしないのが正しく,大工は大工の仕事だけをするのが正しく,その他すべて同様であるという,あのことはね」
「そのようです」
「真実はといえば,どうやら,<正義>とは,たしかに何かそれに類するものではあるけれども,しかし自分の仕事をするといっても外的な行為にかかわるものではなくて,内的な行為にかかわるものであり,ほんとうの意味での自己自身と自己自身の仕事にかかわるものであるようだ。すなわち,自分の内なるそれぞれのものにそれ自身の仕事でないことをするのを許さず,魂のなかにある種族に互いに余計な手出しをすることも許さないで,真に自分に固有の事を整え,自分で自分を支配し,秩序づけ,自己自身と親しい友となり,三つあるそれらの部分を,いわばちょうど音階の調和をかたちづくる高音・低音・中音の三つの音のように調和させ,さらに,もしそれらの間に別の何か中間的なものがあればそのすべてを結び合わせ,多くのものであることをやめて節制と調和を堅持した完全な意味での一人の人間になりきって―かくてそのうえで,もし何かをする必要があれば,はじめて行為に出るということになるのだ。それは金銭の獲得に関することでも,身体の世話に関することでも,あるいはまた何か政治のことでも,私的な取引のことでもよいが,すべてそうしたことを行なうにあたっては,いま言ったような魂の状態を保全するような,またそれをつくり出すのに役立つような行為をこそ,正しく美しい行為と考えてそう呼び,そしてまさにそのような行為を監督指揮する知識のことを知恵と考えてそう呼ぶわけだ。逆に,そのような魂のあり方をいつも解体させるような行為は,不正な行為ということになり,またそのような行為を監督指揮する思わくが,無知だということになる」(443C)

今まで,何かと職人とか技術といった譬えが使われてきましたが,ここでは,<正義>とは魂の状態の保全という,とても内的なものである,ということが言葉を尽くして言われています。
そうありたい,とは思います。プラトンの著作全般に言えることですが,というか所謂哲学というものがそうなのかもしれませんが,結論が抽象的な場合が多いと思います。これは,(学問としてとらえる場合は別ですが,生きたものとするためには) それを目指すことに意味がある,ということかなと思います。具体的な結論がある場合にはそれをすればよいのですが,そういう簡単な問題ばかりではないでしょう。

「それでは<不正>とは,こんどは,三つあるそれらの部分の間の一種の内乱であり,余計な手出しであり,他の分をおかすことであり,魂の特定の部分が魂のなかで分不相応に支配権をにぎろうとして,魂の全体に対して起す叛乱でなければならないのではないか―その部分は本来,支配者の種族に属する部分に隷属して仕えるのがふさわしいような性格のものなのにね。思うに,何かそのようなこと,すなわちそれらの種族の混乱や本務逸脱が,不正,放埓,卑怯,無知,一言で言えばあらゆる悪徳にほかならないのであると,われわれは主張すべきだろう」(444B)

<正義>の反対の<不正>についても考察されます。自明なことという感じもしますが,正義←→不正,節制←→放埓,勇気←→卑怯,知恵←→無知,という対義になっていることが分かります。

「しかるに,健康をつくり出すということは,身体のなかの諸要素を,自然本来のあり方に従って互いに統御し統御されるような状態に落着かせることであり,他方,病気を生じさせるとは,それらの要素が自然本来のあり方に反した仕方で互いに支配し支配されるような状態をつくり出すことにほかならない」
「たしかにそうです」
「他方また」とぼくは言った,「<正義>をつくり出すということは,魂のなかの諸部分を,自然本来のあり方に従って互いに統御し統御されるような常態に落着かせることであり,<不正>をつくり出すとは,それらの部分が自然本来のあり方に反した仕方で互いに支配し支配されるような状態をつくり出すことではないかね」
「まさしくそうです」と彼。
「してみると,どうやら,徳とは魂の健康にあたるものであり,美しさであり,壮健さであるということになり,悪徳とはその病気であり,醜さであり,虚弱さであるということになるようだ」(444D)

魂を身体の健康・病気に譬えるというのは何度もなされていると思います。自然本来のものが健康であり正義である,というのはいわゆる性善説を思い浮かべます。

「これでもう,どうやらわれわれに残されているのは,こんどは,正しいことを行ない,美しい仕事を営み,正しい人であることが―そのような人であると知られていようといまいと―得になるのか,それとも,不正を行ない不正な人であることが―罰を受けず,善き人になるための懲らしめを受けずにすまされるなら―得になるのか,という点を考察することだろうね?」(444E)

第二巻メモ(1) で,「不正でありながら周りから正しいと思われている人」「正しいのに周りから不正と思われている人」を想定し,それでも正義を守るべきなのか?というグラウコンからの厳しい問いがありました。そもそもそれが,理想国を創造するきっかけだったわけで,やっとそこに戻ってきたという感じです。尤もその当のグラウコンは,「身体の本来のあり方がだめになっているとしたら,たとえありとあらゆる食物や飲み物,あらゆる富とあらゆる地位を与えられるとしても,人生は生きるに値しないと思われています」(445A) と,「ばかげた考察」だと言ってしまっていますが。
また,『ゴルギアス』などでも似たことは考察されていました。

「国制のあり方がいろいろあって」とぼくは言った,「いくつかの種類に区別されるのに応じて,どうやら魂のあり方のほうも,ちょうどそれと同じ数だけあるようなのだ」
「いったい,いくつあるのですか?」
「国制のあり方も魂のあり方も」とぼくは言った,「それぞれ五つずつ」(445C)

ということで,国制のあり方にテーマが移っていくことになり,ここまで言われてきた理想国では支配者の数によって<王制><優秀者支配制(アリストクラティアー)>と呼ばれる…と言われたところで第四巻が終わります。

この後,第五巻では王制の話の続きから始まる…と思いきや実際には,アデイマントス,ポレマルコス,トラシュマコスといった人物に引き止められ,別のテーマを論じることになります。それは「3つの大波」と言われる割と衝撃的な提案を含みます。

というわけで,続く…。

プラトン『国家』第四巻メモ(2)

プラトン『国家』((プラトン全集 (岩波) 第11巻) 第四巻を読んだときのメモ第2弾。
メモ第1弾で,守護者はどうあるべきか,法律では何を規定すべきか,といった内容の対話がなされました。 そしてついに,理想国家がひとまず建設され,正義を探し出すフェーズへと意向することになります。
その中でも,まず国家としての正義を見出すための対話がなされた部分を,このメモ第2弾で見ていきます。長いので,個人としての正義については第3弾に。

「さてそれでは」とぼくは言った,「こんなふうにすれば問題のものを見つけ出せるのではないかと,ぼくは期待するのだがね。―われわれの国家は,思うに,いやしくもそれが正しい仕方で建設されたとすれば,完全な意味においてすぐれた国家であるはずだ」
「たしかにそうでなければなりません」と彼は言った。
「とすれば明らかに,この国家は,<知恵>があり,<勇気>があり,<節制>をたもち,<正義>をそなえていることになる」
「ええ,明らかに」
「そうすると,もしわれわれがこの国のなかに,いま挙げたもののうちのどれかを見出すとすれば,残ったものが,まだ見出されていないものにほかならない,ということになるのではないか?」(427E)

この部分だけだと分かりづらいですが,この理想国家 = <知恵> + <勇気> + <節制> + <正義> なので <正義> = 理想国家 – (<知恵> + <勇気> + <節制>) である,という補集合的な考え方がなされて,<知恵><勇気><節制>が何かが分かれば自ずから<正義>が何かが分かる,ということで前者3つが追求されます。
ふと「行政 = 国家 – (立法 + 司法)」という,行政とは何かという説明の仕方を思い出しました。割と消極的というか退嬰的というか,そういう印象は持ちます。大体,理想国家 = <知恵> + <勇気> + <節制> + <正義> の根拠も薄いです。尤も,結局<正義>についても十分に説明がなされるので,この論法である必要があるのかは不明です(笑)。まあでも面白いやり方で印象に残りました。

「し てみると,自然本来のあり方に従って建てられた国家は,みずからの最も小さな階層と部分にほかならない指導者・支配者によってこそ,またその最小部分のう ちにある知識によってこそ,全体として<知恵>があるということになるわけだ。そしてどうやら,本来最も少数しか生じないところのこの種族こそは,他のもろもろの知識のなかでそれだけが<知恵>と呼ばれてしかるべき知識に,あずかることができるもののようだ」(428E)

<知恵>とは何かについてのまとめです。この理想国では,支配者に当たる最も少ない人々の知識が<知恵>に当たることになるようです。
微妙に権威的な感じもしますが,まあ日本でも,政治家特に大臣が国の大事なことを決定するわけなので,その人たちの知恵が国家としての知恵だと見做されても不思議ではないでしょう。

「<勇気>とは」とぼくは言った,「一種の保持であるとぼくは言うのだ」
「保持といいますと,いったいどのような」
「恐ろしいものとは何であり,どのようなものであるかについて,法律により教育を通じて形成された考えの保持のことだ。また,その考えをあらゆる場合を通 じて保持しつづけると言ったのは,苦痛のうちにあっても,快楽のうちにあっても,欲望のうちにあっても,恐怖のうちにあっても,それを守り抜いて,投げ出 さないということだ。」(429C)
「こうしてぼくとしては,このような力のことを,すなわち,恐ろしいものとそうでないものについての,正しい,法にかなった考えをあらゆる場合を通じて保持することを,<勇気>と呼び,そう規定したいのだ。もし君に何か異論があるのでなければね」
「いいえ,何も異議はありません」と彼は言った,「それと同じものに関する正しい考えであっても,教育によらずに生じたもの,つまり動物や奴隷がもってい るようなそれを,あなたはあまり永続的なものとは考えないでしょうし,<勇気>とは別の名で呼ばれるだろうと思いますからね」(430B)

今度は<勇気>ですが,これは結構深いです。まずは<勇気>についても,「国家のことを臆病だとか勇気があるとか言うにあたって,その国を守って戦い,国のために出征する部分以外のものに目を向けてそう言うだろうか?」(429B) と,<知恵>と同じで国家の一部分によると言われますが,「一種の保持」というのはかなり抽象化した言い方です。
この後で,洗剤でも水洗いでも色落ちしない染物の例が出されるのですが,それと同じで,何を恐れ何を恐れるべきでないか,ということを教育によってしっかり身に付け,それが揺るがないのが<勇気>である,という意味で「保持」と言われているようです。 プラトンの抽象志向のようなものが感じられます。その究極は言わずもがなの「イデア」ですが。この<勇気>の説明にしても,後から思い出すとじわじわ来ます。

「し かし」とぼくは言った,「この表現が実際に言おうとしているのは,こういうことだと思われる。―つまり,その人自身の内なる魂には,すぐれた部分と劣った 部分とがあって,すぐれた本性をもつものが劣ったものを制御している場合には,そのことを『おのれに克つ』と言っているのである。いずれにしてもこれは, ほめた言い方だ。そして他方,悪い養育や何かの交わりのために,少数者としてのすぐれた部分が大ぜいの劣ったものによって支配されるにいたった場合は,こ れを恥ずべき状態として非難して,そのような状態にある人のことを『おのれに負ける』とか『放縦である』とか呼ぶわけなのだ」
「ええ,じっさいそういう意味のようですね」と彼は答えた。
「それでは」とぼくは言った,「新しくできたわれわれの国家に目を向けたまえ。そうすれば君は,そのなかに,いま言った状態のうちの一方が実現しているの を見出すことだろう。というのは,この国家は正当に,自分自身に克っていると呼ばれてしかるべきだと,君は主張するだろうからだ―いやしくも,自分のなか のよりすぐれた部分が劣った部分を支配しているようなものは,節制があり,自分自身に克っていると呼ばれるべきであるならばね」(431A)

今度は<節制>の追求に入っていますが,「おのれに克つ」という言い回しについて,「おのれに克つということはおのれに負けるということだから矛盾するのでは?」とソクラテスがちょっと寄り道します。現代でもよく使う言い回しですが,当時でもあったのですね。
そしてここでソクラテスが言う「おのれに克つ」ということが<節制>だというのは,実感があります。ただここで話題になっているのはどちらかといえば国家としての<節制>で,後に続きます。

「他方しかし,単純にして適正な欲望,知性と正しい思わくに助けられ,思惟によって導かれる欲望はといえば,君はそれを少数の,最もすぐれた素質と最もすぐれた教育を与えられた人々のなかにしか,見出さないだろう」
「そのとおりです」と彼は答えた。
「それでは,こうした事情がちゃんと君の国家のなかに存在していて,そこでは,多数のつまらぬ人たちのいだく欲望が,それよりも数の少ない,よりすぐれた人々の欲望と思慮の制御のもとに支配されているのを,君は目にするのではないかね」(431C)

ここでは,国の<知性>に当たる人たちの欲望が正当化され―正当化というか,その人たちの欲望が「善」を求めるものだという前提があると思いますが―,その他多数の欲望が「つまらぬ」もの,という言い方がなされます。
ここは民主主義的ではなく,僭主制のようなものを志向するプラトンの考えがよく分かるという気がします。しかしそれは現実を直視して目をそらさなかったからではないか,ということだとも現代の視点からは思います。

「では,国民たちがそのような状態にあるとき,<節制>は彼らのどちらの側にあると君は言うだろうか。支配する人々のうちにあるのだろうか,それとも支配される人々のうちにあるのだろうか?」
「どちらのうちにも,でしょう」と彼は答えた。
「とすれば,わかるかね?」とぼくは言った,「ついさっきわれわれが,<節制>は調和に似たところがあると予言したのは,間違っていなかったわけだ」
「どうしてですか?」
「こういうわけだ。―<勇気>と<知恵>の場合は,どちらも国家のある特定の部分のうちに存在することによって,一方は国家を知 恵のある国家として,他方は勇気ある国家にするということだったが,<節制>はそうではない。それは国家の全体に,文字通り絃の全音域に行きわたるように行きわたっていて,最も弱い人々にも強い人々にも,またその中間の人々にも,完全調和の音階をもとに同一の歌を歌わせるようにするものなの だ。ここで言う強い人々と弱い人々とを区別する点は,知恵であれ,力であれ,人数の多少であれ,財産であれ,その他これに類する何であれ,君ののぞむまま の観点であってよいのだがね。いずれにせよこのようにして,われわれは,まさにこのような合意こそが<節制>にほかならないと,きわめて正当 に主張することができるだろう―すなわちそれは,国家の場合であれひとりひとりの個人の場合であれ,素質の劣ったものとすぐれたものの間に,どちらが支配 すべきかということについて成立する一致協和なのだ」(431E)

ということで,<知性>や<勇気>とは違い,<節制>というのは支配する側とされる側の合意・調和,ということになります。これもなるほどという思いはありますが,他方で,支配される側が支配する側を認める,というのはなかなか大変なものであるという気もします。

「それでは,グラウコン,いまこそわれわれは,狩人のように藪を取り囲んで,どうかしたはずみに<正義>が逃げ出して姿を消し,行方不明にならないよう注意を集中していなければならない。どこかこのあたりにいることは,もう間違いないのだからね。」(432B)
「しめたぞ,グラウコン!どうやらわれわれは,手がかりとなる足跡をつかんだようだ。もうけっして逃げられるようなことはないと思う」
「それは吉報ですね」と彼が言った。
「なんとまあ」とぼくは言った,「われわれも間抜けだったものだ」
「とおっしゃると?」
「しっかりしてくれたまえ,君!」とぼくは言った,「もう長い間,最初からわれわれの足元をうろつきまわっていたようなのだよ。それがなんと,われわれの 目には入らなかったわけで,まことに笑止千万というほかはない。自分でちゃんと手に持っているものを探しまわる人がよくいるものだが,われわれもまさにそ のとおり,それに目を向けもしないで,どこか遠くのほうばかり眺めてしらべていたわけだ。われわれが見のがしていたのも,おそらくそのためだろう」 (432B)

ということで,後に残る<正義>の番になりましたが,ここは面白い部分です。残る<正義>を取り囲んで逃すまいとするソクラテスの意気込みも面白いのですが,「それは吉報ですね」とか適当に流すグラウコンも面白いです (笑)。まあ翻訳なので何ともいえませんが。
それと,何かを探していて実は手に持っていた,というのも当時からあったのだなあと思います。自分もペンをなくしたと思ったら持っていたりポケットに入っていたりということがよくあります。その,手に持っていたものが何かということが次です。

「それでは」とぼくは言った,「ぼくの言うことに一理あるかどうか,聞いてくれたまえ。―つまり,われわれが先に国家を建設していたとき,いかなる場合にも守らなければならぬ原則として最初に立てたこと,そのことが,あるいは少なくともそのことのひとつの形態が,ぼくの思うには,とりもなおさず<正義>にほかならないようなのだ。ではわれわれが原則として立て,その後もなんどもくり返して口にしたことは何であった かといえば,それは,君が憶えているなら,こういうことだったはずだ―すなわち,各人は国におけるさまざまの仕事のうちで,その人の生まれつきが本来それに最も適しているような仕事を,一人が一つずつ行なわなければならないということ」
「たしかにわれわれは,そのように言っていました」
「そして,自分のことだけをして余計なことに手出しをしないことが正義なのだ,ということも,われわれはほかの多くの人たちから聞いてきたところだし,自分でもしばしば口にしたことがあるはずだ」
「ええ,たしかに」
「そこで,友よ」とぼくは言った,「おそらく,そのことがある仕方で実現されたものが<正義>なのではあるまいか―この『自分のことだけをする』ということが。どうしてぼくがそう考えるか,わかるかね?」(433A)

ということで,<正義> =「自分のことだけをする」ということが言われます。唐突に言われると,それが何故<正義>なのかよく分からないところですが,確かに一人がそれぞれのことを1つだけ行なうべきだというのは何度も言われてきたことです。

「ところでまた」とぼくは言った,「それらの徳のうちで,とくにどれが国の中に生じた場合に,われわれの国家をすぐれた国家たらしめることに最も大きく寄与するであろうかということを,もし判定しなければならないとしたら,これは判定しにくい問題となるだろう。いったいそれは,支配する人々とされる人々との間の意見の一致なのか,それとも,何が恐るべきもので何がそうでないかについての法にかなった考えが,軍人たちのうちに保持されることか,それとも,支配者たちのうちにある守護のための知恵なのか,それともまた,このこと―各人が一人で一つずつ自分の仕事を果し,それ以上の余計なことに手出しをしないというこの原則―が,子供のうちにも女のうちにも,奴隷のうちにも自由人のうちにも職人のうちにも,支配者のうちにも支配される者のうちにも実現されるならば,ほかならぬそのことこそが,国家をすぐれたものとするのに,他の何にもまして寄与するのであろうか…」(433C)

<正義>の追求の中での一節ですが,ここでは言及される順に<節制><勇気><知恵>そして<正義>とはなんなのかのコンパクトなまとめになっています。そしてどれが一番重要であるかとも問いますが,ここでは<正義>も他の3つと同等に重要であるというくらいしか言われません。

「しかしながら,思うに,生まれつきの素質において職人であるのが本来の人,あるいは何らかの金儲け仕事をするのが本来である人が,富なり,人数なり,体の強さなり,その他これに類する何らかのものによって思い上ったすえ,戦士の階層のなかへ入って行こうとしたり,あるいは戦士に属する者がその素質もないのに,政務を取り計らって国を監視・守護する任につこうとしたりして,これらの人々がお互いの仕事道具や地位を取り替える場合,あるいはまた,同じ一人の人間がこれらすべての仕事を兼ねて行なおうとするような場合は,こうした階層どうしのこのような入れ替りと余計な手出しとは,国家を滅ぼすものであるということに,君も同意見だろうと思う」
「ええ,完全に同意見です」
「してみると,三つある種族の間の余計な手出しや相互への転換は,国家にとって最大の害悪であり,まさに最も大きな悪行であると呼ばれてしかるべきだろう」
「まさにそのとおりです」
「しかるに,自分の国家に対する最大の悪行こそは,<不正>にほかならないと君は言うだろうね?」
「ええ,むろん」(434A)

「職人や,金儲けをする人」「戦士」「国を監視・守護する人」という三つの種族が,それぞれ分を弁えずに他の種族に手出ししたりすることは国家を滅ぼすので<不正>であると言われます。またここでは省いていますが,よって逆にそれぞれの自己本来の仕事を守ることが<正義>である,とも言われます。
現代でも,一番分かりやすいのは「文民統制」が必須とされ,軍部大臣現役武官制が否定されているようなことでしょう。それは常識になっていますが,寧ろ逆に政治が色んなことに口を出して他の専門分野を弱めたり意気を阻喪させたりすることのほうが可能性は高いかもしれません。
それと個人的には,このような完全分業と,逆に一人が色んな責務を兼務するというのは,ある一方に傾いた時にはすでに逆側への欲求が発生するように思っています。サインカーブのように,2回微分すると常に正負が逆転するというか。よく分業されている場合は,横断的な役割の人が欲しいと思うし,逆に一人が色んな役割を担っていると,個々の技術が稚拙になるのでもっと分業を進めて欲しいと思います。まあ理想国を考えるにあたってはどうでもよいことですが,これも同じで,理想国が実現しつつあるからこそ現実を考えずにはいられないということでもあるはずです。

「しかしさしあたっていまは,前からの考えに沿った考察を,終りまで進めることにしよう。すなわちわれわれは,こう考えたのだった―<正義>の考察のためには,それをもっているもののうちで,より規模の大きなものを何か先に取り上げて,先にそのなかでそれを観察してみるならば,一個人のうちにおける<正義>がどのような性格のものであるかを,見きわめるのが容易になるであろう,と。そしてわれわれには,そのような規模の大きなものとは,国家にほかならないと思われた。そういうわけでわれわれは,われわれにできるかぎりのすぐれた国家を建設してきたのだった。<正義>はすぐれた国家のうちにこそあるだろうことを,よく知っていたので。
そこでいま,その国家のなかにわれわれが見出したものを,こんどは個人の場合に当てはめてみることにしよう。そして,もしそのまま承認されるならそれでよいし,またもし個人の場合には何か違ったものとして現われるのであれば,もういちど国家の場合に立ちかえって,吟味しなおしてみなければならないだろう。おそらくは,そのようにして両者をつき合せてしらべ,両者を擦り合せて行くうちに,やがてあたかも火切り木から火花が出てくるように,<正義>を明らかにして輝き出させることができるだろう。そしてそれが明らかになったならば,われわれは自分自身のうちでそれを確かめてみるべきだろう」(434D)

ということでここまでで国家の<正義>の考察は終わり,個人としての<正義>に考察が移ります。
何度も言ってきていますが,国家と個人は相似であるという前提でまず規模の大きい国家としての<正義>を追求し,それから個人にもその<正義>を適用しようという話の流れです。といっても,ここまでの国家としての話は,そのまま個人も適用できそうなものばかりで,実際そうなのですが,プラトンらしい独特の表現が沢山出てくるので面白い部分です。

メモ(3)に続く…。

プラトン『国家』第四巻メモ(1)

プラトン『国家』((プラトン全集 (岩波) 第11巻) 第四巻を読んだときのメモ第1弾。

まずは第三巻の続きから始まります。第三巻の終わりで,ソクラテスは国の守護者の在り様を語りました。それは,第三巻メモ(3) でも述べましたが,私有財産を持たず,自分の住居も持たず,(魂の中に金銀を持つという選ばれた人間なのだから) 報酬も貰えない,というものでした。読む人誰しもが,「そんなの全然幸福じゃない」と思うはずですがここでアデイマントスが読者に代わって (?) ソクラテスに問います。

それから,国家はどうあるべきかという話になってきます。国家が大きくなりすぎてはいけない…分裂してしまうからとか,教育・養育がそのために必要であるとか,法律ではどのようなことを規定すべきなのかとか。
そしてこれが第四巻のメインテーマになってくると思いますが,すぐれた国家は<知恵>,<勇気>,<節制>,そして<正義>を備えているとソクラテスは言い,それらは一体何なのか,ということが論じられます。ここでの<正義>の追求の仕方がちょっと面白いですがそれはメモ(2)で。

また,これを受けて,個人にも同様に<知恵>,<勇気>,<節制>,<正義>を当てはめることができる,ということになります…そもそも対話に国家というものを導入したのも,個人としての「正義とは何か」を考えるに当たって,まずは規模の大きい国家についての正義を考えて,それが分かれば遡って個人の正義が分かるだろう,という第二巻のいきさつがあるので,一種のターニングポイントになると思いますが,個人に当てはめる部分はメモ(3)に書く予定です。

以下は読書時のメモと考察です。

ここでアデイマントスが口をはさんで,次のように言った,
「ソクラテス,あなたは,もし誰かがこう主張したとしたら,いったい何と弁明なさるつもりですか?
―あなたのお話では,この人たちはさっぱり幸福ではないことになる。しかもそれは,彼らがみずから求めてそうしていることになる。なにしろ,国家はほんとうは彼らのものであるのに,この人たちは国家から何ひとつ善いものを享受しないのだから。たとえばほかの国の支配者たちだったら,土地を所有したり,立派な大邸宅を建てたり,それにふさわしい家具調度品をそなえたり,神々に個人的な犠牲を捧げたり,客人をもてなしたり,とくにあなたがいま言われた金や銀をはじめ,およそ人が幸福であるための条件として一般に認められているすべてのものを,所有しているというのに。しかるにこの人たちはといえば,何のことはない,まるで賃銭で傭われた兵隊のように,国のなかで,ほかに何もすることなしにただ見張りをしながら,坐っているだけのように見えるではありませんか。―とこのようにその人は言うでしょう」(419A)

ということで,第三巻の終わりの話に対する当然の疑問をアデイマントスはソクラテスにぶつけます。ソクラテスも,賃銭すら貰えないので,ある意味ではもっとひどいと認めます。しかし,ソクラテスは,今考えているのは「国家全体の幸福」であるとして,次のようにかわします。かわすというか,突き放します。

「いまの場合にしてもこれと同様であって,どうかわれわれに対して,国の守護者たちに守護者であることをやめさせて,他の何にでも仕立てることになるような,そのような性格の幸福を彼らに押しつけることを,強要しないでくれたまえ。というのは,それはわれわれにしても,たとえば農夫たちに豪華な礼装をまとわせ,黄金の冠をかぶらせて,どうにでも好きなように土地を耕すよう命じたり,また陶工たちにも,火のそばで寝椅子に左から右へ席につけてくつろがせ,楽しく宴をはって飲み交すように,轆轤はかたわらに放置して,気が向いた時だけ陶器を作ればよいというように命じたり,その他すべての人々をこうした仕方で仕合せにすることによって,国家の全体を『幸福』にするというやり方があることを,知らないではない。しかし,どうかわれわれにそういうやり方をとるよう忠告するのは,やめてもらいたいのだ。」(420D)

ここで挙げたような例は,個人の幸福ではあるかもしれない,と認めてはいます。しかしそうなると,「農夫はもはや農夫ではなくなり,陶工は陶工でなくなり,またそのほかの何びとも,相まって一国を成立させているそれぞれの特性を,もはや保持しなくなるだろうからだ」(421A)と言います。
以前にも思いましたが,デジタル的というか,個人としての幸福と,国家のための職責を全うするというのが両立できないという感じでしょうか。
さらに続きます。

「―このようにして,われわれのほうは,国に対してけっして害をなすことのないような,ほんとうの意味での守護者たちをつくりつつあるのに,かの反論をなす者がめざしている『幸福』とは,国家においてではなく,いわば祭の宴において御馳走をふるまって楽しむ農夫のような人たちのそれであるとすれば,この人の論じているのは国家の問題ではなくて,何か別のことだということになるだろう。
だから,われわれが考えなければならないのは,国の守護者たちを定めるにあたってのわれわれの目標は,できるだけ多くの幸福を彼ら守護者たちの内に与えられるようにということなのか,それとも,この点についてはむしろ国家の全体に目を向けて,全体としての国の中に幸福があるかどうかを見るべきであって,問題の補助者や守護者たちには,われわれの言う別のことを説得して行なわせるべきであるのか,ということなのだ。その別のこととはすなわち,彼らが自分自身の仕事に対してできるだけすぐれた専門の職人であるように,ということであって,この点はほかのすべての人々に対しても同じようにしなければならない。そしてこのようにして,国家の全体が成長してよく治められている状態のもとでこそ,それぞれの階層をして,自然本来的にそれぞれに与えられる幸福に,あずかるようにさせるべきである。…」(421B)

ここの後半で述べられている,「彼らが自分自身の仕事に対してできるだけすぐれた専門の職人であるように~この点はほかのすべての人々に対しても同じようにしなければならない」というのは,先取りしますが,<正義>とは「自分のことをする」ということの前触れ的な面があるように思います。
それはともかく,「彼ら」の幸福よりも国家全体の幸福,という考え方を世間一般に適用させることは,第一感,危険な発想というふうに思いますし,うまく行かないのではないかなとも思います。ただソクラテスも,「靴作りの職人が堕落しても国家にとってはたいしたことはないが,法律を守護する任の者たちについては,国家の全体を根底から滅ぼすことになる」と言っています(421A)。現代でも,政治家にはここでのソクラテスの話を適用させても尤もだという気がします。

「するとどうやら,ここにもうひとつ,守護者たちがあらゆる手段をつくして,国の中に忍びこんでくるのをけっして見逃さないように見張らなければならないものを,われわれは彼のために発見したことになるようだね」
「それは何のことですか?」
「富と貧乏のことだ」とぼくは言った,「ほかでもない,一方は贅沢と怠惰と,仕事本来のきまりの改変をつくり出し,他方はそういう改変のほかに,卑しさと劣悪な職人根性をつくり出すからだ」(421E)

前の話の流れで,何が職人を,そして守護者を劣悪にするのか?それは「富と貧乏」である,ということが言われます。
実感としては,これは確かにあるなと思います。貧乏はともかく,金があれば本来はもっとよい仕事をするための道具とか環境を手に入れることができ,技術を伸ばすことができると考えることもできますが,怠けてしまうと考えるほうが自然のような気もします。それとすごい技術者などは金にこだわっていないように見えます。あくまでそう思われるだけですが。

「それでは」とぼくは言った,「いまのことはまた,われわれの国の支配者たちにとって,国家の大きさをどれだけのものにすべきか,そしてそれだけの大きさの国家のためにはどれくらいの領土を区切り取って,それ以上の土地には手を出さずにいるべきかということの,最も適切な基準ともなるだろう」
「何が基準となるのですか?」
「ぼくの考えでは,次のことがその基準となる」とぼくは答えた,「すなわち,国家が一つであることをやめることなしに増大できるところまで増大させ,その限度を越えて増大させてはならない,ということだ」(423B)

中で貧富が生じないというのが国家の条件であると,ここでのソクラテスは考えているようです。そうでなかったら,それは1つの国家ではなく,それぞれが互いに争うことになると。
こうなると「国家」とは「単位」なのかなとも思います。というか元々,単位として国家を考えてきたはずで,ここではその仮定を適用しているに過ぎないのだという気もします。
また確かに,中が均質であれば課税や社会福祉などを平等に行なえるので,国家の事業としては,ソクラテスの言う国家というのは理想的なのかもしれません。逆に,均質でないところを平等にするのが国家の事業という気もします。いずれにしても,国家というものが分割できないもの,「単位」である,というのはある本質を言い当てているように思います。

「―すなわち,ほかの国民たちをもまたそのひとりひとりを,それぞれが生まれつき適している一つずつの仕事につけるべきであって,そうすることにより,国民のひとりひとりが自分に与えられた一つの仕事を果して,けっして多くの人間に分裂することなく真に一人の人間となるように,ひいてはそのようにして,国家の全体も自然に一つの国となって,けっして多くの国に分裂することのないようにしなければならないのだ,ということをね」(423D)

これは第三巻メモ(3) のところでもあった,身分に関係なく適材適所でという発想を受けています。

「そうするとどうやら」とぼくは言った,「守護者たちとしては,どこかそのあたりに見張所を建てなければならないようだね―つまり音楽・文芸のなかに」
「たしかに法に反したことでも音楽・文芸におけるそれは」と彼は言った,「やすやすと気づかれずに忍びこんでくるものですからね」(424D)
「事実またそれは,ほかには何もしないのですからね」と彼は言った,「こういう大へんなことを別とすれば。―すなわち,そういう音楽・文芸における違法というものは,少しずつ入りこんできては住みつき,じわじわと目立たぬように人々の品性と営みのなかへ流れ込んで行く。そしてそこから出てくるときには,もっと大きな流れとなっていて,こんどは契約・取引の上の人間関係の分野を侵すことになり,さらにそこから進んで法律や国制へと,ソクラテス,大へんな放縦さをもって向かって行き,こうして最後には,公私両面にわたるすべてを覆すに至るのです」(424D)

教育に関する興味深い指摘です。現在でも,「音楽・文芸」となっているところを「ネット(インターネット)」とか「スマホ」に置き換えると案外当てはまるような気がしますが,それはちょっと安易な譬えですかね。ここではもっと深いというか抽象的なことを言われていると思います。ただ,ここでは悪い面に焦点を当てていますが,逆のこともソクラテスはちゃんと言っています(メモでは省略)。

「だからまた」とぼくは言った,「そのようにして成長した人たちは,それまでの人々がすっかり失ってしまった,些細なものに思われているいろいろの習俗をもう一度,発見し直すことにもなるだろう」
「どのような習俗のことですか?」
「こういったものだ―若い者は年長者のそばでは,しかるべく沈黙していることとか,立ち上って席をゆずることとか,両親に仕えて世話することとか,さらにはまた,髪の切り方や服装や履物などの身だしなみ全般のこと,その他これに類することだ。それとも君は,ぼくの言うようには思わないかね?」
「思います」
「けれども,こうしたことを法律によって規定するのは,愚かなことだとぼくは思う。そんなことを言葉や文字で立法化してみたところで,効果もないし,長つづきもしないだろうからね」(425A)

ここも面白い部分で,いわゆる「最近の若い者」というのが当時もいたということが分かります(笑)。
でも,法律化することは愚かだとも言っています。最近,小学校で道徳教育を復活させるとかの話題を見ることがありますが,そういう考え方にもプラトンは与しないのでしょう。
次に続きます。

「いいえ」と彼は言った,「立派ですぐれた人たちに,いちいち指図するには及ばないでしょう。そうしたことのうち,規定される必要のあるかぎりの法律の内容は,そのほとんどを,彼らはきっと容易に自分で見出すことでしょうからね」
「そうだとも,君」とぼくは言った,「もしわれわれがすでにその前に語ったいくつかの法律を保持することを,神が彼らにお許しになるならばね」
「じっさい,もしそうでなければ」と彼は言った,「彼らは一生涯,たえずそのようなこまごましたたくさんの法律を,制定したり改正したりしながら過すことになってしまうでしょう。いつかは完全なものをつかまえることができると思って」
「君の言うそのような人びとの生き方は」とぼくは言った,「ちょうど,病気をしながら不節制のために良からぬ生活法から脱け出そうとしない人たちの場合と,よく似たものになるだろうね」(425D)

アデイマントスが非常に冴えたことを言っています。ここの最初の「立派で~」の言葉は,『国家』の中でも非常に印象に残っている一節です。ただそうすると,そもそも法律は必要なの?という発想も有り得ます。
『ポリティコス(政治家)』を読んだときにも思いましたが,法律というのは「網」で,その網を作っても現実というのは刻々と変化して網をすり抜けていきます。よって網というものを離散→連続に理想化したものを実現するのが,ここでソクラテスが目指している国家なのかなと思います(後で出ますが,いわゆる「哲人政治」が最たるもの)。が現実には近似としての法律も否定してはいないと。

「ではどうだろう」とぼくは言った,「彼らのこういう点は愛嬌があるのではないかね―もし誰かがほんとうのことを告げて,君は酔っぱらったり,たらふく食ったり,色欲に耽ったり,のらくら怠けたりするのをきっぱりとやめないかぎり,薬を飲んでも,焼いてもらっても,切ってもらっても,さらにはおまじないもお守り札も,そのほかそれに類するどのようなことも,何ひとつ君の為にはならないのだよと言う者がいると,誰よりもその人を憎むという点は?」
「あまり愛嬌もありませんね」と彼は答えた,「善いことを言ってくれる人に腹を立てるということは,愛嬌のあることではありませんからね」(426B)

「それなら,ついさっきわれわれが語っていたように,国家の全体がそれと同じようなことをする場合にも,きっと気味は讃美しないだろうね。それとも君には,次のような国家がしていることは,いま言ったような病人たちと,ちょうど同じことだとは思えないかね?すなわち,国のあり方そのものが悪いのに,国民たちには国制全体を動かすことを禁じて,これを犯す者は死刑に処する旨を告示する。そして他方,そのような悪しき体制のもとにあるがままの自分に最も快い仕方で奉仕してくれる者,自分にへつらい自分のいろいろな望みを察知することによって機嫌をとってくれる者,そしてそれらの望みを充たしてくれることに有能な者があれば,そのような者こそはすぐれた人物であり,国の重大事に関して知恵のはたらく人であって,国から名誉を授けられるであろうと告示するような,そういう国家のことだ」(426B)

ここはちょっと『ゴルギアス』を思い出します(518C あたり)。真実を言うことによって,相手に憎まれることがあり,逆に相手の欲望に応じると喜ばれる,とそこでは言われていましたが,国家についても同じようなことがここで言われています。
但し,ここでソクラテスは,そういう国家に奉仕し,そして自分が有能な政治家であると思い込んでいる連中については,無知ゆえのことで「愛嬌があり」,あまり腹は立てぬことだと言っています。また彼らは先述したような,こまごまとした法律を成立・改正することで何か解決できると思い込んでいると。

「それでは」と彼は言った,「われわれが法律を制定すべきこととしては,あとまだ何が残っていることになるでしょうか?」
ぼくは言った,
「われわれにはもう何も残っていない。しかしデルポイにいますアポロンにはなお,立法される事柄のうち最も重大で,最も立派で,第一のことを規定していただかなければならない」
「とおっしゃると,どのようなもののことですか?」と彼はたずねた。
「神殿の建立や犠牲の奉納をはじめとして,神々や神霊 (ダイモーン) や英雄神へのさまざまな奉仕のことだ。さらに,死者の埋葬その他,あの世の人々に仕えてなだめるために行なわなければならないすべての供養のこともある。」(427B)

今までの話を見ていると,「では法律で規定すべきものは何なのか?」と思うわけで,その一つは前に出た教育のことと言われたわけですが,別のものとして,神事に関することが言われています。
私の印象としては,不遜かもしれませんが,割とどうでもいいことこそを法律にするのだなと思います。どうでもいいというのは誤解がありそうですが,「これが正しい」ということが絶対になく,時代が移り変わっても変わらないもの,とでもいえばいいでしょうか。

「さあそれでは,アリストンの子よ」とぼくは言った,「これでもう君の国家の建設は,すっかり完了したことになるだろう。そこでつぎには,どこかから充分な明りを手に入れてきて,この国家のなかをしらべてみたまえ。自分でしらべるだけでなく,君の兄弟も,それからポレマルコスもその他の人々も,みな助けに呼びたまえ。―いったいこの国のうちのどこに<正義>があり,どこに<不正>があるか,両者は互いにどういう点で異なっているか,また,幸福になろうとする人が,すべての神々と人間に気づかれようと気づかれまいと所有していなければならないのは,どちらのほうなのか,といったことが,何とかしてわれわれに見てとれるかもしれないと期待しつつね」(427D)

ということで,ついに理想の国家が建設され (ちょっと呆気ない感がありますが),国家としての正義についての話題になっていきます。

続きはメモ(2)に。