プラトン『国家』第三巻メモ(1)

プラトン『国家』((プラトン全集 (岩波) 第11巻) 第三巻を読んだときのメモ第1弾。

第三巻は第二巻の続きという感じで,国の守護者を育てるにはどうしたらよいのか,という話題の中で様々なことが論じられます。序盤は正直また神話の中身に関する話が続くので,退屈な展開ではあります。
「何を語るべきか」,ということが前半で語られた後,「いかに語るべきか」ということが話題になります。そしてその後で,音階やリズムの話を挟み,そもそも何を語るべきかに限らず他の職人の仕事にも同じように適用するべきではないか,ということが言われます。

「ではつぎに,その人たちが将来勇気ある人間となるべきだとすれば,どのように考えるべきだろうか?以上の事柄のほか,彼らをできるだけ死を恐れないようにさせる内容のことを,語り聞かせるべきではなかろうか。それとも君は,誰であれ,心の内に死の恐怖をいだいている者が,そもそも勇気ある人間になれると思うかね?」(386A)

これは最初の部分ですが,この後,神々に関する詩の中で,悲嘆にくれる内容であったり,放埓の内容だったり,殺しあう内容だったりするものは語り聞かせるべきではない,ということが言われます。逆に,節制や,勇敢さを喚起するような内容の話を語り聞かせるべきである,と。省略しますが,割と過激な感じで,独裁国家を想像してしまい,全面的に賛成する気持ちにはなれません。

「さあそれでは,話の内容については,これで終ったことにしよう。つぎは,ぼくの思うには,語り方のことを考えてみなければならない。そうすればわれわれにとって,何を語るべきかということと,いかに語るべきかということが,ともに完全に考察されたことになるだろう」(392C)

前の引用からだいぶ飛ばして,ここが1つの転換点です。中身の話から,どう語るかについてに話が移ります。

「しかるに,声においてにせよ,姿かたちにおいてにせよ,自分を他の人に似せるということは,自分が似ようとしている相手の人を,真似るということにほかならないだろうね?」
「そのとおりです」
「したがって,そのような場合には,どうやら,ホメロスにせよ他の作家 (詩人) たちにせよ,<真似>というやり方で叙述を行なっていることになるようだ」(393C)

「創作 (詩) や物語のうち,あるものはその全体が<真似>というやり方によるものであって,君の言うように,悲劇や喜劇がこれにあたる。またあるものは,作者自身の報告によるものであって,君はおそらくディテュランボスに,それを最もよく見出すことができるだろう。もうひとつは,その両方によるものであって,叙事詩の創作や,ほかにも多くの場合に見られるだろう」(394B)

実際に『イリアス』の引用があったりするのですが,前半の「<真似>というやり方」というのは現代の言い方で言うと直接話法のことで,次の「作者自身の報告によるもの」というのは間接話法のことのようです。何かを語るときに,真似,つまり直接話法で語るのと,間接話法で語るのとでどういった違いがあるのか?どういうことを語るときに,どちらで語るべきか?ということが焦点になってきます。

「それでは,アデイマントス,このことを考えてくれたまえ。つまりそれは,われわれの国の守護者たちは真似の達者な人間であるべきかどうか,という問題だ。はたしてこのこともやはり,先の原則に従って考えられるものだろうか?すなわちそれによれば,それぞれの人間は一人で一つの仕事をすれば立派にできるが,一人で多くの仕事をうまくこなすことはできず,あえてそうしようとすれば,たくさんのことに手を出してすべてに失敗し,どれにおいても名のある者にはなれないだろうということだったが」(394E)

この論理 (一人で多くの仕事をうまくこなすことはできない) は,国家の成り立ちを考える一番最初に言われた,全てのエキスパートではいられないというプラトン的な論理のことです。ではそれでも真似によって MP を消費する価値があるかどうか,というのが,この後で論点になることです。

「それとも君は,気づいたことがないかね―真似というものは,若いときからあまりいつまでもつづけていると,身体や声の面でも,精神的な面でも,その人の習慣と本性の中にすっかり定着してしまうものだということに?」(395D)

プラトンが真似を問題視するのは,真似をすることに MP を消費するということと同時に,こういう理由も大きいのでしょうが,これは結構実感できる話です。
若いときに限らず,周りの人の癖などがいつの間にか自分に移ってしまう,というのはあると思います。別に意図はせずとも,例えば「何であの人はあんなことをするのかなあ」とか思っていることでも,ふと気づくと自分がやっているとか。
それに,当時は恐らく本などない時代で,伝えるのは殆ど文字通り語ることによっていたと思われるので,真似 (直接話法) かどうかというのは聞き手に与える影響も単に文字で表される違いよりもずっと大きかったのだろうと思います。

「またぼくの思うには,言葉においても行為においても,気の狂った人々に自分を似せるような習慣をつけてはならない。たしかに,気の狂った人々についても邪悪な人々についても,それが男にせよ女にせよ,知識はもたなければならないけれども,しかしその種の人々のすることを何ひとつ実際に行なうべきではないし,真似すべきでもないからね」(396A)

その人の真似をすることがよいかどうか,端的な言葉になっているのがこの部分だと思います。当たり前のような言葉ですが,プラトンの思想の底流を何となく感じさせる言葉でもあります。

「ぼくの思うに,適正な性格の人は,叙述を進めて行くうちに,すぐれた人物のある言葉なり行為なりのところに来た場合には,自分がその人物になったつもりでそれを報告する気持にすすんでなるだろうし,そのような真似なら恥ずかしいとは思わないだろう…。けれども逆に,自分自身に似つかわしくないような人間が登場する場面に来た場合には,彼は,その人物がたまたま何か善いことをする場合のようなわずかな機会を例外として,本気になって自分を自分より劣った人間に似せようという気持にはなれずに,そうすることを恥ずかしいと思うだろう。それは一つには,そのような人間の真似をすることには慣れていないからでもあるし,一つにはまた,自分が心中軽蔑しているような,より劣悪な人間たちの型に自分をはめこんで形づくるということを,嫌悪するからでもある。冗談にするのでもないかぎりはね」(396C)

ということで,真似するかどうかの是非の結論になりました。この少し後で,「<真似>と単純な叙述との両方のやり方を含みはするけれども,<真似>が占める部分は,長い話のなかで少ししかないことになるのではなかろうか」とも言われます。

「それではこれで」とぼくは言った,「どうやら,君,音楽・文芸のうちで話と物語に関することは,すっかり片がついたようだ。何が語られるべきかということも,いかに語られるべきかということも,述べられてしまったのだからね」(398B)

「そうすると,このつぎには」とぼくは言った,「歌と曲調のあり方に関することが残されているのではないかね?」(398C)

「いずれにしても君は」とぼくは言った。「まず第一に,次のことはよく納得できて,言えるはずだ―歌というものは三つの要素,すなわち言葉 (歌詞) と,調べ (音階) と,リズム (表紙と韻律) とから,成り立っているということは」(398C)

今度はリズムに関する話になります。しかし内容は省略します。基本的に,物語に関することと同じことを辿ることになります。つまり,嘆きや悲しみや柔弱の調べというものは否定し,困難な状況の時に「毅然としてまた確固として運命に立ち向かう人,そういう人の調子や語勢を適切に真似るような調べ」や「結果が思い通りにうまく行って,そのうえでけっして驕り高ぶることなく,…節度を守り端正に振舞って,その首尾に満足する人,そういう人を真似るような調べ」というようなものはよい,ということで,具体的にどんな調べがよいかを当時の作品などから類推しようとします。

「それではわれわれは,ただ詩人たちだけを監督して,すぐれた品性の似姿を作品の中に作りこむようにさせ,さもなければ,われわれのところで詩を作ることを許さずにおけばよいのだろうか?それともむしろ,他のさまざまの職人たちをも同じように監督して,問題の悪しき品性や放埓さや下賤さやみぐるしさを,生きものの似像のうちにも,建築物のうちにも,そのほかどのような制作物のうちにも作りこまないように禁止し,それを守ることのできない者は,われわれのところでそうした制作の仕事をすることを許さないようにすべきだろうか…。いや,われわれの探し求めるべき職人は,そのすぐれた素質によって,美しく気品ある人の本性がのこす跡を追うことのできるような制作者でなければならないのではないか…」(401B)

結局,詩人に何をどう語らせるか,ということの抽象化を進めて,あらゆるものに当てはめようとします。その行き着く先はイデアというものでしょうか。
しかしこの場合,いささか度が過ぎるような気がするというのが率直なところです。こういう規制を行なうというのは,前にも書きましたが,たまにテレビのニュース等で流れる,北朝鮮でトップを礼賛する勇ましい歌や動画を連想してしまうのです。勿論,その国家のトップや統治機構によるのであって,そういう意味で (先取りしますが) 哲人王による政治が実現することが必要条件なのだろうと思います。
この辺りでは,僕も現実のほうを少し考えて,プラトンの主張に珍しく少し疑義を覚えたのでした。

「だから,グラウコン」とぼくは言った,「そういうことがあるからこそ,音楽・文芸による教育は,決定的に重要なのではないか。なぜならば,リズムと調べというものは,何にもまして魂の内奥へと深くしみこんで行き,何にもまして力づよく魂をつかむものなのであって,人が正しく育てられる場合には,気品ある優美さをもたらしてその人を気品ある人間に形づくり,そうでない場合には反対の人間にするのだから。そしてまた,そこでしかるべき正しい教育を与えられた者は,欠陥のあるもの,美しく作られていないものや自然において美しく生じていないものを最も鋭敏に感知して,かくてそれを正当に嫌悪しつつ,美しいものをこそ賞め讃え,それを歓びそれを魂の中に迎え入れながら,それら美しいものから糧を得て育くまれ,みずから美しくすぐれた人となるだろうし,他方,醜いものは正当にこれを非難し,憎むだろうから―まだ若くて,なぜそうなのかという理を把握することができないうちからね。やがてしかし,理が彼にやって来たときには,このように育てられた者こそは誰にもまして,その理と親近な間柄となっているためにすぐ識別できるから,最もそれを歓び迎えることになるだろう」
「たしかに私としては」と彼は答えた,「そのようなことのためにこそ,音楽・文芸による教育はあるのだと思います」(401D)

こちらは同意します。教育の根本的な意義かもしれないとも思います。
以前,僕が高校くらいの時ですが,寝台特急で乗り合わせたおばあさんが「微分積分なんて習っても何の役にも立たなかった」と言っていたのをふと思い出しました。それはある意味自分にとっても真実で,僕も仕事で微分積分を使うことは今はほぼ皆無ですが,ものの量の変化の仕方について考えることが身について,それに関する正しいことや誤ったことが分かるようになった,ということはあると思います。それは,「美しいこと」なんだろうと思います。例として適切かどうかは知りません(笑)。

「それでは,ぼくが言いたいのはこういうことなのだ。―神々に誓って,音楽・文芸の場合もそれと同じように,われわれ自身にしても,われわれが国の守護者として教育しなければならぬと言っている者たちにしても,節制や勇気や自由闊達さや高邁さやすべてそれと類縁のもの,他方またそれと反対のものの実際の姿が,いろいろとくり返し現れるのをあらゆる場合に識別し,それらが内在しているあらゆるもののうちに,その実際の姿をも似姿をもともに認識できるようになるまでは,そして小さなもののうちにあろうと大きなもののうちにあろうと,けっしてないがしろにせず,いずれを知るにも同一の技術と訓練を必要とするものだと考えるようになるまでは,われわれはけっして,音楽・文芸に習熟した者となったとはいえないのではないだろうか?」(402B)

これも,印象的な言葉ですが,音楽や文芸にも限らないようにも思えました。「いろいろとくり返し現れるのをあらゆる場合に識別し,それらが内在しているあらゆるもののうちに,その実際の姿をも似姿をもともに認識できる」というのは,ある技術に対する「理」の境地というふうにも感じます。

「それでは」とぼくは言った,「もしもある人が,その魂の内にもろもろの美しい品性をもつとともに,その容姿にも,それらと相応じ調和するような,同一の類型にあずかった美しさを合わせそなえているとしたら,見る目をもった人にとっては,およそこれほど美しく見えるものはないのではないか?」
「ええ,たしかに」
「そして,最も美しいものは,最も恋ごころをそそるものだね?」
「もちろんです」
「とすれば,真に音楽・文芸に通じた人は,できるだけそのような調和をそなえた人たちをこそ,恋することだろう。逆に,この調和がないならば,彼はそのような者を恋しないだろう」
「恋しないでしょうね―少なくとも,その欠陥が魂のほうにあるとするならば」と彼は言った。(402D)

結論として,音楽・文芸は「美しいものへの恋」に終着します(笑)。いや「(笑)」とか付けましたが,プラトンをここまで読んだ者としては,別に普通の印象ではあります。『パイドロス』のメモに,少し美に関してプログラミングや将棋に言及して書きましたが,プラトンの言う「美」というものは,さきほど「ある技術の「理」の境地」と書いたそういうものが現出したものであるというふうに僕は (勝手に) とらえています。

ということで,ここまで音楽や文芸の話でしたが,ここからは「体育」の話で,医術や食べ物といった話題になっていきます。それはメモ(2)に続きます。

プラトン『国家』第二巻メモ(2)

プラトン『国家』((プラトン全集 (岩波) 第11巻) 第二巻を読んだときのメモ第2弾。

メモ第1弾で見たように,ソクラテスが個人としての正義とは何なのかを考えるために,国家としての正義を考えてみようということになりました。それで,そもそもどういう起源で国家というものが作られてくるのか,というところから考察が始まります。実際どうなのかは別にして,非常に遠大な構想です。
そして,ある時点で戦争がどうして起こるのか?という話になり,そして国を守護する者はどういった素質を持っていなくてはならないか,ということに話題が移ります。
正直なところ後半はあまり面白くありませんでした。というのは神話についての話題が続くからです。他の対話篇でもそうですが,科学の時代である現代からすると (あるいは日本人だから?) 神話に関する話は,信じる根拠が薄いです。とはいえ,当時の時代背景とか,なぜそういった神話が作られたのかということを併せ考えるのはそれなりに意義があるとは思います。そもそもソクラテスも「神話は詩人が作った」とここで言っていて,子供に教え聞かせるという観点では否定的だと思います。

では以下は読書時のメモです。

「それでは」とぼくははじめた,「ぼくの考えでは,そもそも国家というものがなぜ生じてくるかといえば,それは,われわれがひとりひとりでは自給自足できず,多くのものに不足しているからなのだ。―それとも君は,国家がつくられてくる起源として,何かほかの原理を考えるかね?」
「いいえ,何も」と彼は言った。
「したがって,そのことゆえに,ある人はある必要のために他の人を迎え,また別の必要のためには別の人を迎えるというようにして,われわれは多くのものに不足しているから,多くの人々を仲間や助力者として一つの居住地に集めることになる。このような共同居住に,われわれは<国家>という名前をつけるわけなのだ。そうだね?」(369B)

ということで,本当にゼロベースで国家を構想していくところから始まります。国家とは,ひとりひとりでは自給自足できないので,色んな役割の人が集まって共同で居住するものであると (いい加減な要約ですが)。
「シムシティ」をやるときにも,こういう根本的なことを考えて街を作っていけば,ちゃんとした街が作れたのかもしれません(笑)。少なくとも自己満足度は上がったかもしれません。
ここでの考え方に基づく限り,国家は市民のためにあるもので,市民が国家のために存在するということにはなりようがありません。
あと,国家を会社などに置き換えても同じ,かもしれません。

「こうして,以上のことから考えると,それぞれの仕事は,一人の人間が自然本来の素質に合った一つのことを,正しい時機に,他のさまざまのことから解放されて行なう場合にこそ,より多く,より立派に,より容易になされるということになる。」(370C)

前後の対話でもあるのですが,一人ひとりの自然本来の素質に合ったことを行なうほうが,一人ひとりが全てのことを少しずつ行なうよりもよい,ということが言われます。「自然本来の」ということが枕詞的に多用されますが,第一巻の後半でトラシュマコスの言う強者の論理や,第二巻の前半でグラウコン達が言う「正義がよいとされるのは法律や思わくの上でのこと」という論理を注意深く踏襲した形で言っているのだと思います。言い換えると法律や慣習を持ち出さないで国家というものを考えていくということだと思います。

「わかったよ,どうやらわれわれは,ただ国家がどのようにして生じてくるかということをしらべるだけではなく,贅沢な国家のこともしらべることになるようだね。まあ,それもまた悪くはないだろう。そういう国家のことをもしらべて行けば,きっと,<正義>と<不正>がどのようにして国々のなかに生まれるかを,見てとることができるだろうからね。とにかく,真実の国家のほうは,われわれがこれまで述べてきたのがそうであるように思われる。いわばこれは,健康な国家とでもいうべきだろう。これに対して,君たちのお望みとあれば,こんどは,熱でふくれあがった国家も観察することにしよう。そうしても,いっこうに差支えないのだ。」(372E)

「真実の (または健康な) 国家」と「贅沢な国家」というのが出てきました。後者は具体的には,「ちゃんと寝椅子の上に横になり,食卓について食事をし,そして現在人々が食べているような料理やデザートを食べ」(372D)る,とグラウコンが言うような国家です。
ソクラテスも言っていますが,ここが1つの分かれ目なのかもしれません。現実は「贅沢な国家」の要素がない国家は考えにくいですが,思想としては「真実の国家」のみを目指す,というものがありえそうです。そして確かにそれなら正義や不正が生じる余地がないかもしれません。不正を遠ざけ正義を求めるのではなく,その絶対値自体を小さくするという発想…。しかしグラウコンも言うのですが,それは「豚の国家」と,つまり人間以外の動物の生活と何が違うのか,とも思います。
ということで,正義と不正について関係あるだろうということで,この後は「贅沢な国家」について考えられることになります。

「また領土にしても,先にはそのときの住民たちを養うのに十分であったのが,いまではとても充分ではなくなって,小さすぎるものとなるだろう。それとも,どう言ったものだろうか?」
「いえ,おっしゃるとおりです」と彼は言った。
「そうするとわれわれは,牧畜や農耕に充分なだけの土地を確保しようとするならば,隣国の人々の土地の一部を切り取って自分のものとしなければならない。そして隣国の人々のほうでもまた,われわれの土地の一部を切り取ろうとするだろう―もし彼らもやはり,どうしても必要なだけの限度をこえて,財貨を無際限に獲得することに夢中になるとするならばね」(373D)

ということで,「贅沢な国家」を作るには自国では土地や資源が足りないので,他国のものを切り取ることになる,と。そして「戦争の起源となるものを発見した」(373E) というようなことが言われます。

「そうすると」とぼくは言った,「国の守護者の果すべき仕事は何よりも重要であるだけに,それだけまた,他のさまざまの仕事から最も完全に解放されていなければならないだろうし,また最大限の技術と配慮を必要とするだろう」…
「そうするとどうやら,もしできるものなら,どれどれの自然的素質,どのような自然的素質が国を守護するのに適しているかを選び出すということが,われわれの仕事となるようだね」(374D)

靴を作る仕事を立派にやってもらうためには,靴作りの専門家にその仕事だけに専念してもらうというのと同じで(374B),戦争をするにも戦争の武器を作るにも,素質がある人にその仕事を専門にやってもらう必要がある,と。
他の対話篇でもあったと思いますが,プラトンは割と,2つの技術両方のエキスパートである,というようなことは否定しているように思われます。デジタル的な発想という気もします。シングル CPU で1時間にタスクが1つの場合とタスクが2つの場合(優先度が同じとする)では前者のほうが1つのタスクについては2倍処理が進む,という発想では専門は1つに絞ったほうがいいというのは当然です。実際には,リニアではない場合を考えれば,5割の時間で7割の技術を習得でき,残りの5割の時間で別の技術の7割を習得できれば2つ合わせた場合の効用は上という考え方もありえるわけですが,そんな7割の技術が何の役に立つのかと。これは,第一巻から続く「厳密の意味」での技術という考え方にもつながると思います。
…これはここではどうでもいい話でした。ではどういう自然的素質が適するのか,という考察が始まります。

「君は犬たちのなかに見てとることができるだろう。まったくこのことは,この動物の感嘆に値する点なのだが。」
「どのようなことでしょうか?」
「知らない人を見ると,それまでに何ひとつひどい目にあわされたことがなくても,その人に対して怒りたけるけれども,知っている人を見たときには,たとえその人からよくしてもらったことが一度もなくても,歓び迎えるという点だ。―君はまだ,このことに感嘆したことはないかね?」(376A)

「しかるに,犬が自然本来にもっているこの性質たるや,まことに気のきいたものであって,まさに文字どおり,愛知者的な性質であるように思える」(376A)

敵に対しては勇猛で,見方に対しては温和という相反する性質を同時に持つことはできないのではないか,と初めは言われますが,実際このように犬に見られる性質から,それは愛知者の性質として認められます。
当たり前ですが,当時も今も犬というのは同じなんだなと思います。

「こうしてわれわれにとって,国家のすぐれて立派な守護者となるべき者は,その自然本来の素質において,知を愛し,気概があり,敏速で,強い人間であるべきだということになる」
「まったくおっしゃるとおりです」と彼は答えた。
「ではその人は,もともとそのように生まれついているものとしよう。しかしそれでは,彼ら守護者たちは,どのような仕方で養育され,教育されるべきだろうか?―それにまた,いったいこのことの考察は,われわれがいまやっているすべての考察の目的である,<正義>と<不正>とがどのような仕方で国家のなかに生じてくるかをしかと見きわめるのに何か役に立つだろうか?」(376C)

ということで,このあたりから,守護者はどう教育されるべきか?というテーマに移っていきます。

「それならわれわれとして,次のことをそう簡単に見のがしてよいものだろうか―行き当りばったりの者どもがこしらえ上げた行き当りばったりの物語を子供たちが聞いて,成人したならば必ずもってもらいたいとわれわれが思うような考えとは,多くの場合正反対の考えを彼らがその魂のなかに取り入れるのを?」
「いいえ,何としても見のがすべきではありません」
「そうすると,どうやらわれわれは,まず第一に,物語の作り手たちを監督しなければならないようだ。そして,彼らがよい物語を作ったならそれを受け入れ,そうでない物語は拒(しりぞ)けなければならない。」(377B)

冒頭にも書きましたが,神話に関するソクラテスの話が続き退屈な展開になります。大雑把にまとめると,詩人が作った神々に関する作り話を批判し,それを子供には語るべきではない,とソクラテスは言います…それらは割と,神々の中での兄弟や親族を欺くとか殺害するとかいう内容が多いためです。
現代では基本的には,「表現の自由」等の考え方の方が優勢で,国家として,ここでのソクラテスのように子供たちのためによくないという理由で見せないようにする,というのは受け入れられないような気もします。「はだしのゲン」を学校で読ませてよいかどうか,という問題もありました。
この手の話は「言論統制」とか悪く言おうと思えばいくらでも悪く言えるし,最悪,北朝鮮の報道のようにもなりかねないとは思います。しかしソクラテスが憂慮する限りの意味では,本来必要なことなんだろうなとも思います。
それはともかく,この一連の流れで,神々について第一に,「神はあらゆる事柄の原因なのではなく,ただ善いことの原因である」(380C),第二に「神々はみずから変身して姿を変えるような魔法使いでもないし,言葉や行為における偽りによってわれわれを迷わすこともない」(383A),ということが結論として言われ,どう教育すべきかという問題については,第三巻に続きます。

ということで,第二巻のメモは終了。最後のほうはちょっと退屈な展開でした。次は第三巻の予定。

プラトン『国家』第二巻メモ(1)

プラトン『国家』((プラトン全集 (岩波) 第11巻) 第二巻を読んだときのメモ第1弾。

第一巻でトラシュマコスとの対話が終わり,一応正義が不正に勝るという結論にはなったと思いますが,グラウコンがそれでは納得できないということで引き続き正義について話題にしていきます。途中でアデイマントスも加わってきます。なおグラウコンとアデイマントスは兄弟で,プラトンの兄です。
トラシュマコスとは異なり,自分たちはそう考えているわけではないが世間ではこう考えられている,と代理を立てる形で不正を讃える側に立ちます。しかしこのほうが不気味というか,(ソクラテスも途中で述べていますが) 本当はグラウコンたちも内心ではその通りだと思っているのかもしれません。ともかく,長い演説のようなグラウコンとアデイマントスの言葉がずっと続きます。
実際,かなり手ごわく,ソクラテスも答えに窮します。そこで,人間ではなく国家としての正義を考察し,それで明らかになった正義を元に人間としての正義を考えようということになります。
国家としての正義を考えていくところからは,メモ (2) に書きます。

では読書時のメモです。

「そこで,ご異存がなければ,こうしましょう。つまり,トラシュマコスの説を私がもう一度復活させて,次の諸点を私の口から語ることにするのです。
まず第一に,<正義>とは,どのようなもので,どのような起源をもつものと一般に言われているか,ということ。
第二に,正しいことをする人々はみな,それを<善いこと>ではなく<やむをえないこと>と見なして,しぶしぶそうしているのだということ。
第三に,人々のそういう態度は,当然であるということ。―なぜなら,不正な人の生のほうが正しい人の生よりはるかにましであるからと,こう一般には言われているからです。」(358C)

「そういうわけですから,私は精いっぱいの努力をつくして,不正な生を讃えて語ってみましょう。そしてそれを語ることによって,こんどはあなたから,どういう仕方で<不正>をとがめ<正義>を讃えるのを聞かせていただきたいと私が望んでいるかを,あなたに示すことにしましょう。」(358D)

ここでのソクラテスの対話の相手である,トラシュマコスとの対話で完全には納得しなかったグラウコンによって,3つの命題が提示され,それらについて,不正側に仮に加勢してそれをソクラテスに論破してもらうことによって,正義の善さを引き出そうとします。

「では,私がさっき約束した最初の論題について聞いてください。それは,<正義>とは何であり,どのような起源をもつものなのか,という問題です。
人々はこう主張するのです。―自然本来のあり方からいえば,人に不正を加えることは善 (利),自分が不正を受けることは悪 (害) であるが,ただどちらかといえば,自分が不正を受けることによってこうむる悪 (害) のほうが,人に不正を加えることによって得る善 (利) よりも大きい。そこで,人間たちがお互いに不正を加えたり受けたりし合って,その両方を経験してみると,一方を避け他方を得るだけの力のない連中は,不正を加えることも受けることもないように互いに契約を結んでおくのが,得策であると考えるようになる。このことからして,人々は法律を制定し,お互いの間の契約を結ぶということを始めた。そして法の命ずる事柄を『合法的』であり『正しいこと』であると呼ぶようになった。
これはすなわち,<正義>なるものの起源であり,その本性である。つまり<正義>とは,不正をはたらきながら罰を受けないという最善のことと,不正な仕打ちをうけながら仕返しをする能力がないという最悪なこととの,中間的な妥協なのである。これら両者の中間にある<正しいこと>が歓迎されるのは,けっして積極的な善としてではなく,不正をはたらくだけの力がないから尊重されるというだけのことである。」(358E)

「不正を加えることも受けることもないように互いに契約を結んでおくのが,得策であると考えるようになる」…解説によると,ここの正義の起源についての説明は,「社会契約説」的な説明ということです。人に不正を与えることが善,というのは「ん?」という感じですが,食料を得るために動物を殺したりすることと同じということでしょうか。
そこから導かれた,「<正義>とは,不正をはたらきながら罰を受けないという最善のことと,不正な仕打ちをうけながら仕返しをする能力がないという最悪なこととの,中間的な妥協」…なるほどと思わされる説です。
『ゴルギアス』でカリクレスが主張していたことと通じていると思いました。つまり法律は弱者のためのものであり,強い者を押さえつけるためのものである,と。
何にしても,「不正」というものが,水が上から下に流れるのと同じように,人として自然であり,問題がなければそのままにしておくべきで,水路を作って流れを導いて分かち合うようなことは妥協,というような感じでしょうか。

「つぎに,正義を守っている人々は,自分が不正をはたらくだけの能力がないために,しぶしぶそうしているのだという点ですが,このことは,次のような思考実験をしてみればいちばんよくわかるでしょう。つまり,正しい人と不正な人のそれぞれに,何でも望むがままのことができる自由を与えてやるわけです。そのうえで二人のあとをつけて行って,両者それぞれが欲望によってどこへ導かれるかを観察すればよい。そうすれば,正しい人が欲心 (分をおかすこと) に駆られて,不正な人とまったく同じところへ赴いて行く現場を,われわれははっきり見ることができるでしょう。すべて自然状態にあるものは,この欲心をこそ善きものとして追求するのが本来のあり方なのであって,ただそれが,法の力でむりやりに平等の尊重へと,わきへ逸らされているにすぎないのです。」(359B)

これも,不正というものが自然であると考えれば全くその通りなのだと思います。
個人的な実感としては,半分くらいその通りだなと思います。特に最近のネット社会を考えてみると,よい例になるのかなと思います。未だに規制・法律が追いついておらず割と何でもアリに近い状態とも言えるし,あるいは原理的にそうというか,合法的であっても例えば口では言えないような言葉で他人を非難して傷つけたり (傷つけなくとも信じられないくらい品のないことを書いたり),ある思惑による株価の上下を利用して瞬間的に利益を得るといったことはあると思います。それが「不正」だとして,現実世界では「正しい」人がネットでは「不正」である,という例はいくらでも挙げられるでしょう。現実ではタガにはめられているが,規範のないネット上ではそれが解放されるのかもしれません。
さらに卑近な例でいえば,ゲームで裏技を使うことを許容するかどうか,ということも近いかもしれません(笑)。僕は使う派で,よく FF でアイテムを無限に増殖する技を使ってました…。
他方で,そういう状況にあっても,自分の欲望の赴くままに何でも行うという人ばかりとも思えません。が,それについてもグラウコンは後で手厳しく吟味してきます。

「これすなわち,すべての人間は,<不正>のほうが個人的には<正義>よりもずっと得になると考えているからにほかならないが,この考えは正しいのだと,この説の提唱者は主張するわけです。事実,もし誰かが先のような何でもしたい放題の自由を掌中に収めていながら,何ひとつ悪事をなす気にならず,他人のものに手をつけることもしないとしたら,そこに気づいている人たちから彼は,世にもあわれなやつ,大ばか者と思われることでしょう。ただそういう人たちは,お互いの面前では彼のことを賞讃するでしょうが,それは,自分が不正をはたらかれるのがこわさに,お互いを欺き合っているだけなのです。」(360D)

「面前では正しい人を賞賛するが,それは不正をはたらかれるのが怖いので互いに欺き合っているだけ」というのはなかなかグサリと来る言葉です。学校や会社で「あの人は真面目だ」と言う場合にも,同じようなニュアンスが潜んでいるのではないか?と思ってしまいそうになります。
ただ,ソクラテスじゃないですが,そういう考え方にならないためのものが人としての真の「学び」ではないかと個人的には思います(キリッ)。まあでも残念ながらここのグラウコンの言葉は現実を表しているとは思います。

「さていよいよ,問題の二人の人間の生についての判定ですが,これを正しく行なうためには,われわれは一方に最も正しい人間を置き,他方にこれまた最も不正な人間を置いて比較しなければなりません。そうしないと,正しい判定は不可能です。」(360E)

「こうして,完全に不正な人間には完全な不正を与えて,何ひとつ引き去ってはなりません。彼は最大の悪事をはたらきながら,正義にかけては最大の評判を,自分のために確保できる人であると考えなければなりません。そして万が一しくじるようなことがあっても,その取り返しをつける能力をもっていると考えなければなりません。すなわち,自分がおかした不正の何かがあばかれた場合には,人を説得しおおせるだけの弁論の能力をもち,力ずくで押さえなければならぬ場合には,自分の勇気とたくましさにより,また味方と金を用意することにより,相手を押えつけるだけの実力をもっている者と考えなければなりません。」(361A)

ということで,最も不正な人間と最も正しい人間を仮に想定するわけですが,かなり worst of worst な不正な人間ですね。本当は不正だが,他の人からは,その人は正しい人に見えると。また正しく見せる能力を持つと。確かに評判とか,その結果として得られる報酬を考えると,またそれを使い放題に使えるとすると,最強かもしれません。

「さて,不正な人間をこのように想定したうえで,その横にこんどは正しい人間を―単純で,気だかくて,アイスキュロスの言い方を借りれば『善き人と思われるることではなく,善き人であることを望む』ような人間を―議論のなかで並べて置いてみましょう。正しい人間からは,この<思われる>を取り去らなければなりません。なぜなら,もしも正しい人間だと思われようものなら,その評判のためにさまざまの名誉や褒美が彼に与えられることになるでしょう。そうすると,彼が正しい人であるのは<正義>そのもののためなのか,それともそういった褒美や名誉のためなのか,はっきりしなくなるからです。こうして一切のものを剥ぎとって裸にし,ただ<正義>だけを残してやって,先に想定した人間と正反対の状態に置かねばなりません。すなわち,何ひとつ不正をはたらかないのに,不正であるという最大の評判を受けさせるのです。そうすれば彼は,悪評や,悪評のもたらすさまざまの結果のためにへなへなにならないということによって,その<正義>のほどが完全に吟味されることになるでしょう。」(361B)

こちらも worst of worst な (本来は best と言うべきでしょうが,worst と言いたくなります…) 正しい人です。本当は正しい人なのに,周りからは不正な人と映るとは。今までの話の流れからすると,どうしようもない人ということになります。
ただ,この辺でも,自分が直観的に考える「正しい」と「不正」というものが,完全に逆転しているようだ,ということを忘れずに念頭に置いておきたいです。

「というのは,グラウコンが意図していると思われる点をもっとはっきりさせるためには,われわれとしては,彼が語ったのと反対の立場の議論,つまり,<正義>のほうを讃え,<不正>をとがめる議論も,並べなければならないからです。
思うに,父親は息子たちに向かって,また,一般に誰かの身の上を気づかう人々はすべてその当人に向かって,正しい人でなければならないと説き進めるものですが,これは<正義>というものをそれ自体として讃えているのではなくて,<正義>がもたらすよい評判を讃えているのです。つまり,彼らのそういう勧告の真意は,正しい人であると思われることによって,その評判から,役職,結婚その他,グラウコンがいま数え上げたようなすべての善いものが手に入るようにしなさい,それらが正しい人に与えられるのは,要するによい評判のおかげなのだからと,こういうわけなのです。」(362E)

アデイマントスが割り込んできて話します。確かにこれまでのグラウコンの言葉とは違い,正義の利点を述べている…ようではありますが,これはあくまで正しいと「思われる」ことによる利点にすぎません。

「すべての人々が異口同音にくり返し語るのは,節制や正義はたしかに美しい,しかしそれは困難で骨の折れるものだ,これに対して放埓や不正は快いものであり,たやすく自分のものとなる,それが醜いとされるのは世間の思わくと法律・習慣のうえのことにすぎないのだ,ということです。彼らはまた,不正な事柄のほうが多くの場合正しい事柄よりも得になると言い,邪な人間であっても金その他の力をもっていれば,そういう人間のことを,公の場でも個人的な立場でも,何はばかるところなく,祝福し尊敬しようとします。他方,正しくても無力で貧乏な人間に対しては,前者とくらべてより善人であることは認めながらも,これを見下し,軽蔑しようとするものです。」(364A)

今度は逆に,不正が醜いとされているのも,思わくと法律習慣によるものだと言います。そして不正の方が得だと言います。
「邪な人間であっても金その他の力をもっていれば…何はばかるところなく,祝福し尊敬しようとする」「正しくても無力で貧乏な人間に対しては,…善人であることは認めながらも,これを見下し,軽蔑する」…確かにそういう「権力になびく」人はいるし,それが否定はできません。

「しかしそういうあなた方すべてのうちで,かつて誰一人として,<不正>をとがめ<正義>を讃えるにあたって,評判のことや,名誉のことや,それらから結果する報いのことを云々する以外の仕方によった者はいなかった。<正義>と<不正>のそれぞれが,それぞれを所有している者の魂の内にあって,神々にも人間にも気づかれないときに,それ自体としてそれ自身の力で,どのようなはたらきをなすかということは,詩においても教えにおいても,かつて一度もくわしく語られたことはなかった。」(366E)

「<正義>を讃えるにあたっても,まさにこの肝心の点を讃えてください。<正義>はそれ自体として,それ自身の力だけで,その所有者にどのような利益を与えるのか,逆に<不正>はどのような損害を与えるのかを,示してください。報酬や評判を讃えることのほうは,ほかの人々におまかせになればよろしい。」(367D)

ということで当然ここに来ます。他人の思わくを相手にするのではなく,正義それ自体としてどういう利益があるのか?何となくイデア論の香りがしますね。
ところで,東洋の古典では,例えば「天網恢恢疎にして漏らさず」とか「李下に冠を正さず」とか,人が見ていないところでも正しくしていないとダメだという観念,あるいは「秘すれば花」のように寧ろ見せないのが美徳という観念,があるように思います。それは現代にも生きている気もします。そして,それが何故かというところまではあまり触れられていないように思います。
勿論私のようなアマチュアが知らないことも沢山あると思いますが,いい意味で「天下り的」なのかな,とよく思います。正直ソクラテスの対話にさらされなくてよかったと思います(笑)。もっともソクラテス自身は,違うと思いますが。つまり,暗黙的に,思わくではなくソクラテス的な「善さ」を東洋では認めているような気もします。

「まずぼくは,どうやって<正義>を助けたらよいのかわからない。どうもぼくには,それだけの力がないように思えるのでね。…
かといってまた,<正義>を助けずにいるということも,ぼくにはできないことだ。なぜなら,<正義>が悪しざまに罵られているところに居合わせながら,自分がまだこうして息をして口もきけるというのに,見捨てて助けないというのは,不敬虔なことでもあるのではないかと怖れるのでね。」(368B)

グラウコンとアデイマントスが示した議論は,今でもそうですが当時も確かに現実をよくとらえていたのだと分かります。ソクラテスも困っています。
しかしソクラテスにとっては,分からない,ということは普通というか当然のことでもあるのだと思います。喜びでさえあるのかもしれません。対カリクレス,対トラシュマコスの時も,最初はどうなることかと思いましたが,結局いつの間にかソクラテスの土俵に乗っていました。今回はそのとき以上に厳しそうな戦いですが,だからこそ面白い対話がなされるのではと期待できます。

「<正義>には,われわれの主張では,一個人の正義もあるが,国家全体の正義というものもあるだろうね?」
「ええ,たしかに」と彼は言った。
「ところで,国家は一個人より大きいのではないかね?」
「大きいです」と彼。
「するとたぶん,より大きなもののなかにある<正義>のほうが,いっそう大きくて学びやすいということになろう。だから,もしよければ,まずはじめに,国家においては<正義>はどのようなものであるかを,探求することにしよう。そしてその後でひとりひとりの人間においても,同じことをしらべることにしよう。」(368E)

ということで,大きいもののほうが調べやすいという論理で,人ではなくまず国家の正義を検討するということになりました。かなり遠大な構想です。

この後第二巻は,実際に何もないところから国家というものを作っていき,そこの正義・不正というものを考える,という展開になりますが,続きはメモ(2)に。それにしても毎回長くなります(笑)。