プラトン『ラケス』メモ

プラトン『ラケス』((プラトン全集 (岩波) 第7巻) を読んだときのメモ。

この対話篇は,戦士が重武装して戦う訓練をしているところを見物しているという場面で,リュシマコスとメレシアスが,自分たちの息子がこの戦うすべを学ぶべきかどうかを著名な将軍であるニキアスとラケス,そしてソクラテスに相談する,というのが大まかな設定です。
対話の内容は,この対話篇の副題が「勇気について」であることからも分かるように,勇気とは何であるのかということに帰着します。ニキアスとラケスで主張が異なり,しかもこの2人は仲が悪く,お互いを非難するようなことを言い,ソクラテスがなだめるようなところもあるのですが,そういうところもこの対話篇の見所なのかなと思います。勇気とは何であるか,ということの結論は,他の対話篇でもそうであるように,結局出ません。

以下は読書時のメモです。

リュシマコス「…われわれはどちらも,自分の父親についてであれば,彼らのしたりっぱな仕事を,それが戦時のことであれ平時のことであれ,同盟国の仕事であれ,この国の仕事であれ,たくさんこの若者たちに語ることができるのですが,われわれ自身のしたことというと,二人 (メモ註:リュシマコスとメレシアスの息子たち) とも何も語ることがないのです。そこでそのことで,いささかこの人たちに恥ずかしくもあり,また自分たちの父親にたいしては,われわれが青年になってからは,われわれの気ままにさせておいて,他人のことばかりに精だしていたと,とがめたりもするのです。それで,この事実をこの若者たちに示して,もし私たちの言うことをきかず自分自身に対する心がけを怠るようなことがあれば,名もない人間になるだろうが,その心がけを忘れなければ,きっと,おまえたちのもらっている名に恥ずかしくない人間になるだろう,と言っているのです。」(179C)

最初に書いたように,リュシマコスとメレシアスが自分たちの息子をどうすべきか,と相談するのが対話のきっかけになっているのですが,この2人は,自分たちが自分たちの父親ほど出世というか成功しなかったことを恥じていて,息子たちにはそうなってほしくない,という思いがあるようです。対話篇が書かれてから 2,500 年ほど経つわけですが,人の心とは変わらないものだな,などと思いました。

ニキアス「…ところで,それにすくなからぬ追加をつけますと,それを心得ることによって誰でも,それまでの自分よりずっと,戦いにおいて大胆に勇敢になるでしょう。またこのようなことは,いささか些細なことだと思う人があるかもしれませんが,ばかにせずに言っておかねばならないのは,その人はまた,それまでよりもみごとな態度を,見せるべき場所で見せることになるでしょうし,そこではまた,そのみごとな態度のゆえに敵方の目に,ずっと恐るべきものとして映るでしょう。」(182C)

ニキアスは (戦いの技術を学ばせることに) 賛成派。戦いの技術を身につけることで,態度も優れたものになると。

ラケス「それは…いずれにせよ学んでみる値うちのないものです。じっさいまたこうも思われますから。つまり,もし臆病な人が,自分はそれを知っていると信じるならば,そのことのために,いままでより向こうみずになり,その結果,じつは彼がどのような人間であったかということが,いままでよりはっきり人目にたつことになるでしょうし,またもし勇気のある人であれば,いつも人から監視されていて,すこしでもしくじればひどく悪口を言われることになるでしょう。」(184B)

ラケスは反対派。

ソクラテス「何ですって,リュシマコス?どちらか,われわれの中の多数がすすめるほうの意見を,あなたは用いようとしておいでになるのですか。」(184D)
ソクラテス「正しく判断されるためには,知識によって判断されるべきであって,数によるべきではないでしょうからね。」
メレシアス「そうですとも。」
ソクラテス「それでは,いまのばあいも,私たちの中に誰か,いまわれわれの協議している問題について,技術をもっている人がいるかいないかというそのことを,まずしらべてみねばなりません。そして,もしいるとすれば,他の人はほうっておいて,たとえ一人であってもその人の言うことに従うことにし,もし誰もいなければ,そのときは誰か他に人を探さねばなりません。」(184E)

ニキアスとラケスで意見が分かれたので,ソクラテスの残りの1票で決めてもらおうというようなことをリュシマコスは言うのですが,ソクラテスは数ではなく,確かに技術を持っている人の知識によって判断されるべきであると言います。つまりここでは民主主義的な多数決を否定します。もっとも,後の対話では,ここにはそういう人は「誰もいない」ということになるのですが。逆説的ですが,どこを探しても誰もそういう知識を持っている人がいない状態で何かを決めるとしたら,多数決になる,ということでもあるように思います。

ニキアス「といってソクラテス,重武装して戦うことが,いまのわれわれの問題であって,それを若者たちが学ぶべきか学ぶべきでないかを,しらべているのではありませんか。」
ソクラテス「たしかにそうですよ,ニキアス。しかし,人が何か目につける薬について,それをつけるべきかどうか考えるばあい,そのときそのような考慮がなされているのは,その薬についてであるとお思いですか,それとも目についてであるとお思いですか。」
ニキアス「目についてだと思います。」(185C)
ソクラテス「そうしますと,相談にのってくれる人をしらべるにあたっても,それのためをわれわれが考えてやっている,この当のものを世話する術に,はたしてその人がたけているかどうか,をしらべるべきです。」(185D)

ここは何気ない部分ですが,個人的にハッとしたところです。読書でも何でもそうですが,その内容を見て何を得られるのかというよりは,それを読む自分自身を考えるべきである,ということなのかなと。

ニキアス「誰でもあまりソクラテスに近づいて話をしていますと,はじめは何か他のことから話し出したとしましても,彼の言葉にずっとひっぱりまわされて,しまいにはかならず話がその人自身のこととなり,現在どのような生きかたをしているか,またいままでどのように生きてきたか,を言わせられるはめになるのです。さていったんそうなると,その人の言ったことを何もかもきちんと吟味してしまうまで,ソクラテスは離してくれないでしょう。」(187E)

ソクラテスの対話の特徴 (産婆術などともよく言われます) がよく出ています。ニキアスも別に嫌がっているわけではなく,「常に自分自身が成長できる」というようなことをこの後に言っています。

ラケス「つまり,もし誰かが戦列にふみとどまって敵を防ぎ,逃げようとしないとすると,よろしいか,その人は勇気のある人である,ということになるでしょう。」(190E)
ソクラテス「私のあなたにお訊きしたいと思ったのは,重甲戦において勇敢な人たちだけでなく,騎馬戦その他あらゆる種類の戦いにおいて勇敢な人々,また,戦いだけでなく,海難において勇敢である人々,さらには,病に対して,貧乏に対して,あるいは政治上の事件に対して,勇敢なすべての人々,さらにはまた,苦痛や恐怖に対して勇敢な人々だけではなく,欲望や快楽にたいしてりっぱに戦うことのできる人々―ふみとどまるにせよ,あとで向きなおるにせよ―それらの人々も含めてのことなのです。このようなことにも,勇敢な人々が,いるでしょうからね,ラケス。」(191D)

「勇気」という言葉も日常であまり使わないような気がしますが,現代でも全く同じような問答があっても全然不思議ではありませんね。確かに一義的には,敵に向かっていく気概のような印象はありますが,しかしソクラテスの言うような意味のほうが本当の勇気ということも思います…あえて現代風に言えば「リスクを冒す」という感じでしょうか。

(ここで,引用メモは略したが,ラケスは「思慮ある忍耐心が勇気である」,ニキアスは「恐ろしいものと恐ろしくないものとの知識が勇気である」と主張し,この2人は仲が悪いのかちょっと口論っぽくなったりしている。)

ソクラテス「さてわれわれのほうは,ニキアス,お聞きのように,「未来の悪が<恐ろしいもの>であり,未来の悪くないもの,あるいは善きものが,<恐ろしくないもの>である」と主張するのですが,あなたのほうは,これらについて,そのようにおっしゃいますか,それとも違ったふうにおっしゃいますか。」(198C)

ラケスとニキアスの主張では,個人的にはニキアスのほうが実感しやすいという意味で同意できます。しかしソクラテスは,それは未来だけではなく過去も現在もそうであり,しかも恐ろしいかどうかではなく善と悪についての知識ではないかとただします。そしてそれは,勇気ではなく徳の全体であり,最初に合意した,<勇気>は徳の諸部分の一つ,というのに反するので,結局<勇気>がなんであるかは見つけ得なかったということになります。

ソクラテス「われわれは,みんないっしょになって,なによりまずわれわれ自身のために―われわれは必要としているのですからね―,つぎにはまた,この若者たちのために,金銭も他の何ものも惜しまずに,できるだけすぐれた先生を探さねばならない,と私は申します。他方,われわれ自身を,現在の状態のままにしておかないように,おすすめします。」(201A)

これは最後の場面です。勇気が何であるかが結局明らかにならなかったから,というのも勿論ありますが,対話篇を通じてのラケスとニキアスのお互いを非難する姿勢を見て,
(^^).。oO (こんなことでは子供や若者の教育について論じる以前の問題だ)
と内心思っていたのではないでしょうか。

以上。『ラケス』はいわゆる初期対話篇に属する作とのことで,「~とは何か」という対話の過程が分かり,また登場人物もそれなりにいてマンネリ化せず,長さもほどほどなので,読みやすい対話篇だと思いました。
次回は『リュシス』の予定。

プラトン『カルミデス』メモ

プラトン『カルミデス』((プラトン全集 (岩波) 第7巻) を読んだときのメモ。

この対話篇は,ソクラテスが出征から戻ってきたところという設定です。その戦争の話を周囲に聞かせたりしているところで,カルミデスという,ソクラテス曰く非常に美しい若者が現れます (勿論男です…この辺りの当時の事情は『饗宴』メモなど参照)。そのカルミデスにソクラテスは,魂の美しさはどうかと確かめたくて対話をしかけます。そこで居合わせたクリティアスが,「カルミデスは克己節制 (思慮の健全さ) において傑出している」と言うので,対話の主題は,カルミデスは克己節制 (思慮の健全さ) を持っているか,そして結局,克己節制 (思慮の健全さ) とは何か,ということになり対話が進められます。といっても,実際にはカルミデスに克己節制 (思慮の健全さ) とは何かを予め言い含めていたクリティアスが対話の一番メインの相手になります。
対話では,「克己節制 (思慮の健全さ) とは「知の知」である」といったなるほどという主張がクリティアスによってなされ,ソクラテスもそれ自体は否定しないのですが,しかし「知の知」というのは他の具体的な知 (例えば健康に関する知) ではないため,結局それがあっても有益ではない,というのが結論のようなものになります。ただ,克己節制 (思慮の健全さ) が有益でないはずはない,ということはソクラテスも言い,自分にはまだそれを明らかにする力がないということになります。
副題は「克己節制 (思慮の健全さ) について」というそのままのもの。

以下は読書時にメモした内容です。

「というのも,かれ(メモ註:従軍中に会ったトラキア人の医術師)の説明では,からだや一個の人間全体の善悪はすべて,たましいに始まり,そこから流れ出してくるのだ。ちょうど,頭から眼に流れこむようにね。したがって,頭にしても,からだの他の部分にしても,うまく働かしたければ,まずなんといっても,とりわけ,そのたましいの世話をしなければいけないそうだ。」(156E のソクラテス)

『論語』に「巧言令色,すくなし仁」というのがありますが,容姿端麗のカルミデスについて,見た目だけじゃなくて魂もちゃんとしたものであるのか?という本格的な対話に入る前の牽制のような言葉だと思います。

「さあ,だから,自分で答えてくれたまえ。はたしてきみ (メモ註:カルミデス) は,このクリティアスの言うことを認めて,すでにもう十分に克己節制 (思慮の健全さ) を分けもっていると主張するかね,それとも,まだ欠けるところがあると言うのかね?」(158C のソクラテス)
「それなら,それがきみ (メモ註:カルミデス) のうちに内在しているのかいないのか,その見当をつけるために,説明してくれたまえ」とぼくはいった。「きみの思わくでは,克己節制 (思慮の健全さ) とは何であると主張するのか,を」 (159A のソクラテス)

クリティアスに克己節制 (思慮の健全さ) を備え持つと言われたカルミデスは,決して驕っているわけではないのですが自分がいかに克己節制 (思慮の健全さ) を持つかということを,また結局その克己節制 (思慮の健全さ) とは何であると考えるかということをソクラテスに問われます。
このあとで,カルミデスは克己節制 (思慮の健全さ) を,(1) 秩序を守りかつもの静かに行なうことである,(2) 人間に恥を知らしめ,羞ずかしがらせるものである,(3) 自分のことだけをすることである,と答えるのですが,いずれもソクラテスに反駁され否定されます。で (3) を教えたのはクリティアスらしいので,ソクラテスはその後,クリティアスを相手に対話を始めます。

「わたしの主張はこうですよ。善いものではなく悪いものを作る人間は,克己節制 (思慮の健全さ) をもたない。しかし,悪いものではなく善いものを作る人間のほうは,克己節制 (思慮の健全さ) をもっている,というのですよ。つまり,善いことをすることが克己節制 (思慮の健全さ) である,とこう明確に規定してあげます」(163E のクリティアス)

「なぜなら,わたしの主張は,克己節制 (思慮の健全さ) とは,まさしく自己自身を知ることにほかならない,といったところですし,そのような意味の銘文をデルポイの神殿に奉納した人にわたしは組するからです。
…すなわち,アポロンはいつだれが参詣に来ても,じつは『思慮が健全であれ』と呼びかけているのです。
ところが,アポロンは予言をつかさどる神ですので,かなり謎めかして呼びかけています。つまり,『なんじみずからを知れ』と『思慮が健全であれ』とは,同じ意味の言葉なのです。」(164D のクリティアス)

この「なんじみずからを知れ」というのは有名な言葉で,『アルキビアデスI』などでも出てきます。ソクラテスを象徴する言葉とも言えると思いますが,ここでクリティアスはそれこそが克己節制 (思慮の健全さ) であると言っているようです。

「それごらん,これだから!ソクラテス」とかれは言った。「結局,あなたは,克己節制 (思慮の健全さ) という知がほかのすべての知とどんな点で異なるのか,という問題を探究するはめになりましたね。もっとも,あなたはそれとほかの知との類似点をさがしておいでですが,しかし,事実,そんな類似点はないのです。ほかの知はどれも,それ自身とはちがったものについての知で,それ自身についての知ではありませんが,この克己節制 (思慮の健全さ) だけは,ほかのいろいろな知についての知であるばかりか,それみずからについての知 [知の知] でもあるのです。」(166B のクリティアス)

克己節制 (思慮の健全さ) とは,知の知である,とクリティアスは言います。「知の微分」という感じかなと私は思いました。ちょっとむきになっていますが,言っていることはなるほどと思うところがあります。

「なんという考え方をするのだ」とぼくはやり返した。「よしんば,きみをやっつけることになっても,それに他意はないわけで,ひとえに自分が何を言おうとしているのかを吟味するためなのだ。つまりぼくは,知らないのに何か知っているように思っていながら,それに気づかないことがありはしないかと恐れるのでね。」
「それなら,自信を出して」とぼくはつづけた。「めぐまれた人よ,きみに思われるとおりに,ぼくの質問に答えてもらいたい。やっつけられるのがクリティアスだろうと,ソクラテスだろうと,そんなことは気にしないで。むしろ,ひたすら議論そのものに注意をはらいつつ,その議論がどうすれば難関をきりぬけられるかを検討してくれたまえ。」(166D のソクラテス)

ソクラテスもクリティアスに手を焼いている感じですが,さすがに冷静です。議論の勝ち負けではなく,ただ答を追求するソクラテスの姿がよく表れている一節です。こういう互いにちょっと激したようなやりとりがあるのも,ただ論文のように自説が淡々と述べられているのとは違う,プラトン対話篇の面白いところです。

「それなら,克己節制 (健全な思慮) の人だけが自己自身を知っていることになり,自分はまさしく何を知り何を知らないかをしらべあげることができることにもなる。さらに,かれだけが,ほかの人びとについても同じようにして考察できることになるわけで,相手の他人(ひと)が何を知り,知っている以上は何を知っていると思っているのか,また反対に,相手の他人が,ほんとうは知らないのに,何を知っているように思っているのかも,考察できるということになるだろう。この克己節制 (健全な思慮) の人以外にはだれも,そういうまねはできないだろうね。そしてまた,まさしくこれこそが,克己節制 (思慮の健全さ) をもつこと,克己節制 (思慮の健全さ),自己自身を知ることにほかならないのだ。つまり,何を知り何を知らないかを知ることこそが。これらの点がきみの言いぶんかね?」(167A のソクラテス)

「何を知っていて,何を知らないか」を知ること,またそれが自分だけでなく他人についても分かることが,克己節制 (思慮の健全さ) であると。

「つまり,それ自身に関係のある独自の機能をもともと自分でもっているものはひとつも存在せず,その機能はもっぱら自分以外のものに関係するだけなのか,それとも,それ自身に関係させるものが存在するばあいもあり,存在しないばあいもあるのか?またもし,今かりに,どういうものであれ,自分が自分に対してそういう関係をもつものがいろいろ存在するとすれば,われわれがまさしく克己節制 (思慮の健全さ) だと主張する知は,はたして,そのなかに数えられるのかどうか?―こういった区別だがね。このぼくには,そういう区別を十分にやってのけるだけの自信はないよ。したがって,これ,つまり,知 (について) の知というものの存在が可能になるかどうかについては,確信ある主張はできないし,また,かりに存在するとしても,その知の知が克己節制 (思慮の健全さ) なのだということを承認することもしないよ―それが,なにかそういう知の知であれば,われわれの利益 (ため) になるのかどうかの検査をぼくがすますまではね。」(169A のソクラテス)

この部分の最初に言われていることは,本文に例があるのですが,例えば「視覚」といった場合には,視覚によって何かを見るわけですが視覚自身を視覚によって見ることはできない…というようなことで,それ自身とその機能が同一でありうるものがあるかどうか,ということが言われています。GNU = Gnu is Not Unix の略のように,自己再帰的かどうかということにちょっと似ています。そして,クリティアスが言う「知の知」というのがそもそも存在可能なのかということをも提起しています。

「したがって,克己節制 (思慮の健全さ) をもつことや,克己節制 (思慮の健全さ) そのものは,何を知り何を知らないかを知ることではなくて,ただ単に,知っている,知っていない,と知るだけのものにすぎないことになるようだね」
「どうも,そういうことになるようです」
「すると,他人 (ひと) がなにか知っていると主張しても,その人が知っていると主張している事柄を,はたして知っているのか,知っていないのかの吟味も,この克己節制 (健全な思慮) のもちぬしにはできないということになる。できるのは,相手の人がなにかある知をもっている,と知るだけのことにすぎないようだ。それに反して,それが何 (について) の知なのかということのほうが,克己節制 (思慮の健全さ) が相手の人に知らせてやることにはならないだろう」(170D)

対話は進んで,克己節制 (思慮の健全さ) は,知っているかどうかは分かるが「何を」知っているのかは分からない,と言われます。なんか段々役立たずな感じになってきます。私のテキトーな「知の微分」説でも,知という一変数にしか触れられないのでその通りかもしれません。で,実際には克己節制 (思慮の健全さ) のみしか持っていなければそうかもしれませんが,克己節制 (思慮の健全さ) と,他に何かしら持っている知を組み合わせれば何を知っているか分かりそうなのですが…。ただそうだとすると,「知がなければ克己節制 (思慮の健全さ) は不要」ともいえます。

「いや,いや,ぼくの言っているのは,いちばんかれの幸福に貢献する知のことだよ」とぼくは言いかえした。「それは,何についての知であるという点で,貢献度がいちばんなのだね?」
「善悪についての知であるという点です」とかれは答えた。
「殺生なやつだな,きみは!」とぼくは言った。「さっきから,ぼくを引っぱりまわすだけ引っぱりまわしておいてだよ,いいようにやる (うまく行く) ことやいいダイモーンがついていること (幸福) を保証してくれるのは,知にしたがって生きるということではなく,さらには,ほかのすべての知にしたがって生きるということでもなくて,ただ一つの知,つまり,善悪についての知にしたがって生きるということだったのに,それをきみは秘密にしてかくしているとは!」(174B)

ここで「善悪の知」というのが出てきます。なんか「知の知」よりも,他の種類の知よりも上のものがこの「善悪の知」ということでしょうか。

「してみると,克己節制 (思慮の健全さ) は,利益の専門家ではないことになるね,友よ。だって,それどころか,われわれはたったいま,その仕事[利益]をほかの技術[善悪の知]にわり当てたばかりだもの。そうだろう?」(175A のソクラテス)

ここで克己節制 (思慮の健全さ) ≠ 善悪の知,となります。上で,克己節制 (思慮の健全さ) 「だけ」では「何を」知っているか分からない,と書きましたが,まさに「善悪の知 + 克己節制 (思慮の健全さ)」こそが,自分自身を知り相手が何を知っているのかも知ることになるのかもしれません。解説にも似たことが書いてありますが。

要するに,「ソープロシーネ (メモ註:克己節制 (思慮の健全さ) の原語)」の基本義は,健全なる思慮,正気ということであり,思慮を失うとか,我を忘れるとかいうことの反対だと解されねばならない。これは死すべき人間が自己の分限をさとることに通じ,反面においては,神の尊厳の認識として,なにか宗教的な意味をもつものなのである。(解説)

本篇を読んでいると「克己節制 (思慮の健全さ)」とは「知の知」,で結局何か役に立たないもの,というようにも思ってしまいますが,確かに素直に考えればこの解説のような意味のほうが近い気もします。

『カルミデス』がプラトンの諸著作のなかで占める思想的位置について考える場合,明瞭なことは,右にのべたように,「善の知」の「知」が徳―本篇の場合では「克己節制 (思慮の健全さ)」の徳―の根底に要請されているという事実である。(解説)

メモは以上。「克己節制 (思慮の健全さ)」というテーマは興味深く,結論は (いつも通り?) 得られませんでしたが,対話のやり取り等も含めて面白い対話篇だったと思います。
次回は『ラケス』の予定。

プラトン『テアゲス』メモ

プラトン『テアゲス』((プラトン全集 (岩波) 第7巻) を読んだときのメモ。

本対話篇は,デモドコスがソクラテスに,息子 (テアゲス) の教育について相談するという設定です。テアゲスはソフィストの元に弟子入りしたいと父に言うが,本当にそれでいいだろうかとソクラテスに相談し,ソクラテスは本人に直接話を聞きます。
テアゲスは,知者になりたいと言いますが,それは一体どんな人間なのか,といったことが追及されます。で,ソクラテスはテアゲスに,政治家に弟子入りしたらよかろうと言いますが,テアゲスは「政治家の息子が優れた政治家になれるとは限らないくらいだから,政治家に弟子入りしても高が知れている」といった鋭い返答をします(この辺は『プロタゴラス』とも通じますね)。
そして結局,ではソクラテスに弟子入りすればいいのではとデモドコスとテアゲスが言います。それに対しソクラテスは,「ダイモーンの合図」に従うとか,自分は弟子に何か具体的に教えたりすることはないとか言いますが,ここはソクラテス流の弟子育成術の紹介になっています。
なお副題は,「知恵について」。

以下は読書時のメモです。

デモドコス「わけても現在この子にとりついている願望が,わたしには頭痛の種でねえ。それはけっして卑しい性質のものではないのだが,危険なものだからだ。なにしろこの子は,ソクラテス,彼の言うところによれば,<知者>になりたいというのだからねえ。」(121C)

冒頭部です。ここから,まずデモドコスがソクラテスに相談します。しかし結局,本人 (テアゲス) に聞いてみようということになります。

ソクラテス「それでは君は,それ自体は知っているが,それの名前は知らないのかね,それとも名前も知っているのかね?」
テアゲス「むろん名前も知っています。」
ソクラテス「では何かね?言いたまえ。」
テアゲス「<知恵>としか言いようがないでしょう,ソクラテス。それ以外の何か別の名でそれを呼ぶことができるでしょうか?」(123D)

「知恵とは何なのか」というソクラテスとの問答を通じて,結局「知恵としか言いようがない」という答になりました。この後,どんなものが知恵なのか,ということが,ソクラテスがいくつか例を示しながら,「あらゆる人間を支配するのに必要な技術」というような答に導かれますが…。

ソクラテス「そうすると,その国のうちにいるすべての人間を支配しようとのぞむ者はみな,この人たちが行なったのと同じ支配,つまり独裁支配をのぞみ,独裁君主たらんことをのぞんでいるのでないかね?」
テアゲス「そのようです。」
ソクラテス「それでは君がのぞむと言っているのもこういう支配なのではないかね?」
テアゲス「私が答えてきたことからすると,どうやらそうらしいです。」(124E)

ということで,テアゲスは,知者になるということは,独裁君主になること,というようなことに同意させられます。
当然ですがソクラテスが知恵をそういうものだと考えているはずはありません。しかしそういう風に誘導したのはソクラテスです。結局のところ,知者になるためにソフィストに弟子入りしようとしているということがそもそもソクラテスにとって笑止千万であり,反例を示すことによってそれを否定するというやり方なのかなと思いました。

テアゲス「たしかに考えてみると,私は独裁君主になることをこいねがっているのかもしれません,できることなら万人の,それがだめならできるだけ多くの人たちの上に君臨する独裁君主に。そしてこれは思うにあなたにしたところで,また他の人々だって誰でもみな,ねがうことでしょう,―おそらくはさらに神になりたいとさえね。しかし,私がのぞんでいると言っていたのは,そのことではありませんでした。」
ソクラテス「それならいったいぜんたい君がのぞんでいるのは何なのかね?国民を支配したいと君は言っているのではないのかね?」
テアゲス「でもけっして力ずくでではありませんし,また独裁君主たちのようなやり方でもありません。そうではなくて,相手の合意を得て支配することです,―この国のなかの有数の人々がそうしたようなやり方で。」(125E)

テアゲスについて,なかなか素直な若者なのだなという印象を持つ部分です。人々はだれでもみな,独裁君主や,神にさえなりたいと思っているだろうというのはある部分では真実を言い当てているのかもしれません。ただ,改めて考えると,それが知者なのか,と思わずにはいられません。少なくともソクラテスは支配者になりたいとは思わなかったはずです。この後,結局ここで言われていた「知者とは」という追求はうやむやのうちに終わってしまいますが,知者を追及するに値しない方向に話が進んでいたからだという感じも個人的にはします。

デモドコス「もしこの子があなたにつくのを喜び,またあなたもこの子を弟子にする気になってくれるとしたら,わたしとしてはそれ以上の仕合せはあるまいと思うだろうからね。」(127B)

ということで,今度はソクラテスの弟子になればいいのだという方向に進みます。ただ,ソクラテスは素直にそれを受け容れようとはしません。

ソクラテス「ぼくには,子供の時からはじまって,神の定めによっていつもぼくにつき従っている,何かダイモーンからの合図といったものが,あるのだよ。それはひとつの声であって,それが現われる時はいつも,ぼくが何かをしようとしていると,それをしないようにとぼくに合図をするのであって,何かをなせと勧めることはどんな場合にもないのだ。また友人の誰かがぼくに助言を求めていて,この声が現われるような場合もこれと同じことで,それはさし止めるのであって,何かを行なうことを許さないのだ。」(128D)

この部分の「ダイモーンの合図」というのは,『ソクラテスの弁明』などにも出てくる結構有名な話です。ふと,ダイモーンの声が「~するな」とソクラテスに語りかけ,ソクラテスはそれに従うと。また他人に対してもその合図があることがあり,ソクラテスがそれを忠言しても,相手がそれを取り合わなかった場合にはいつも悪いことが起きると。というわけで,その合図があるかどうかで,テアゲスが弟子としてふさわしいかどうかも何ともいえないと言います。ただ,最後には,「じゃあひとまず合図が出るかどうか実際に一緒にいさせて確認させてくれ」ということになるのですが。

「ソクラテス,それはまことに信じがたいことですが,しかしほんとうのことです。じっさい私は,あなた自身もご承知のとおり,ついぞこれまで何ひとつとしてあなたから教えていただいたということはありませんでした。にもかかわらずあなたといっしょにいるといつも,私は進歩を遂げたのです,―同じ部屋でなくても,ただ同じ屋根の下にいるというだけです。」(130D,ソクラテスの回想のアリステイデス)

これは過去にソクラテスに付いていたアリステイデスについての回想の一節ですが,ソクラテスと一緒にいた頃は特に何も教えてもらわないのに進歩したといいます。しかし,離れてしまうと徐々にその進歩が失われてしまったといいます。ちょっと聖人化しすぎな感じもありますが実際そういう人だったということなのでしょう。確かに一緒にいるだけで心が澄んでいくというような人はいます。

すなわち,「ソクラテスの教育」は,教師が弟子に学問知識を教えるというような,一方から他方への知識の伝達という形でなされるのではない。神的な意志,「ダイモーンの合図」によって,教師と弟子の関係は決定され,神意によってそのような関係が許されるならば,その親密な交際,特に直接的な接触という仕方で,師の影響力を受け,弟子は進歩向上する,しかしこの点もすべて神的な意志の決定にかかっている,というようなものである。(解説)

解説にある「ソクラテスの教育」の記述です。結局のところは「ダイモーンの合図」に従うという話です。ただ,それに水を差すようですが,そういう合図というものが本当に実際に聞こえてきたとは考えにくいわけで,ではそれは一体何なのだ,という疑問が現代の科学の時代に生きる私としては起こります (ちなみにプラトンの著書に出てくるソクラテスの言葉の大半はプラトンの作り話ですが,『ソクラテスの弁明』等は事実に忠実だとされており,よって「ダイモーンの合図」というのもソクラテスが言ったのだと思われています…クセノポンの著書にもあるそうですし)。それは,霊感とか直感とでもいうべきものなんでしょうか。

ということで,本篇はテアゲスの言う「知者」とは何かという追求から始まりますが,「ダイモーンの合図」「ソクラテスの教育」というのが隠れたテーマだと思います。
次回は『カルミデス』の予定。

プラトン『プロタゴラス』メモ(2)

プラトン『プロタゴラス』((プラトン全集 (岩波) 第8巻) を読んだときのメモ。
第2段です。第1弾はこちら

なお,実は私がプラトンの著作を読んだのは,実はこの『プロタゴラス』が最初でした。その時は光文社古典新訳文庫で,何となく読みやすそうだったので買ってみたのですが実際,『プロタゴラス』自体が読みやすかったのだと思います…岩波プラトン全集の中でも今のところかなり読みやすい部類だと思います。ただ,それから今で1年半くらい経って,殆ど中身を忘れていました。
やっぱりこのブログのようなメモを残しておかないと後で振り返れないな,というのが1つ。
それと,プラトンの本は,抽象的というか,読んだところで何かが分かった気がするものではなく,読みながら対話者と一緒に考えることに意味があるのかなと思っています,というのがもう1つ。

以下,読書時のメモです。

「あなたは,不正を行ないながら分別 (節制) のあるような人々がいると思われますか」(333D のソクラテス)
「それは」とぼくは言った,「不正行為がうまくいく場合のことでしょうか,まずいことになる場合でしょうか」(ソクラテス)
「うまくいく場合だ」(プロタゴラス) (333D)

ここは,「徳は教育可能か」という話題から転換して,徳というものを構成する部分,ここでは知恵,勇気,正義,節度,敬虔,のそれぞれの関係についてソクラテスがプロタゴラスに肉薄する場面の一部です。「もし徳がある人が不正を行なうとして,それはうまくいくことが善いことなのか,まずいことになるのが善いことなのか」というのはパラドックス的ですが,プラトンの著書にたまに見られる論法で,『ゴルギアス』では「不正を行ないながら罰を受けることより,不正を行ないながら罰を受けないことが最も不幸である」と書かれていたことを思い出しました。

ここでふと「ソフトウェアの品質」ということを思い浮かべました。ソフトウェアの品質というのも割と漠然とした言葉ですが,一応 ISO 9126 という標準では,「機能性」「信頼性」「使用性」「効率性」「保守性」「移植性」というものが定義されています。これが前述の,徳とそれを構成する部分と少し似ています。
とすると,同じように「品質の高いと謳われるソフトウェアがあるとして,実態は信頼性は高いが使用性は悪い,というものがあるとする。このソフトウェアが,使用性の悪さが正しく認識されず (または気づかれず) に従来どおりに品質が高いという評価を受けることと,使用性の悪さを正しく認識して (あるいはソフトウェアの責任者自らが指摘して) 品質が従来ほど高くないという評価を受けること,どちらが善いことなのか?」という問いが可能かなと思います。これはあくまで一例で,信頼性と使用性を当てはめたのは適当です。しかもソフトウェアの品質に完璧なものなどないので場合によってどれを重視するかは匙加減です。しかし「品質」というある意味曖昧で,その分都合よく使われる言葉に対しては,実態を伴わずに言葉が独り歩きするよりは,悪い部分は悪いと正しく評価されるほうが,そのソフトウェアにとって「善い」ことなのではないか…ソクラテスとプロタゴラスの対話から,そんなことを考えました。

「とにかく私の聞くところによりますと」とぼくは言った,「あなたという方は,同じ事柄を扱いながら,その気になれば,けっして言葉の尽きるときを知らないほど長い弁論を展開することもできるし,また他方では,誰もあなたより短く話せないくらいに短い話をすることもできる,それもあなた自身がそうするだけでなく,他人にその能力を授けることもできる,という話です。それでしたら,もしこの私を相手に話し合うおつもりなら,あとのほうのやり方,短い話し方を私に対して適用していただきたいのです」(334E のソクラテス)

この辺りで,対話のやり方でソクラテスとプロタゴラスでひと悶着あり (基本的にソクラテスは禅問答のような端的な対話を好み,演説調の対話は好まない),ソクラテスが席を立とうとする場面もあります。なんにせよプロタゴラスの特徴をよく表現した部分だと思います。

「満場の諸君,私は諸君のすべてが同族の間柄であり,近親であり,同市民であると考える―ただし法においてではなく,自然において。なぜならば,相似たる者は自然において互いに同族の間柄にあるのであるが,これに対して法は,人の世を支配する専制君主であって,多くの反自然的なことを強制するからである」(337C のソクラテス)

これはプロタゴラスへではなく,ソクラテスとプロタゴラスの対話を聞いている観衆に向けて言われた言葉です (演説調ですが,対話ではないのでよいのでしょう)。しかしこの「自然において同属だが,法においてはそうでない。法は人の世を支配する専制君主である」というのは示唆のある言葉です。プラトンは『国家』で哲学者による政治を説いたり,『ポリティコス(政治家)』でも種々の政体が法律遵守的であるならば民主制は最も劣悪であると書くなど,必ずしも法律による統治がよいものとは書いていません。

「かくして,まさにこのこと (メモ註:スパルタの人は,はじめは言論において凡庸な資質しか示さないが,論議がすすむと,投槍の達人のように,突如はっとするような,短く圧縮された言葉を投ずる) に気づいて,スパルタ主義とは本来,体育の愛好よりは,むしろはるかに知恵の愛好にあるのだという事実を看破した人々は,いまの世にもむかしの世にも,けっしていないわけではありません。そういう人々は,如上のごとき寸言を発することができるということは,完全なる教育を身につけた人間にしてはじめて可能なのだということを知っているからであります」 (342E のソクラテス)

この辺りは,ソクラテスがシモニデスの「すぐれた人になることは難しい」と,「すぐれた人であることは難しい」という言葉の違いを延々と説明する部分で,あまり面白くないのですが,よく言われるスパルタ主義 (スパルタ教育) というものの,一般的な認識に対する反論が行なわれていてちょっと目に付きました。

「つまり,善き者には悪い者になる余地がのこされているわけなのであって,…これに反して,悪しき者には悪化の余地がなく,つねに悪しき者であることが必然なのです。」(344D のソクラテス)
「では,たとえば悪しき医者となる可能性のあるのは,いかなる人でしょうか。いうまでもなくその人は,まず第一に医者であること,つぎにすぐれた医者であること,これだけの条件をそなえていなければなりません。なぜなら,そのような人にしてはじめて,また悪しき医者になることもありうるでしょうから。」(345A のソクラテス)
「しかし悪しき人が悪しき人になるということは,けっしてありえないでしょう。なぜなら,つねに悪しき人であるのですから,いやしくも悪しき者となるためには,その人はまずその前に,すぐれた者とならなければならないのです。」(346B のソクラテス)

「悪しき人になるのは善い人のみ」ということが言われます。つまり悪い人=善くない人,ということになります。プラトンの対話篇ではこのある意味デジタル的な対話の展開が結構多いです。でも現実には,悪くも善くもないと思われる人が多いというのが実感ではあり,ピンと来ません。

「これに反してあなたは,あなた自身がすぐれた人物であるとともに,ほかの人々をそうすることもできるのです。しかも,あなたの自信のすばらしさたるやどうでしょう。ほかの人たちはこの技術をかくしているというのに,あなただけは,あまねくギリシアの人々に公公然と自分を宣伝して,ソフィストとして名乗りをあげ,自分が教育をうけもち徳を教える教師であることを標榜したうえで,そのための報酬を受けとることを要求した最初に人なのですからね。」(348E のソクラテス)

これはソクラテスがプロタゴラスを揶揄した言葉だと思いますが,ソフィストをソクラテス (というかプラトン) がどう考えているかというのがよく表れている言葉だと思います。それは,報酬を受け取ることとともに,メモ(1) で考えたように,「そうであるもの」ではなく「そうであると思われるもの」を教えるということを非難していると考えられます。

「―知恵と節制 (分別) と勇気と正義と敬虔と,これらのものは,名前は五つあるけれども,さし示すものは一つなのであるか。それとも,これらひとつひとつの名前のもとには,それぞれ独自のあり方をもった何かが実際に対応していて,それぞれ自己自身の機能をもち,そのひとつは他と同じ性格のものではないのであるか―」(349B のソクラテス)

ここまで例によって話題が飛んで何を話していたのか分からなくなっていたので,ソクラテス自身から問題の再提示です。こういう話題の整理があると読み手としては助かります…割と他の対話篇でもあります。

「してみると,楽しく生きることは善いこと (善),不快な生を送ることは悪いこと (悪) なのですよ」
「そう。ただし」と彼は言った,「立派な事柄を楽しみながら生きるならば,だがね」
「何ですって,プロタゴラス?まさかあなたまでが,多くの人々と同じように,ある種の楽しみは悪であり,ある種の苦しみは善であると呼ぶのではないでしょうね。私の言うのは,楽しいものは,それが楽しいものであるということだけに観点を置くかぎりは,善なのではないかという意味なのであって,そこから何かほかのことが結果するのかどうかは,問題にしないのですよ?…」
「さあね,ソクラテス」と彼は言った,「はたして君がきいているような単純な仕方で,楽しいものは何もかも善いもの,苦しいものは何もかも悪いものだと答えてよいものかどうか―。いや私としては,いま私のあたえるべき答のことだけでなく,私の残りの全生涯のことを考慮してみても,こう答えておくほうが無難なように思える。すなわち,楽しいもののなかには善でないものがあり,他方,苦しいもののなかにも,悪でないものもあれば,悪であるものもあり,第三番目に,善悪どちらでもないようなものもある,とね」(351C)
「さあそれでは,この私といっしょに世人を説得して,よく教えてやるようにつとめてください―彼らの経験するこの状態,すなわち彼らの言うところによると,快楽に負け,そのために何が最善かを知りながら行なわないというこの状態は,そもそも何を意味するかを。」(352E)

これがメモ(1)に取り上げた「徳は教育可能か」に引き続き,本対話篇でこれはと思ったテーマです。つまりここで,ソクラテスは「快楽は善,苦痛は悪」と言っています。正直あまりソクラテスらしくないと感じます。

「『してみると,君たちが悪と考えているのは結局,ほかならぬ苦痛のことであり,善と考えているのは快楽のことなのだ。なぜなら,楽しむことそれ自体までも君たちが悪と呼ぶことがあるのは,いかなる場合かというと,それは,その行為自身が直接もっている快楽よりもさらに大きな快楽が,それによってうばわれるような場合,あるいは,それ自身の内にある快楽よりもさらに大きな苦痛が,それによってもたらされるような場合なのだから。事実,もし君たちがこれ以外の根拠にもとづき,窮極の理由としてこれ以外の何かに目を向けながら,楽しむことそれ自体を悪と呼んでいるのであれば,君たちはそれをわれわれにも言えるはずだが,しかしそうすることはできないだろう』」(354C,仮の聞き手に言うソクラテス)

ソクラテスは,「快楽が仮に悪であると呼ばれるならば,それは別の形でより大きな快楽を奪われる (苦痛を味わう) からである」と言っています。言い換えると,そのものは快楽であっても,時間なり空間なりで積分した結果が苦痛になるから悪である,と。積分した結果も同様に快楽 (の度合い) でしか計れない以上―計れないだろうとソクラテスがここで言っているわけですが―,結局は「快楽→善」かどうかに帰着することになります。

「『よろしい,諸君。ところで実際には,われわれにとって生活を安全に保つ途は,快楽と苦痛を正しく選ぶこと,その多少,大小,遠近を誤たずに評価して選ぶことにあることが明らかになったのであるから,そこに要求されるものは,まず第一に,計量の技術であることは明らかではないだろうか。それは,相互のあいだの超過と不足と等しさとをしらべるものなのだから』」(357A)
「『したがって,快楽に負けるとは何を意味するかというと,それは結局最大の無知にほかならないことになるのである。ここにいるプロタゴラスやプロディコスやヒッピアスは,自分こそはこの無知を癒す医者であると主張しているわけだ』」(357E)

ということで,結局は「計量の技術の欠如」「無知」が,快楽に負ける原因と言っています。

「そうすると」とぼくは言った,「悪―ないしは悪と思う事柄―のほうへ自分からすすんでおもむくような者は,誰もいないのではありませんか。また思うにそのようなことは―善をさしおいて悪と信じるもののほうへ行こうとするようなことは―もともと人間の本性の中にはないのではありませんか。そして,二つの悪のうちどちらかを選ばなければならないときに,小さい悪を選ぶことができるのにもかかわらず,より大きいほうの悪をとるような者は,誰もいないのではありませんか」(358C のソクラテス)

ここに至っては当たり前のことを言っているだけです。では何が違和感なのか?
しかし自分もソクラテスのここの論調を本当には分からないのかもしれません。というのも,こう言っているソクラテス自身がどういう生活を送っているのかというと,少なくともプロタゴラス等ソフィストと対照する限りにおいては,清貧な生活を送っているわけです。なので,「快楽は善」というのを突き詰めた結果,ソクラテスのような哲学者?になるのだとしたら,その境地は遠くにあるのだなと思います。尤も他の対話篇ではまた別のことを言っているので (例えば『ピレボス』では,「思慮の生活を選んだ者は,快苦を感じない生活に何のさわりもなく,それが神に近い生活である」などと書くなど,快楽自体を善であると主張するピレボスと対立していた),なんともいえませんが。

ソクラテスは最後に全体をふり返って,その皮肉な結末に注意を促している (361A~C)。すなわち,ソクラテスはいま正義も節制も勇気も,すべての徳は<知>に帰着することを証明しようとしたが,しかし徳が<知>であるならば徳は教えられうるはずであり,この点について彼が最初表明していた否定的な見解と矛盾する。他方プロタゴラスも,議論の当初には徳が教えられうることを力説していたのに,いまは徳が<知>であることへの同意を極力避けようとすることによって,結果的には最初と反対の主張をするに至っている,と。(解説)

と,解説でまとめられているように,本対話篇は結局,双方の主張がそのまま通るというものではなく,ある意味でお互いが歩み寄る形で真相があいまいになります。まあ私のような読み手にとっては,結論はどうでもよく,対話の過程が非常に面白い対話篇でした。

次は7巻に戻って『テアゲス』の予定。

プラトン『プロタゴラス』メモ(1)

プラトン『プロタゴラス』((プラトン全集 (岩波) 第8巻) を読んだときのメモ。

本対話篇は,直接の舞台設定としては,友人がソクラテスを訪ねてきたときに,ソクラテスがプロタゴラスと対話した前日を回想するというものですが,実質的には,(プロタゴラスを訪れる過程も含めて) その前日のプロタゴラスとの対話がメインです…まあ題名からしても当然ですが。
その前日の深夜に,「プロタゴラスが (アテナイに) 来た」とヒッポクラテスがわざわざソクラテスを訪ねてくるくらいなので,プロタゴラスがいかに有名だったかが分かります。

本対話篇は,さすがプロタゴラスと思わせるような論説もあります。一方で,対話の劇場型の展開も面白いところで,途中,アルキビアデス,ヒッピアス,プロディコス,カリアスなども出てきます (対話の舞台はカリアス邸です)。

ちなみに副題は「ソフィストたち」で,ソフィストの中のソフィストであるプロタゴラスに,上で述べたようなソフィストも出てくるのでそのままの副題です。プラトンのソフィストについての対話篇は,名前どおり『ソピステス』や,やはり著名なソフィストである『ゴルギアス』などもあります。また,プロタゴラスについては,私がメモを残していない時期でしたが『テアイテトス』にも詳しく出てきていました…確かソクラテスがプロタゴラスに憑依されて話をするというような変わった現れ方でした。

なお,本対話篇のメモは長いため,2つに分ける予定です。この (1) は前半の,「徳は教えられるか」というテーマ,(2) は後半の,「楽しいものは何でも善いものなのか」というテーマが中心になると思います。

ソクラテスの友人「どこからやってきた?ソクラテス。言わずとしれたこと,アルキビアデスの青春を追いまわしてきたところなのだろうね。じっさい,ついこのあいだもぼくはこの目でみたが,あいかわらず美しい男だと思ったよ。だが,もう男だね,ソクラテス―われわれのあいだだけの話だが。もうすっかり鬚も生えはじめているし。」
ソクラテス「それがいったい,どうしたというのだ。君は,「鬚生えそめし若さこそ,げに優美さのきわみなれ」と言ったホメロスの賛美者ではなかったのか?アルキビアデスは,いままさにそういう若盛りにあるのだ。」(309A)

この怪しい会話で本篇が始まり,時系列的には現在になります。冒頭にも書きましたが,ソクラテスがプロタゴラスを訪ねたのは前日のことで,この後,この友人に当時の様子を話すという設定です。

「それならひとつ,言ってみてくれたまえ。君の考えではソフィストとは何ものなのかね」(ソクラテス)
「私の承知しているところでは,ソフィストとは,まさに読んで字のごとく,賢い事柄を知っている人にほかなりません」(ヒッポクラテス)
「…そこでもし誰かが,『では,ソフィストは,何に関して賢い事柄を知っているのか』とたずねたとしたら,われわれはその人に何と答えたものだろうか。ソフィストは,何をつくることを知っている者なのだろうか」
「われわれの答としては,ソクラテス,ソフィストとは,ひとを言論に秀でた者にする知識をもっている者である,というよりほかはないでしょう」
「おそらくそれで,間違ってはいないだろうが,しかし充分な答とはいえないようだ。なぜならわれわれにとって,その答はさらにあらたな問を要求するからだ―ソフィストがひとを言論に秀でた者にするというのは,いったい何についての言論なのか,とね。…」
「むろんそれは,自分がひとに知識をさずけるまさにその事柄についてでしょう」
「ちがいないだろうね。では,その事柄とはいったい何なのだろうか。ソフィストが自分でも知識をもち,弟子にも知識をさずけるのは,何についてなのだろうか」(312C)

ヒッポクラテスが,プロタゴラスに弟子入りしたいと言うので,ソクラテスは,よく考えるように言います。何度か尋ねて「ひとに知識をさずけるまさにその事柄 (についての言論)」を教えられるのがソフィストである,ということになりますが,捻り出した感はありますがなるほどと思います。

「そもそもソフィストとは,ヒッポクラテス,魂の糧食となるものを,商品として卸売りしたり,小売りしたりする者なのではないだろうか」(313C のソクラテス)
「ソフィストが,ちょうど身体の糧食をあきなう卸商人や小売商人と同じように,自分の売りものをほめたてて,われわれをだますことのないように,気をつけたほうがいいよ。というのは,彼ら食物の商人たちも,自分たちが持ってくる商品について,そのどれが身体によいか悪いか自分自身でも知らないのに,売るにあたって何もかもほめたてるし,彼らから買うほうは買うほうでまた,体育家や医者でもないかぎり,そのよしあしがわからない。それと同じように,いろいろの知識を国から国へと持ち歩いて売りものにしながら,そのときそのときに求めに応じて小売りする人々,そういう人々もまた,売りものとなれば何もかもほめたてるけれども,しかし中にはおそらく,君,自分が売ろうとするものについて,そのどれが魂に有益であり,有害であるかを,知りもしないような連中がいるかもしれない。」(313C のソクラテス)

魂に有益「である」ことではなく,有益「であると思われる」ことを教えるのがソフィストである…これは他の対話篇でも言っていたような気がします。ここの卸商人や小売商人の例は非常に分かりやすいです。プラトンは,イデア論などもあるように,「~であるまさにそのもの」とは何か,というのを常にソクラテスに追求させますが,ソフィストはそういうのは実はどうでもよく,人々がどう思うか,という思惑に対しての知識・言動をするものである,というのがソクラテスとソフィストの違いである…プラトンが描いているのはそういうことなのかな,と思います。ある意味市場主義的なのがソフィストといえるかもしれません。
そして,ある意味答は出ているのかもしれません。プロタゴラスなどのソフィストは豪勢な生活を送り,ソクラテスは清貧な生活を送ったわけです (と確たる根拠もなく書いてますが)。

話は変わりますが,私が好きな将棋では,「勝負師タイプ」と「求道者タイプ」がいます。前者は実戦的な,勝つための手・手段を考え,例えば相手の間違いを期待する手を指したり,相手の持ち時間が少なくなったら時間攻めをしたりします。後者は将棋の真理を常に追究し,常に最善手を求めますが,しかし将棋が完全に解明されない限り,最善手と思われるものが勝ちに結びつくかどうかは分からないので,結局実戦的には悪い手を指すこともあります。新しくない例でいえば,前者は大山康晴十五世名人,後者は加藤一二三九段などが当てはまりそうです…勿論以上は例であり,またそこまで分かりやすい人はそうはおらず気持ちがどちらにより近いかという程度だと思います。また,どちらが好ましいということではなく,ましてやプロであれば勝とうとすることは当たり前です。しかし,将棋の真理を追究する人がいればこそ,将棋界全体のレベルというものも上がるし,また将棋自体をただの勝ち負けのゲームにしてしまうことから守っている面もあると思います。
他にも,相撲は興行なのか伝統行事なのか,というのも多少似ているかもしれません。同じようなことは世の中にいくらでもあり,要は役に立つか,立たないか (立たないけれどもそれであるためには必要ではないか),という観点で二分できてしまうものは多いと思いますが,そういう場合は役に立たない方に本質があるかもしれません。閑話休題。

「そして他方,人々の行なおうとする論議が,そのすべてが正義と節制を通じて行なわれなければならないような,国民としての徳性にかかわる場合には,彼らは誰の意見でも聞き入れるのであるが,これも当然のことである。ほかでもない,人々は,この徳性に関するかぎり,もともとあらゆる人間がそれを分けもっているべきであり,さもなければ国家は成り立たないと考えているのだから。」(323A のプロタゴラス)

前の引用まではカリアス邸に行く前のソクラテスとヒッポクラテスの会話ですが,ここからがカリアス邸に着いたあとのソクラテスとプロタゴラスの対話です。
ここでは,他方で建設とかそういう専門的な分野については専門家のみが意見を言うことができる,と言われており,逆に徳性というものは専門技術ではなく誰でも持っている (いないといけない) ということです。

「すなわち,お互いがもっている欠点が,生まれつきや偶然によるものであると人々が考えるような場合には,何びともそのような欠点の持ち主に対して,これを是正しようという意図のもとに,怒ったり,叱ったり,教えたり,懲らしめたりするようなことはしない。ただ気の毒だと思うだけである。たとえば,醜い顔だちの者や,矮小な者や,虚弱な者たちに向かって,何かいま言ったような態度に出ようとするほど愚かな人間が,どこにいるだろうか。…だがこれに対して,心がけや,躾や,教えの結果として人間にそなわると考えられるような美点に関しては,もし誰かがそういった美点をもたずに,その反対の欠点をもっているならば,この場合にこそおそらく,怒りや,懲らしめや,訓戒が向けられるであろう。不正も,不敬虔も,また一言にしていえば,すべて国家社会の一員としてもつべき徳性に反するところのものは,この種の悪のひとつなのである。この場合にあっては,まさしくすべての人がすべての人に対して怒ったり叱ったりするのであるが,このことは明らかに,そのような徳性が心がけと学習によって獲得できるという,人々の教えを示すものといわねばならぬ。」(323C のプロタゴラス)

この部分を読んで,僕は昨今問題になっている体罰の問題を思い浮かべました。徳性を授けようという度合い (または,相手の徳性に反する度合い) が大きい場合,一般論として言葉で全てを伝えられるのか,伝えられずにその結果取り返しのつかない事態が起こったときに責任を取れる のか,という一種の不安が指導者にあることもあるとは思います。尤も,ここで先に言われている「生まれつきや偶然によるものである」原因で体罰を起こしたりするから論外扱いされるのだろうと思います。
まあなんしても,次にもあるように罰というものが徳性を授けるため,未来のため,というのがここで重要な考え方なのだろうと思います。

「道理をわきまえて懲らしめようとする者なら,過去になされた不正のゆえに報復するようなことはしない。一度なされたことは,取り返しがつかないだろうから。むしろその目的は未来にあり,懲らしめを受ける当人自身も,その懲罰を目にするほかの者も,二度とふたたび不正をくりかえさないようにするためなのである。そしてそう考えている以上,彼は徳というものを,教育可能のものと考えていることになる。とにかく,悪いことをやめさせようと思えばこそ,懲らしめをあたえるのであるから。」(324B のプロタゴラス)

プロタゴラスは,罰というのは「二度とふたたび不正をくりかえさないようにするため」,つまりその人に徳性を授けるものである,という観点から,それならそもそも徳とは教育可能であると言います。同じように,国家が罪人に刑罰を課すのは更生のためであれば,法律というものも徳を教育可能であることを前提にしている,ということが言われます。これはなるほどと思います。が,実際の法律は更生のため以外に,「目には目を」のように報復のための刑罰というのも被害者感情や抑止力のために必要な面もあるだろうとも思います。また,このプロタゴラスの説は死刑には整合がとれないと思いますが,日本においては「仇討ち」のような私刑を法が代行するという武士の時代の名残の意味合いも死刑にはあるのでしょうか。

「さて,ここにまだひとつの問題がのこっている。それは君が,すぐれた人物たちについて解釈に苦しんでいるところの難問であって,いったいぜんたいなぜすぐれた人物たちは,…自分自身がすぐれた人物であるゆえんの,その肝心の徳性に関しては,息子たちをほかの者とくらべて何らすぐれた人間にしなかったのであろうか,という問題である。」(324D のプロタゴラス)

優れた人の子が,必ずしも優れてはいない,ということは当時からあったのですね。企業や政治家における世襲批判というのは今にもあるので,非常に興味深い話題です。但し,プラトンの当時は当然,進化論や遺伝の法則などの生物学的な知見は知られていなかったということを前提にする必要はあると思います。

「そのような事柄について,そもそも彼らは,息子たちに教育をあたえもしなければ,万全の配慮もはらおうとしないのであろうか?―いな,ソクラテス,彼らは当然それをしていると考えねばならぬ。」(325C のプロタゴラス)
「さて,子供たちが先生たちの手をはなれると,彼らが自分の好き勝手なふるまいをしないように,今度は国家が,法律を学びその規範に従って生きることを要求する。それはちょうど文字を教える先生たちが,まだ字を上手く書けない子供たちのためにしてやることとまったく同じであって,…国家もそれと同じように,むかしのすぐれた立法者たちがつくり出した法律を,規範として下書きしてやり,支配するにも支配をうけるにも,これにのっとるように命じるのである。そして,この規範から道をふみはずす者があれば,懲らしめを与えるのである。」(326D のプロタゴラス)
「それなら,すぐれた人物を父親にもつ息子たちが,しばしばつまらぬ人間になる場合が多いのはなぜだろうか。」(326E のプロタゴラス)
「さて,笛を吹くことにおいてもちょうどこれと同じように,われわれがお互いに教え合うことに心の底から熱心になり,これを惜しまないとしたならば,どうだね,ソクラテス,その場合,すぐれた笛吹きの息子はへたな笛吹きの息子よりも,いくらかでもいっそうすぐれた笛吹きになることが多いと君は思うかね?私はそうは思わない。むしろ,誰の息子であろうと,笛を吹くための素質に最も恵まれているならば,そういう子供こそが長じてから名をあげ,素質がなければ名もない者になるというのが実際であろう。…しかしとにかく,笛吹きであるという点にかけては,彼らはすべて,笛を吹くことについて全然何も知らない素人とくらべれば,有能な笛吹きであることにまちがいないのだ。」(327B のプロタゴラス)

ここのプロタゴラスの説には非常に感心しました。「教育」と「資質 (または才能)」ということでしょうか。ある下限は,教育によって授けることができるが,できるのはそれだけで,それ以上は「資質」によると。まあ当たり前といえば当たり前ですが,2500年前からそういう説があったのが新鮮です。なので教育に必要な知識というものが秘匿されていて,例えば息子にだけ教育するなどすれば,世襲も立派に成り立ちそうな気はします。ただ政治とか経営とか,ましてや徳は違うでしょうね。

「いまわれわれが当面している問題についても,これと同じように君は考えなければならない。すなわち,法律の支配する人間社会の中で育てられた者のうちで,最も不正な者だと君に見えるような人間であっても,もしその人を,教育も法廷も法律もなく,徳をつねに心がけるようにしむけるいかなる強制もあたえられていない一種の野蛮人たちとくらべて,判定しなければならないとすれば,なお正義の人であり,この事柄の専門家であるといわねばならぬ。」(327C のプロタゴラス)

これは「教育や法治を諦めてはいけない」というふうに私は受け取りました。消極的ではありますが,前向きであると思います。下限を担保できるのが教育や法治であり,「どうせ教えても資質があるとは限らないから無駄だ」「どうせ更生などしない」といって最初から何もしないのでは,落ちるところまで落ちると。

ということで,その1ではプロタゴラスの「徳は教えられるか」というテーマの周辺を見てきました。個人的には納得してしまうことが多かったです。なお,以上で見てきたようなプロタゴラスの論説に対して,ソクラテスはこれといった反駁を行なっていません (と思います)。全然述べませんでしたが,「徳の構成要素のそれぞれは相異なる他のものと同じように部分か」というようなことをテーマにします。もし以上で述べてきたようなプロタゴラスに反駁するとしたら,どんなことを言っていたか…これはかなり大きな問題だと思いますが,面白い問題でもあると思うのでいずれ考えてみたいです。

冒頭に述べたように,次回は同じ『プロタゴラス』のその(2)の予定です。

プラトン『エウテュデモス』メモ

プラトン『エウテュデモス』((プラトン全集 (岩波) 第8巻) を読んだときのメモ。
関係ないですが,7巻を飛ばして8巻を先にしています。7巻が貸し出し中だったため。

この対話篇は,ソクラテスが,過去にエウテュデモスとディオニュソドロスというソフィストと対話したときのことをクリトンとともに振り返る,という設定になっています。ほとんどが過去の対話の再現ですが,たまに現実に戻ってソクラテスとクリトンのやりとりが挟まれるといった感じです。副題は「争論家」。同じソフィストでも,プロタゴラスやゴルギアスとはだいぶ毛色が違うようです。
エウテュデモスとディオニュソドロスは「徳を教えることができる」と言うので,ソクラテスはそれを教えて欲しいと請うわけですが,両人が言うそれは争論術で,あらゆる言論に反駁することができる技術というようなもののようです。例えば「学ぶのは知者か,無知者か」という問いに,相手がどう答えたとしても,その反対であると言いくるめることができる,というような (実際にこの問いはクレイニアスという若者に向けられる)。
ということで基本的に話が全くかみ合いません。エウテュデモスとディオニュソドロスは,ついには「全ての人は全てのことを知っている」というような,どう考えてもおかしいだろということを言い出します (なのでメモも殆ど残っていません)。さらに,クテシッポスの問いに,全ての人は仔牛や仔犬の兄弟だとか,エウテュデモスがディオニュソドロスの歯が何本あるかを知っているとか,答えます。
読んでいる方もなんだかよく分からなくなるのですが,解説によると,本対話篇は「喜劇」らしく,ソクラテスがエウテュデモスとディオニュソドロスに徳の教師として徳を教えてもらうために対話をする過程で,実はソクラテスのほうが新の徳の教師である,ということを描いているようです。対話中ずっとソクラテスは2人を立てるようなことを言っていますが,実は逆説になっているということでしょうか。

以下は読書時のメモです。

で,私はびっくりして言った。「これほどのことが,あなた方には片手間仕事にすぎないというのでしたら,あなた方の仕事というのは,さぞ,立派なものでしょう。どうか是非とも,その立派なものは何か,私に言って下さい。」
「徳を,ソクラテス,僕らは,何人にもまして美しく且つ速やかに授けることができると思う」と彼 (メモ註:エウテュデモス) は言った。(273D)

これが過去の対話の導入部です (前述のように,本作はソクラテスとクリトンの会話の中で過去を振り返るという形式)。

「すなわち,学ぶという言葉を人々はこういう場合に,すなわち,ある事柄について初めには,何らの知識ももっていない人が,後になってこの事柄について知識を取り入れる場合に用いるが,しかしまた,この同じ言葉を,すでに知識をもっていて,その知識によって同じ事柄を―それが,為されることであろうが,言われることであろうが,一層よく見てみる場合にも用いるということを君が知っていなかったということをね…」(277E のソクラテス)

この言葉は,エウテュデモスがクレイニアスに,「学ぶ人は人間たちのうちいずれかであるか,知者かそれとも無知者か」と問い,クレイニアスが「知者です」と答えたら,なんだかんだと「無知者である」と反駁され,しかし直後にまた「知者でもある」ということにもなり混乱させたやりとりを受けたものです。これが本作の「争論術」の1つの例になっています。つまり相手がどちらと答えても自分が勝つようにしているわけです。

「知恵は,な,成功だろう,そして,これは,子供にだってわかることだろう」と私は言った。(279E)
「それでは,知恵はどんな場合にも人間たちに成功を得させるものだ。何故かというと,知恵はどんな時でも何についても為(し)損じるというようなことは決してなく,むしろそれは正しく行って,為(し)当てるからだ。そうでなければ,実はもう知恵ではないだろうからな」(280A のソクラテス)
「しかしどうだ。もし誰かが富や,さっきわれわれの挙げた善いものを,すべて所有してはいるが,しかしそれらを用いない場合に,それら善いものの所有によって,幸福であるだろうか」(280D のソクラテス)
「すなわち,もし愚昧がそれらの道案内をすれば,それらが,その悪くある案内者に随うことができればできるだけ,その反対のものどもよりもそれだけ大きな悪いものである。これに反して,もし思慮や知恵が道案内をすれば,それらは,それだけ大きな善いものである。しかしそれらのどちらも,それら自らただ自分らだけでは,何の値打もないものだ」と私は言った。(281D のソクラテス)

断片的になりましたが,これらのソクラテスの言葉は,エウテュデモス・ディオニュソドロスのやり方があんまりなので,こういうふうに教えてほしいという例として行なわれたソクラテスとクレイニアスとの対話の中のものです。本作の中で,比較的まともな?対話が行なわれるのが,このソクラテスとクレイニアスの対話です。
まず「善いものとは」というテーマで,その中に成功が含まれる,となり,その成功は,知恵によってもたらされる,ということが説かれます。

「狩猟術そのものはどんなのでも,狩って手に入れるだけで,それ以上には出ません。そして,それが何か狩るものを手に入れた時に,それを用いることができません。むしろ陸の猟師たちや海の漁師たちは調理人たちに譲り渡すのです。…また将軍たちだって同じように,彼らが或る国なり陣地なりを狩りとると,それを政治家たちに譲り渡します―何故なら狩ったものを自分では用いることを知らないからです。」(290B のクレイニアス)
ソクラテス「つまり,私たちには政治の術と帝王の術とが同じものであると思われるにいたったのだ。…その術には将軍術もその他の術も,ただそれだけが用いることを知っているもののように思って,自分たちがその職人として作ったものを支配して貰うために譲り渡しているように思われたのだ。」(291C)

ここは結構面白い話です。何かを手に入れたり作ったりすることそれ自体が幸福になるわけではない,それをうまく用いることができなければならない,と。そして用いる側の技術として,政治の術・帝王の術がある,と。
では,「ただそれだけが用いることを知っているもの」とは?つまりは政治の術とは?という追求が次に来ます。で,それは人々に何か知恵を授けるもの,というようなことが言われましたがはっきりは分かりませんでした。前に 279E 以下の引用として挙げた部分とも繋がってくると思います。

「すべての人はすべてを知っているのだ,一つでも知っておれば」と彼(ディオニュソドロス)は言った。(294A)

エウテュデモス,ディオニュソドロスに教えてもらおう,と尋ねたら,また「争論術」によってはぐらかされてしまい,前の話題はうやむやになってしまいました。

両ソフィストがその教育の手段として用いたものは争論術であって,自分の語ることの真偽を少しも問題にせず,ただ議論の相手を困惑させ,その口を封じて,勝利を得ることを目的としたのである。しかし,それは相手ばかりではなく,自分自身の口をも封じることになるのである。(解説)

これが本対話篇の副題である「争論術」とは何であるかのまとめになっています。

ということで以上。途中の「知恵」「政治 (帝王) の術」とは何か,という部分は面白かったですが全体としてはエウテュデモス・ディオニュソドロスの問答によってはぐらかされたという印象が強いです。次回は『プロタゴラス』の予定。

寺田寅彦『災難雑考』メモ

寺田寅彦『災難雑考』読書時のメモ (青空文庫)。

この随筆は,つり橋が落下し修学旅行中の女学校の生徒が多数犠牲になった,という事故を取っ掛かりに,航空機等の事故が起きたときの対応についてや,自然災害への備えの重要さや,災害との付き合い方?のようなものなどが綴られているものです。
寅彦は科学者なので,

だれの責任であるとか,ないとかいうあとの祭りのとがめ立てを開き直って子細らしくするよりももっともっとだいじなことは,今後いかにしてそういう災難を少なくするかを慎重に攻究することであろうと思われる。

というような至極まっとうで,当時も表面的な責任追及に始終していたらしい事故調査を憂えているわけですが,それだけでは終わりません。

こうは言うもののまたよくよく考えて見ていると災難の原因を徹底的に調べてその真相を明らかにして,それを一般に知らせさえすれば,それでその災難はこの世に跡を絶つというような考えは,ほんとうの世の中を知らない人間の机上の空想に過ぎないではないかという疑いも起こって来るのである。

ここからが微妙に言いにくいことを言ってくれているという感があります。
現実は,「大津波が来るとひと息に洗い去られて生命財産ともに泥水の底に埋められるにきまっている場所でも繁華な市街が発達して何十万人の集団が利権の争闘に夢中になる。いつ来るかもわからない津波の心配よりもあすの米びつの心配のほうがより現実的であるからであろう。」と述べています。
これは,今の日本でも共通する難しい問題だと思います。事業のためにしろ,土地への愛着のためにしろ,必ずまたそういう津波で壊滅した所に戻る人はいると思います。これを悪いとは言えないと思いますが,もし今後大津波が起こる可能性が高いと公式に表明がなされた場所だった場合,それはもう自己責任としか言えないという気もします。
さらに難しいのは,現代ではそういう場合には国等が補償するのが当然といった風潮になっていることです。

こういうふうに考えて来ると,あらゆる災難は一見不可抗的のようであるが実は人為的のもので,従って科学の力によって人為的にいくらでも軽減しうるものだという考えをもう一ぺんひっくり返して,結局災難は生じやすいのにそれが人為的であるがためにかえって人間というものを支配する不可抗な法則の支配を受けて不可抗的なものであるという,奇妙な回りくどい結論に到達しなければならないことになるかもしれない。

分かりづらい言い回しですが,言わんとしていることはよく分かります。

もしもこのように災難の普遍性恒久性が事実であり天然の法則であるとすると,われわれは「災難の進化論的意義」といったような問題に行き当たらないわけには行かなくなる。

この「災難の進化論的意義」というのは,台風とか地震とか津波といった災難があることによって,今の日本がある,というようなもののようです。「災難が無くなったらたちまち「災難飢餓」のために死滅すべき運命におかれているのではないかという変わった心配も起こし得られるのではないか」とも述べられています。また植物や動物はこの進化論を忠実に守っている (というか組み込まれている?) ので災難に備えることを心得ているようだ,というようなことも述べられています。

日本人を日本人にしたのは実は学校でも文部省でもなくて,神代から今日まで根気よく続けられて来たこの災難教育であったかもしれない。もしそうだとすれば,科学の力をかりて災難の防止を企て,このせっかくの教育の効果をいくぶんでも減殺しようとするのは考えものであるかもしれないが,幸か不幸か今のところまずその心配はなさそうである。いくら科学者が防止法を発見しても,政府はそのままにそれを採用実行することが決してできないように,また一般民衆はいっこうそんな事には頓着しないように,ちゃんと世の中ができているらしく見えるからである。

これは政府・市民への痛烈な批判とも言えますが,卓見でもあると思います。特に最後の部分は,今の日本ではマスコミや政府が一般市民を悪く書くことは有り得ないのでこんな率直な表明もまず有り得ませんが,それが現実だと思いますし,人というのは変わらないものなので現在でも当てはまるものだと思います。

ここでは述べませんでしたが,ある航空機事故に際して「実に胸のすくほど愉快に思った」という秀逸な事故調査や,「優学生的災難論」というようなものなど,色々考えさせられることが多い随筆です。青空文庫でタダで読めるので,多くの人に読んで欲しい面白い作品です。

プラトン『恋がたき』メモ

プラトン『恋がたき』((プラトン全集 (岩波) 第6巻) を読んだときのメモ。
これは一応対話篇に入るのかもしれませんが,ソクラテス視点の物語風になっています。副題は「愛知について」。
設定が,ソクラテスがある二人組と,その二人組の一方に恋する男とで,知を愛するということ,愛知者とは何かということについて対話していくという内容です。「恋がたき」という表題の意味もピンときませんが,多分上述の,二人組の恋されていない方の男を,二人組の一方を恋する男の視点で指すのでしょう。たった3人 (ソクラテスを含めると4人) なのに随分ややこしい関係で,しかも対話の内容はこの設定と本質的に殆ど関係なく(笑),寧ろかなり硬派なテーマだといえるでしょう。
なお,本篇も『ヒッパルコス』と同様,偽作の疑い強し,と訳者が解説に書いています。「それならプラトン全集に入れるなよ」という気もしなくもないですが,どうも『アルキビアデス I』『アルキビアデス II』『ヒッパルコス』そして今回の『恋がたき』の,岩波プラトン全集第6巻に収録されている対話篇は,岩波プラトン全集が底本としている本で4部作としてまとめられている,ということだったと思います (解説に書いてあったのですが図書館に返したので詳細は今は確認できず)。

以下は読書中の転記部分とメモです。

「きみには,知を愛することが,立派なことだと思えるのかい,それとも…?」(132E のソクラテス)

「つまり,知ってのとおり,五種競技の選手たちは,陸上競技やレスリングの仕合では,その道の専門選手たちにおくれをとり,かれらにくらべると二流なのだが,ほかの選手たちの間では第一人者で,かれらより勝っている。おそらくきみは,愛知というものも,それを己が業としている者たちに,結果として,何かそのようなことをもたらす,と言っているのではあるまいか。…そしてそのようにして,何ごとにつけても,愛知者というものは,一流にかなわぬ二流どころの人物のようなものになる,とね。何かこのような男の姿を,きみはぼくの前に示しているように思えるのだが」
「じつにお見事だと思います,ソクラテス」と,かれは答えた,「…つまりは,職人どものように,ただひとつのことの世話のみに追われて他はすべてこれを無視するというようなことはせずに,すべてにほどよい接触を保っていることになる,端的に申しまして,こういうのが,愛知者なのですから」(135E)

相手の男は,愛知者とはできるだけ多くの物事について幅広く知識を持つ,というようなことを少し前に言っています。それに対してソクラテスは上記のように,「では愛知者とは全てにおいて二流になることになるのではないか」と言います。これは非常に厳しい指摘です。
正直,ここで男が言っている愛知者の像もそこまで一般的に間違っているとは思えませんし (ソクラテスも「一理あると思った」というような述懐の記述がある),自分も赤魔道士的なキャラというか,色んなことを自分でできるようになりたいと思ったりもするので,自分に言われているという気もしました。

「では,よいかね」と僕は言った,「もしきみ自身が,あるいはきみが多大の関心をもっている友だちの誰かが,たまたま病気になったとすると,きみは,健康を取り戻そうとして,あの,一流にはかなわぬ二流どころの人 (愛知者) を,家につれてくるだろうか。それとも,医者を呼ぶだろうか。」(135C のソクラテス)
「さて,したがって,いままでの話からすると,愛知者は,ぼくたちにとって,何の役にもたたない人だということになるのではないかな?」(136E のソクラテス)

ということで「愛知者」=役立たずの烙印を押されます。確かに具体例にあるように,何かあったときに二流では頼れません。自己満足のためには,二流でもよいのかもしれませんが…。

「では,どうだろう。或るひとりの人がいるとして,その人がすぐれた善い人と劣悪な人の別を識らない時には,当人自身も人である以上,ほかならぬ自己自身がすぐれた善い人なのか劣悪な人なのか,わからないのではないか。」(138A)
「また,いうまでもなく,このように,正義と思慮の徳が一体不離の関係にある時に,国々も立派に治められるわけだ。不正をはたらく者たちが,その罰を受ける時にね。」(138B)

ここでは『アルキビアデス I』と似たことが言われていると思います。

「すると,どうなんだろうね」と,ぼくはたずねた,「愛知者は,これらの領域においても,また五種競技の選手としてあるべきで,一流にかなわぬ二流どころの人物でなければならぬ,そして愛知者というものは,この技術に関するすべての領域で,二流どころの地位を占めるわけであるから,誰かその領域の専門家がいるかぎり,役立たずの人になることも,またとうぜんのなりゆきであると,言うべきなのだろうか。それとも,愛知者たる者は,何よりもまず,己れの家を他人の手にゆだねるべきではなく,そこでは,二流どころの地位を占めるべきでもない,己れの家を立派に治めんとするならば,みずからの手でこれを正しく裁き,善き方へあらためていかねばならぬと,こう言うべきなのだろうか」(138E のソクラテス)
「してみると,きみ,よいかね,とんでもないことだよ。知を愛し求めることは多くを学び知ることであるとか,専門的な諸技術をとりまく周辺の業であるということはね」(139A のソクラテス)

これが本篇のまとめとなっています。結局,上で言われていたような愛知者の定義はソクラテスに明確に否定されます。勿論,知というものが重視されているからこそ,知を愛するということがそんなつまらない結果になるはずはない,ということだと思います。知を愛すること自体が否定されているわけでは決してないでしょう。

すでに述べたように,本対話篇は,そのような意味で,プラトンの教えのいわば手引書の役割をはたしているといえよう。(解説)

『ヒッパルコス』などと同じように,偽作の疑いが強いとされているということは,プラトンの研究者からはきっと軽視されていると思われます。が,上記引用の解説にあるように,題名に反して(?),プラトンらしい思想と,ソクラテスらしい対話が楽しめる内容となっており,確かに入門的な内容といえると思います。
次回は7巻に移り,『テアゲス』の予定。

プラトン『ヒッパルコス』メモ

プラトン『ヒッパルコス』((プラトン全集 (岩波) 第6巻) を読んだときのメモ。

この対話篇はちょっと変わっていて,『ヒッパルコス』という表題なのですが対話の相手はヒッパルコスではなく,「友人」という謎の無名人物です。当のヒッパルコスというのは,ペイシストラトスの息子で,アテナイの僭主になり,人格者であったが,愛憎のもつれ?で殺されてしまった,という挿話がちょっと出てくるだけです (ヒッパルコスは,ヘロドトス『歴史』,トゥキュディデス『歴史』,アリストテレス『アテナイ人の国制』などに記録が出てくるらしい)。
本対話篇の副題は「利得愛求者」で,文字通り利得とは何かについての対話です。約20ページと非常に短いです。
また,解説によると,本対話篇は偽作の疑いがあるということです。というか訳者 (解説者) が「訳者としては,やはり偽作説に一票を投ずることにしたい」とまで書かれています。まあプラトン全集も出版されて40年近く経っているので,真作か偽作かというのは最新の学説も知るべきでしょうが自分のような趣味で読む者にとっては大した問題ではありません。

以下は読書時の転記部分とメモです。

ソクラテス「そうすると,いったい利得の愛求 (欲深いこと) とはどういうことなのか,また利得愛求者 (欲深者) とはどういう人びとなのだろうか。」
友人「わたしには,無価値なものごとから利得を得ることを期待する人びとのことである,と思われます。」(225A)

これが冒頭部ですが,利得についてソクラテスが質問していくという形です。

ソクラテス「ある利得は善であり,別のある利得は悪である,としよう。ところで,それらのうちの善きものが悪しきものより,より多く利得であるということはないね。それとも,そうではないのか。
友人「いったいどんなことを尋ねておられるのでしょうか。」
ソクラテス「説明してあげよう。食物には善いものと悪いものとがあるね。」
友人「はい。」
ソクラテス「さていったい,それらの中の一方が他方よりも,より多く食物であるというのか,それとも,同じようにこのものである,つまり両方とも食物であるのであって,この限りにおいては,つまり食物である限りにおいては,一方は他方と何らことなるところはなくて,その中のあるものが善いものであり,あるものが悪いものであるという限りにおいて,一方が他方とことなるのかしら。」
友人「はい。」
ソクラテス「すると,飲物やその他の,ものごとのうちの,同じものでありながら一方は善きもので他方は悪しきものであるようなもののすべては,同じものであるという限りにおいては,一方は他方と何らことなるところがないのではなかろうか。ちょうど人についてもおそらく,あるものはよい人であり,あるものはわるい人である。」
友人「はい。」
ソクラテス「だが思うに,人であるという限りにおいては,どちらが他方より,より多く人であるとか,より少く人であるとかいうことは決してない。よい人がわるい人よりも,とか,わるい人がよい人よりも,とかいうことはないのだ。」
友人「あなたの言っておられることは,ほんとうです。」
ソクラテス「それなら,利得についても,そのように考えようではないか。つまり,有害なものも有益なものも,同じように利得ではある,とね。」
友人「必然的にそうなります。」
ソクラテス「してみると,有益な利得をもっているひとが,有害な利得をもっているひとよりも,より多く利得を得ることにはならない。われわれの同意するところでは,そのどちらかが,より多く利得であるというようなことはない,ということは明らかなのだ。」(230A)

ちょっと長い引用ですが,これは非常にプラトンらしい対話だと思いました。個人的には読んでいるときには偽作とは思いもしませんでした。似たような対話は『ゴルギアス』辺りのいわゆる初期にあったと思います。
「すると,飲物やその他の,ものごとのうちの,同じものでありながら一方は善きもので他方は悪しきものであるようなもののすべては,同じものであるという限りにおいては,一方は他方と何らことなるところがないのではなかろうか。」…という一連の表現は,自分はベクトルの射影を思い浮かべました。ベクトルは全く別の方向で大きさも違うが,X軸への射影をとってみると実は同じである,というような。
それはともかく,「利得に善悪はない」というのはプラトンらしくない印象もありますが,善悪がないというより善悪とは次元が異なるということなのでしょう。「儲かれば何でもよい」ということではなく,善悪が分かる心の持ち主が得た利得であれば,それが全て善いものだ,というふうにとらえたいと思います。

ソクラテス「善きひとはあらゆる利得を得ようと望むのではなく,利得の中の善いものを望んで,わるいものは望まない,といってきみはぼくに異議を申し立てた。」
友人「はい。」
ソクラテス「ところがさて今は,議論がわれわれを,小さいものも大きいものも,すべて利得は善きものである,ということに同意するよう強制してしまっているのではないか。」(232A)

このようにいつの間にかソクラテスの対話は相手を籠絡してしまいます。僕もソクラテスの相手と一緒に,いつも訳が分からなくなってますが,まあテーマや結論よりもこの対話の過程が面白いです。

ということで以上。偽作かもしれないということで,専門家からは恐らく軽視されていると思いますが,個人的にはプラトン的なソクラテスによる対話の展開が楽しめました。他のもそうですが第6巻は短編が多く,しかも読みやすいので結構おすすめです。次回は『恋がたき』の予定。

プラトン『アルキビアデス II』メモ

プラトン『アルキビアデス II』((プラトン全集 (岩波) 第6巻) を読んだときのメモ。
前回書いた『アルキビアデス I』と同じアルキビアデスのようです (基本的にプラトン対話篇というのは「ステートレス」で,前提となる知識は不要なので,仮に同じ人物が出てくるとしても,どの著作から読んでも一切問題ありません)。ただ,『アルキビアデス I』や『饗宴』とは異なり,恋がどうのという話題は一切出てきません。また,それとは別の話で,本作は偽作ではないかという説も結構あったようです。
内容は,神への祈りに向かう途中のアルキビアデスに会ったソクラテスが,思慮と無思慮についてや,人は何を祈願するのか,その祈願したことが善いことなのかどうか,といったことを考察します。単に知識や心得を持っているだけではダメ,というような部分もあり,内容的には『アルキビアデス I』と通じる部分があるかもしれません。ちなみに副題は「祈願について」。

では以下は読書時に転記した部分とメモです。

「神々はわれわれが公私いずれにおいても祈り求めるそのものを,時によって,そのあるものはかなえるが,他のものはかなえなかったり,またある人びとには与えるが,他の人びとには与えないといったことがある,ときみは思わないかね。」(138B のソクラテス)

最初のほうのソクラテスの問いかけです。科学の時代である現在と当時は勿論全く異なるので,宗教云々を別にしても祈願というものについては時代の違いを念頭に置く必要はあると思いますが,読みながらふと本篇の「神々」を「政治」もしくは「お上」とでも置き換えたら現在でも割と通用するのではないか,などと思ったりしました。

「それならば,また人びとは無思慮をも同様の仕方で分けもっているのだ。そしてその最も大きな部分を分けもっている人びとをわれわれは気がちがっていると呼ぶし,それよりもいくらかわずかの部分を分けもっている人びとを馬鹿とか阿呆とか呼んでいるわけだ。」(140C のソクラテス)

これは大丈夫なのか?(笑) まあ思慮深さというのがなければなにが善いのかが分からない,というのは当然の前提となっているので,無思慮は切り捨てていますが現在だと差別とか言われそうですね。

「多くの人びとは,支配者の地位とか将軍の地位とか,その他それが現実になれば得になるよりも,むしろ損害をもたらすような多くのものを,それが与えられることになれば,避けようとはせずに,自分にそれがない場合には,それが与えられるように祈願しさえする。だがしばらくすると,彼らはえてして最初に祈願した事柄をすべて願い下げにして,取り消しの唱えごとなどをする。それでぼくは,本当に,人間が,自分たちの不幸は神々から来るなどと言って,おろかにも神々を責めはしないかと疑うのだ。」(142C のソクラテス)

確かに最初希望していた地位や生活が実現しても,いざそうなると思っていたのとは違った,というのはよくあることです。ただ上にも書きましたが,仮に同じ状況で責めるにしても,日本では神々ではなく,政治とかマスコミとかの権力を責めるだろうと思います。その辺りは宗教観のなさなども関係するのでしょうか。新渡戸稲造は「日本には宗教教育はないが武士道がある」と書きましたが,宗教心も克己心もないのが現代の日本の全体としての特徴かなと思わされます (別に必ずしも悪い意味ではないので念のため)。

「してみると,どうやら,最も善きことに対する無知,つまり最善についての知が欠けていることが,悪だということになるらしい。」(143E のソクラテス)
「してみると,思慮ある人とは,このような事情のどれかを知っているだけではなく,さらに最も善いことについての知識―しかもこの知識とためになることについての知識とはむろん同じものだ―がその人にそなわっている場合だということになる。ね,そうだろう。」「そしてこうした人をこそわれわれは思慮ある人であり,国家にとっても,その人自身にとっても,十全な勧告者であるということができるのだ。これに反してこのような条件を欠いている人は,これとは反対の者であるというのだ。それとも,どう思われるかね。」(145C のソクラテス)

かなりプラトン的な部分です。結局のところ全ては善の関数である,というような。こういうのが読みたくてプラトンを読んでいる部分はあります。

「それならいまここにひとつの国家があって,そこには立派な射手や立派な笛吹きがおり,さらに運動選手たちやその他の技術の心得ある者たちがおり,またわれわれがたったいま語ったこれらの人びとの中に,ただ戦争することだけを知っているとか,人をただ殺すことそれだけを知っている者たちが混りこんでおり,その上また国家についての大ぼらを吹く演説家たちもいるとする,しかしこうした者たちが全部いるのだけれども,最も善きものに対する知識がなく,これらの人びとそれぞれを働かせて行くのには,いかなる時が善いか,何を目的とするほうが善いかを知っている人がいないとしたら,そういう人たちだけで作られる国家の体制は,どのような国家体制だときみは思うかね。」(145E のソクラテス)

国だけでなく企業などでも同じことが言えると思います。ただ現実は,多分経営者でも「具体的に」とか「現場の目線で」とか,とにかく実行と成果が求められる世の中なので,一見何もしないようで「何が善いか」ということに目を据えているようなことが認められにくいだろうとは思います。

「したがって,多くの人びとは,ぼくの思うところでは,すくなくともたいていの場合,知性をつかわないで思わくを信じこんでいるゆえに,最も善きものについてひどい誤りを犯している―とわれわれは再度主張することになるね。」(146C のソクラテス)

あまり覚えていないですが,「知性」と「思わく」の違いについてはプラトンは結構書いていたと思います (『メノン』だったか…)。

「また世のいわゆる博識や多芸を身につけている人もこの (善の) 知識が欠けていては,他のあれこれの知識に引きまわされて,おもうに舵とりのないままに大海の上にいつまでもうろうろしているから,生涯の道程をいくらも行かないうちに,しごくとうぜんにも烈しい冬の嵐にぶっつかることになるのではあるまいか。だからこの場合もまた,「多くのことを知ってはいたが,そのすべては悪しき仕方で知っていたのだ」と,かの詩人が誰かについて非難の意味で言ったことがあてはまるように思われるのだ。」(147A のソクラテス)

この引用の前半の比喩は好きですね。私はよく,目標や方向,理念や理想がなければ各自が改善を行なってもブラウン運動をするが如くに結局全体としては確率的にしか改善しない,というようなことを考えますが,ここでは善悪という軸で善の方向がわからなければという意味で同じことが書かれていると思います。

「もし神々がわれわれのささげる贈り物や,犠牲には目をとめるが,ひとがまさに敬虔であるか,正しくあるかといった,魂のほうには目もくれないというのであれば,それはなんともたいへんなことになるかも知れないからねえ。いやおもうにむしろ神々はこの魂のほうにこそはるかに目をむけ給うのだ。あるいは神々に対し,あるいは人びとに対して,大いなる過ちを犯しておきながら,平然として個人も国家も年々歳々それをささげることができるような,そのような,金にあかした祭列や犠牲に目をむけ給うよりはね。」(149E のソクラテス)

こういう考え方が神々によって得られるのであれば,宗教というのはあったほうがいいのだろうなと思ったりもしますが,「敬虔であるか,正しくあるか」というような思慮深さは内容としてはプラトンが普段から言っていることであり,神々の威を借りて言っているだけ,という気もします。

ちょっと今回は現実との対比をコメントに書きすぎてつまらなくしてしまった感があります。対話篇自体は短く読みやすいものでした。次回は『ヒッパルコス』の予定。