プラトン『パイドロス』メモ

プラトン『パイドロス』((プラトン全集 (岩波) 第5巻) を読んだときのメモ。
この対話篇は,まずパイドロスが,リュシアスの恋に関する話というか論説を賞賛し,これについてソクラテスが吟味します。リュシアスの話とは簡単にいえば「恋はしないほうがよい」というもので,恋をしていると邪念やら欲望やらが入り込むので有害だが,恋をしていなければそういった後天的なものに煩わされることなく,純粋でいられるといったようなものでした (全く適当な要約です (笑))。
それに対し,ソクラテスは最初はその大筋には賛成していたのですが,途中で突然,ダイモーンの啓示?のようなものが来たといって,恋は神聖なものだというほうに寝返ります (寝返るという表現は適切ではありませんが,まあ心情としてはそうです (笑))。
そして魂についての論説が加えられた上で,いつの間にか「弁論術の技術とは何か」という最初の方の甘っちょろい話からは想像もできないような,非常にプラトンらしい話に変わっていきました。この変わり方もプラトンらしいと思います。

得てしてプラトンの本というのは,話題がしばしば飛ぶわけですが,主題ではなさそうな部分に結構印象に残る言葉があったりします。自分が読んでいて面白いと思うのも,話そのものよりもそういう部分が多い気がします。この対話篇も,副題は「美について」で,内容も上述のように,恋の話から弁論術の話になっていきました。
しかし今回は,底につながる共通部分というようなものが,自分にも感じられたような気がします。それは,後にも触れると思いますが,「弁論術を技術とするなら結局真実を追い求めなければならない」という結論になるのですが,真実を求める心というのは非常に先天的なものであり,それは恋をする心と同じだ,ということを言っているのではないかと思ったわけです。
まあ1回さらっと読んだだけで核心が分かるはずもありませんが,プラトンの言っていることは,真実を求める心というものが軸になっている,というのは間違いなく,他の表現はそれを別の角度から見たものである,というように思います。そう思うに至ったので,恋だの美だのと書かれても,私としては弁論とか節制とかと同じで,『饗宴』の時のような?キワモノ感はなくなりました(笑)。

それにしても,この対話篇で言われている,「弁論家 (政治家,ソフィスト) は真実らしさを真実そのものよりも尊重した」というのは現代でも本質的な問題ではないかと思います。ソフィスト批判はプラトン対話篇にしばしば出てきますが,特に今 (2012年12月11日) は衆議院議員選挙の前で,基本的に候補者は聞き心地のよいことしか言わないので,特にそう思います。

以下では従来のように,読んでいてメモを取った部分の転記とコメントです。

「いとしき子よ,ひとがどんなことを論議するにしても,そこからよき成果をあげようとするなら,はじめにしておかなければならないことが一つある。それは,論議にとりあげている当の事柄の本質が何であるかを,知っておかなければいけないということだ。それをしないと,完全に失敗することになるのは必定である。ところが,大多数の人々は,それぞれの場合に問題にしている事柄の本質を,自分たちが知っていないという事実に,ぜんぜん気づかないでいる。それゆえ彼らは,考察をはじめるときに,それを知っているものと決めこんで,お互いにちゃんと同意を得ておかないものだから,さて先へ進んでから,その当然のむくいを受けることになる。すなわち,彼らは,自分自身とも,またお互いに相手の者とも,言うことが一致しないのである。」(237B のソクラテス)

これは非常に実感を伴います。打ち合わせや会議などでも,話がかみ合わないというのはしばしばあると思いますが,それはどちらかが本質を掴んでいないか,あるいは互いに別のものを本質として掴んでいる (掴んだつもりになっている),ということだと言えると思います。

「ここでひるがえって,次のことに注意する必要がある。それは,われわれひとりひとりの中には,何かわれわれを支配しみちびく二つの種類のちからがあって,われわれはこの二つのものがみちびくままに,そのほうに向かってついて行くものだ,ということである。その一つは,生まれながらに具わっている快楽への欲望,もう一つは,最善のものを目ざす後天的な分別の心である。われわれの心の中では,この二つが,互いに相和すときもあるが,互いに相争うこともある。そして,あるときには一方が,あるときには他方が勝利を得る。で,その場合,分別の心がわれわれを理性の声によって最善のもののほうへとみちびいて,勝利を得るときには,この勝利に<節制>という名があたえられ,これに対して,欲望がわれわれを盲目的に快楽のほうへと惹きよせて,われわれの中において支配権をにぎるときは,この支配に<放縦>という名があたえられている。」(237D のソクラテス)

ここではまだソクラテスに「ダイモーンの啓示」が来ていない部分なので,後天的な分別の心のほうが善いもののように書かれていて,まさに『荀子』の「性悪説」と通じるものがあります。

「この話全体が言おうとする結論はこうだ。―この狂気こそは,すべての神がかりの状態のなかで,みずから狂うものにとっても,この狂気にともにあずかる者にとっても,もっとも善きものであり,またもっとも善きものから由来するものである,そして,美しき人たちを恋い慕う者がこの狂気にあずかるとき,その人は『恋する人』と呼ばれるのだ,と。」(249E のソクラテス)

これは「ダイモーンの啓示」後で,以後は先ほどと対比すれば「性善説」的,といえるのかもしれません。たまに「狂気の世界に入る」という,ある道を極めすぎて元の世界に戻れなくなるような境地の言い方がありますが,ここのはそれと同じようなプラスの意味でしょうか。

「たしかに,<正義>といい,<節制>といい,またそのほか,魂にとって貴重なものは数々あるけれども,この地上にあるこれらのものの似像の中には,なんらの光彩もない。ただ,ぼんやりとした器官により,かろうじて,それもほんの少数の人たちが,それらのものを示す似像にまで到達し,この似像がそこからかたどられた原像となるものを観得するにすぎないのである。けれども,<美>は,あのとき,それを見たわれわれの眼に燦然とかがやいていた。」(250B のソクラテス)
「われわれがこの世界にやって来てからも,われわれは,美を,われわれの持っている最も鮮明な知覚を通じて,最も鮮明にかがやいている姿のままに,とらえることになった。というのは,われわれにとって視覚こそは,肉体を介してうけとる知覚のなかで,いちばんするどいものであるから。<思慮>は,この知覚によって目にはとらえられない。もしも<思慮>が,何か<美>の場合と同じような,視覚にうったえる自己自身の鮮明な映像をわれわれに提供したとしたら,おそろしいほどの恋ごころをかり立てたことであろう。そのほか,魂の愛をよぶべきさまざまの徳性についても,同様である。しかしながら,実際には,<美>のみが,ただひとり<美>のみが,最もあきらかにその姿を顕わし,最もつよく恋ごころをひくという,このさだめを分けあたえられたのである。」(250D のソクラテス)

なるほど「美」とは唯一目に見えるイデアであると。そう考えると,プラトンが「美」について取り上げるのは何の違和感もありません。また,例えばプログラミングについて,以前先輩が「美しさが重要」と言っていたのが印象に残っていますし,また将棋でも,確かだいぶ前に羽生さんが「手の選択に困ったら,形の美しいほうを選ぶ」という言葉を言っていたと思いますが,まさにここで言われていることではないかと思います。つまり,何か率直に表現できないが善いものがあって,その善いものが視覚でかろうじて捉えられる形になったものが「美」である,とでもいえるでしょうか。プログラムにしても将棋にしても,勿論見た目の美しさなど本質には何の影響もないのですが,逆にその本質が視覚に捉えられるならそれは「美」という言葉でしか表せない,と。この辺り,元の言語と翻訳との違いもありそうな部分ですが,美という言葉はうまくできてるなと思います。

「では,いやしくもものごとが,上手に立派に語られるためには,それを語る人の精神は,自分が話そうとしている事柄に関する真実を,よく知っていなければならないのではなかろうか?」(ソクラテス)
「その点については,親愛なるソクラテス,私は次のように聞いています。つまり,将来弁論家となるべき者が学ばなければならないものは,ほんとうの意味での正しい事柄でなく,群集に―彼らこそ,裁き手となるべき人々なのですが―その群集の心に正しいと思われる可能性のある事柄なのだ。さらには,ほんとうに善いことや,ほんとうに美しいことではなく,ただそう思われるであろうような事柄を学ばねばならぬ。なぜならば,説得するということは,この,人々になるほどと思われるような事柄を用いてこそ,できることなのであって,真実が説得を可能にするわけではないのだから,とこういうのです。」(パイドロス,以上 259E)

残念ながら現代でも確かにその通りという感じがします。

「それならば,弁論家が,何が善であり悪であるかを知らないでいながら,同じように善悪をわきまえぬ国民をつかまえて,説得しようとする場合を考えてみよう。この場合彼は,「驢馬の影」といった些細な事柄について,馬とかんちがいしながら,賞賛の言葉を作るというのではなく,悪について,それを善と信じながらそうするのである。もしこの弁論家が,群像の思わくというものを研究しつくすことによって,善い事柄のかわりに悪い事柄を行なうように説得するとしたら,君はどう思う?彼の弁論術は,こうして蒔いた種からあとでどのような収穫をおさめるだろうか?」(260C のソクラテス)

悪を善と思い込んで説得を行なう…1つ前の,正しいと「思われる」ことを尊重する人の説得を受けた人は,そうなるでしょうか。

「このぼくはね,パイドロス,話したり考えたりする力を得るために,この分割と総合という方法を,ぼく自身が恋人のように大切にしているばかりでなく,また誰かほかの人が,ものごとをその自然本来の性格に従って,これを一つになる方向へ眺めるとともに,また多に分れるところまで見るだけの能力をもっていると思ったならば,ぼくは,このことを実行できる人たちのことを,正しい呼び方かどうかは神のみが知りたもうところとして,とにかくこれまでのところ,哲学的問答法 (ディアレクティケー) を身につけた者と読んでいるのだ。」(266B のソクラテス)

分割と総合,というのはソフトウェアアルゴリズムの「分割統治」を思い浮かべます。通じるものもあるような気はします。つまり,正しいのか正しくないのかよく分からない漠然としたものは,検証可能な大きさまで分割して,そこでソクラテス的な対話によって真理を明らかにする,それを今度は逆にその真理が適用できる範囲まで一般化していく…これはクイックソートの説明と殆ど同じです。

「彼ら (メモ註:テイシアスとゴルギアス) は,真実らしきものが真実そのものよりも尊重されるべきであることを見ぬいた人たちだが,一方ではまた,言葉の力によって,小さい事柄が大きく,大きな事柄が小さく見えるようにするし,さらには目新しい事柄をむかしふうに,古くさい事柄を目新しく語るし,またあらゆる主題について,言葉を簡単に切ったり,いくらでも長くしたりすることを発明したのだ。」(267A のソクラテス)

これは勿論皮肉な言い方。プラトンはソクラテスに常にソフィストを批判させています。

「およそ技術のなかでも重要であるほどのものは,ものの本性についての,空論にちかいまでの詳細な論議と,現実遊離と言われるくらいの高遠な思索とを,とくに必要とする。そういう技術の特色をなすあの高邁な精神と,あらゆる面において目的をなしとげずにはおかぬ力との源泉は,何かそういったところにあるように思われるからだ。」(270A のソクラテス)

これはいい言葉だなあと思います。勿論,これは先ほどの「分割と総合」を念頭に置いて読まなければいけないと思います。

「どちらの場合においても,取りあつかう対象の本性を―医者の場合には身体の本性を,弁論術の場合には魂の本性を―分析しなければならない。つまり,医術とは,身体に薬と栄養とをあたえて健康と体力をつくる仕事であり,弁論術とは,魂に言論と,法にかなった訓育とをあたえて,相手の中にこちらがのぞむような確信と徳性とを授ける仕事であるが,もし君が,こういった仕事にあたって,たんに熟練や経験だけに頼らずに,一つの技術によって事を行なおうとするならばね。」(270B のソクラテス)

弁論術は魂に対する医術のようなもの,というのは他の対話篇でも見た気がします。『ゴルギアス』か『国家』だったでしょうか。

「それでは,彼らの主張するところはこうだ。(略) まったくのところ,弁論の力をじゅうぶんに身につけようとする者は,何が正しい事柄であり善い事柄であるかということに関して,あるいは,そういう人間が―生まれつきにせよ教育の結果にせよ―正しくまた善い人間であるかということに関して,その真実にあずかる必要は,少しもないのだから。じじつ,裁判の法廷において,こういった事柄の真実を気にかける人なんか,ひとりだっておりはしない。そこでは,人を信じさせる力をもったものこそが,問題なのだ。人を信じさせる力をもったもの,それは,真実らしく見えるもののことであって,それにこそ,技術によって語ろうとするものは専心しなければならぬ。すなわち,よしんば実際に行なわれたことであっても,もしそれが真実とは思えないような仕方で行なわれたとしたならば,それをありのままに述べてはいけない場合さえ,しばしばあるのであって,真実らしくみえるような事柄におきかえなければならないのだ。これは,告発するときでも,弁明するときでもそうである。そして,真実にかかずらうのをきっぱりとやめ,言論を用いるにあたってはあらゆる仕方で,この真実らしく見えるものをこそ,追求すべきである。話すときにいつでも,このことを心がけていれば,それで技術のすべてを獲得できるのだから。」(272D のソクラテス)

裁判うんぬんという部分も現代に通じるかなり本質的なことのように思います。真実を追求するのなら,確固たる証拠がないのに起訴し,法廷でも証拠をでっち上げて冤罪が起こる,ということは起こらないでしょう。真実追求以外の何かが介在し,それを真実らしく見せている,ということだと考えられると思います。なお上記引用は長いので念のため書くと,最初に「彼らの主張」と書いてある通り,プラトン (ソクラテス) の主張としては勿論これの正反対です。

「テウトはこのタモスのところに行って,いろいろの技術を披露し,ほかのエジプト人たちにもこれらの技術を広くつたえなければいけません,と言った。(略) だが,話が文字のことに及んだとき,テウトはこう言った。
『王様,この文字というものを学べば,エジプト人たちの知恵はたかまり,もの覚えはよくなるでしょう。私の発見したのは,記憶と知恵の秘訣なのですから』。―しかし,タモスは答えて言った。
『たぐいなき技術の主テウトよ。技術上の事柄を生み出す力をもった人と,生み出された技術がそれを使う人々にどのような害を与え,どのような益をもたらすかを判別する力をもった人とは,別の者なのだ。いまもあなたは,文字の生みの親として,愛情にほだされ,文字が実際にもっている効能と正反対のことを言われた。なぜなら,人々がこの文字というものを学ぶと,記憶力の訓練がなおざりにされるため,その人たちの魂の中には,忘れっぽい性質が植えつけられるだろうから。それはほかでもない,彼らは,書いたものを信頼して,ものを思い出すのに,自分以外のものに彫りつけられたしるしによって外から思い出すようになり,自分で自分の力によって内から思い出すことをしないようになるからである。じじつ,あなたが発明したのは,記憶の秘訣ではなくて,想起の秘訣なのだ。また他方,あなたがこれを学ぶ人たちに与える知恵というのは,知恵の外見であって,真実の知恵ではない。すなわち,彼らはあなたのおかげで,親しく教えを受けなくても物知りになるため,多くの場合ほんとうは何も知らないでいながら,見かけだけはひじょうな博識家であると思われるようになるだろうし,また知者となる代りに知者であるといううぬぼれだけが発達するため,つき合いにくい人間となるだろう』。」(ソクラテス)
「ソクラテス,あなたは,エジプトの話でも,また気の向くままにどこの国の話でも,らくらくと創作されますね。」(パイドロス,以上 274D)

文字は記憶力を弱くする,ということもありますが,文字によって「自分以外のものに彫りつけられたしるしによって」「見かけだけはひじょうな博識家であると思われるようになる」「また知者となる代りに知者であるといううぬぼれだけが発達する」という側面がある,というのはやはりプラトンならではの鋭い指摘だなと思います。ではテレビはどうだろう?ネットはどうだろう?変わらないのは自分という人間だけ,という意味では同じなのでしょう。
最後のパイドロスの言葉が非常に笑えました。

「つまり,ぼくたちの目的は,まず,話を書くということに関してリュシアスに向けられた非難を吟味すること,そしてそれとともに,言論というものそれ自体を吟味して,どのような言論が技術によって書かれたものであり,どのような言論が非技術的に書かれたものであるかを見ることであった。そこで,この技術性の有無という問題のほうには,すでに適切な解明が与えられたと思われるのだが。」(277A のソクラテス)
「語ったり書いたりするひとつひとつの事柄について,その真実を知ること。あらゆるものを本質それ自体に即して定義しうるようになること。定義によってまとめた上で,こんどは逆に,それ以上分割できないところまで,種類ごとにこれを分割する方法を知ること。さらには魂の本性について同じやり方で洞察して,どういうものがそれぞれの性質に適しているかを見出し,その成果にもとづいて,複雑な性質の魂にはあらゆる調子を含むような複雑な言論をあたえ,単純な魂には単純な言論を適用するというように,話し方を排列し整理すること。―以上挙げただけのことをしないうちは,言論というものを,その技術的な取りあつかいが本来可能な範囲で,技術にかなった仕方で取りあつかうということは,けっしてできないであろう。これは,その目的とするところが教えることであれ,人を説得することであれ,同様である。」(277B のソクラテス)

これが本対話篇のまとめ,といえるでしょうか。「分割と総合」も入っています。さらに次の解説の言葉も含めればもっとまとまる感じです。

「真実そのものの把握なしには,真実らしく思われるように巧みに語るということさえ,本来不可能であること,したがって,一般に弁論術がひとつの技術の名に値するものであろうとするならば,真実そのものの追求をめざす哲学とその方法としてのディアレクティケー (哲学的問答法) に依存しなければならないということであった」 (解説 二)

まあプラトンなら当然というところもありますが,弁論術にも必要なのは哲学的問答法,という結論になっています。

今回は異様に長くなりました。しかしそれだけ,この『パイドロス』は読んでいて「これは」と思った部分が多かったというのが事実です。特に,弁論家とは「真実らしさ」で説得する,というのは,どうも軽い感じがする昨今の演説やプレゼンが上手いような人に対して抱く違和感への答えの1つとして(まあプラトンは本対話篇に限らず常に書いていることですが) ,よくまとまっており,今後も振り返りたいと思いました (ちなみにこの対話篇は文庫化されています)。
次回は『アルキビアデス I』の予定。

プラトン『饗宴』メモ

プラトン『饗宴』((プラトン全集 (岩波) 第5巻) を読んだときのメモ。
この篇は,プラトンの著作では異色の内容で,表題のように宴会 (のようなもの) が舞台です。そこで出席者が,エロースという神をそれぞれ讃える演説を順に行なっていきます。最後にソクラテスが語ったあと,突如,かつてソクラテスの恋人であったアルキビアデスが乱入してきて,ソクラテスに対して怨みだか敬いだかよく分からないようなことを色々告げて,終わります。

ちなみにアルキビアデスを含めて出席者は全員男です (ソクラテスの回想に登場する (虚構の人物という説が有力らしい) ディオティマは女性の神官ですが)。恋というのも男→男のことを言っています。どうも当時はそういう男→男の恋愛というのはアテネでは普通で,ソクラテスだけがそうだった,というわけではないようです。
それが何でなのかは勿論説明不能ですが,『饗宴』を読んで残った印象としては,プラトン的な,真理を追い求める姿勢というのも関係しているように思われました。つまり動物的な恋愛ではなく,逆に純粋に感情の介入を許さずに理性として対象が好きになるということ,を突き詰めると,そうなるのかなあと。

以下では自分が読書中にメモしたことを抜き出しています。話の流れとは殆ど関係ありませんので要注意。

「それならば,ちなみに問おう。この指導原理は何であるか。醜いものに対しては恥じ,美しいものに対しては功名を競う心,これである。…恋をしている者は,自分が何か恥ずべきことをしているとか,あるいは他人からそういう目にあいながら,勇気に欠けるために身を守ることをしないとか,こうしたことが人に知れる場合には,その目撃者が父であれ,自分の仲間であれ,あるいはその他の誰であれ,自分の恋している少年に見られるほどには苦しみ悩むことはないであろう。また,恋される者も,それと同じ状態であることを,ぼくらは日ごろ見ているのである。つまりそのような者は,自分が何か恥ずべきことを人に見られるときには,とりわけ自分を恋している者に対して恥じ入るものである。」(178D のパイドロス)

言っているのは,恥の意識というのは恋から来る,ということでしょうか。そういえばプラトンの本では「孝」というものが出てくることは少ないように思います。孔子であれば、恋>孝、のようなことは決して言わなかっただろうなあと思いました。

「思うに,支配されている民の中に軒昂たる想いの生じることは,強固な友情や交わりと同様,支配者側にとって得になることではなく,しかもほかならぬこうしたものは,とりわけエロースこそがいちばん人々の心に植えつける傾向をもっているからである。…かくして,自分に恋を寄せている者の思いを受け容れることが醜いと決められた所では,そのように定めた人々の不徳によって,つまり支配者の貪婪と被支配者側の懦弱とによってそうなっているのであり,他方それが美しいと無条件に定められた所では,それは当事者たちの精神的怠惰に由ることなのである。」(182B のパウサニアス)

これも結構深い言葉なのかもしれません。規制を緩和するか引き締めるか,ということで一般論としても当てはまりそうですが,ここのようなテーマだと微妙すぎます。

「こういう少年たち (メモ註:元が男男の片割れである男) のみが成人するや,政治の世界に対して一人前の男子としての実を示すのである。しかも男盛りになった暁には,少年を恋して,結婚や子供を作ることには生れつき目もくれないのである。」(192A のアリストパネス)

ここの意味は,作中に出てくる神話が元になっています。すなわち,人間は元々2人で1人だったが (男男,男女,女女というパターンがあった),傲慢であったため神が人間を半分に分割した。しかしその半分になった人間は,元の片割れの自分を探して元に戻ろうとした。―これが恋 (エロース) の元で,なので元々が男男だったような人は男が男に恋すると。
プラトンの本にはこういう神話の内容がよく出てきます。プラトンが創作したものもあるのかは分かりませんが,多くはホメロス等で既に伝承されていたようです。しかも読む限りでは驚くほどよくできているというか,整合性が取れていると感心することが多いです。まあ科学なんてない時代ですからね…現実を説明するために,あるいは人が誤った方向に進まないために,そういう整合性の取れた物語が必要だった,ということでしょうか。
話を戻すと,男に恋するような男こそが,出世できる,ということを仕立て上げている,という感じでしょうか。

『神々にあっては,知を愛することはなく,知者になろうと熱望することもない―なぜなら,現に知者であるから―。また,神以外にも,知者であれば知を愛することはしない。しかし反面,無知蒙昧な者もまた知を愛さず,知者になろうと熱望することもない。つまり,この点こそは,無知の始末の悪いゆえんなのです。自分が立派な人物でもなければ思慮ある者でもないのに,自分の目には申し分のない人間にうつる点がね。ともかく,自分は欠けたところのある人間だと思わない者は,欠けているとも思わないものを自分から欲求するということは決してありません。』
『それなら,ディオティマ』とぼくは言った『いったい誰が知を愛するものなのです。知ある者も無知な者もそうでないとすれば』『そのことなら』と彼女は答えた『もう子供にだってわかり切ったことではありませんか。いま言った両者の中間にある者がそれです。そしてエロースもまた入るのです。さて,そのわけは言うまでもなくこうです。知は最も美しいものの一つであり,しかもエロースは美しいものに対する恋 (エロース) です。したがって,エロースは必然的に知を愛する者であり,知を愛する者であるがゆえに,必然的に,知ある者と無知なる者との中間にある者です。』(204A のソクラテスの回想)

この辺りまできてちょっと安心できました (笑)。いつものプラトンの本のようになってきたので。有名な「無知の知」を思わせる内容ですが,そもそも神は全て知っているので知る必要はない,また全く智恵もない人間も何かを知ろうとはしない,では誰が知を愛するのか?
答えは中庸ということですね。サインカーブのように,上下の頂点では微分係数 0 で,真ん中の時に微分係数が最大になる,という感じでしょうか。

『創作 (ポイエーシス) というのは広い意味の言葉です。言う迄もなく,いかなるものであれ非存在から存在へ移行する場合その移行の原因は全て,創作です。…しかし,それにもかかわらず,…創作全体のうちから一部分,すなわち,音楽と韻律に関する部分だけが別にされ,全体の名前で呼ばれているのです。』
『ところで,恋 (エロース) についてもまたそういった事情です。総じて言うならば,よきものと幸福であることへの欲望はすべて,あの “最も力強く,まったく巧智にたけた恋” というわけです。しかし,金儲けの道,体育愛好の道,愛知の道というふうに,数多くある別の道でそれ [恋] に向う人々は,恋をしているとも恋をしている人とも呼ばれないのです。ところが,恋のうちある一種類の道を進み一所懸命になる人々は,全体の名前を,つまり恋,恋している,恋している人,という名前を持つのです。』(205B のソクラテスの回想)

これもプラトンらしさが出ているというか。つまり物事の真理,または「イデア」を追求するということの中で,たまたま今回のそれは恋と呼ばれているだけだ,ということでしょうか。

『ソクラテス,すべての人は肉体的にも精神的にも妊娠して [生むものを持って] いるのです。』(206C のソクラテスの回想)

これも,「ソクラテスは産婆術を持っている」という,『テアイテトス』等に出てくるものと同じようなことを言っているのではないかと思います。つまりソクラテスの対話というのは,相手に質問をしてその答えを引き出すというスタイルですが,それを相手の孕んでいるものを出す手助けをしている,という見立てです。『テアイテトス』では自分自身は身籠ることはない,というようなことをソクラテスが言っていた気がしますが。

ということで,以上。プラトンの著作としては読みやすく,テーマとしてはちょっとキワモノ的なところもあるのですが,やはりそれでも随所にプラトンらしさが出ていた作でした。
次回は『パイドロス』の予定。

プラトン『ピレボス』メモ

プラトン『ピレボス』((プラトン全集 (岩波) 第4巻) を読んだときのメモ。
この対話篇は,「快楽について」という副題がありますが,「快楽こそは善」と主張するピレボス,プロタルコスに対して,「知性や思慮のほうが善に近い」と主張するソクラテスが真っ向から対立し,どちらがより善に近いかを対話によって明らかにしようとします。

まあ,この対話の解釈については,専門家や,哲学を専攻する学生には重要でしょうが,単にプラトンの著書を文学として楽しむ者としては,極端にいえばどうでもよいことで,私も (これまでの対話篇のメモでもそうでしたが) どう解釈するかという読み方はしていません。本篇では,知性や思慮が快楽より善に近い (実際には一位と二位はもっと別なもので,やっと三位に知性が入ったと思います…図書館に返してしまったので詳細を振り返れません) という結論になりましたが,勿論,逆の結論になってもそれはそれで一つの立場ですし。

ということで,対話篇の流れとは一切関係なく,とりあえず自分が気になって書き写した部分について振り返っておく,といういつもの方法にしておこうと思います。

それは,およそあるとそれぞれの場合に言われているものは一と多からできているのであって,しかも限と無限性を自己自身のうちに本来的な同伴者としてもっているという意味のものだ。したがってわれわれは,これらがこのように宇宙構成されている以上,あらゆるものについていつも一つの相を指定して,それぞれの場合にこれを探し求めなければならない。というのは,そういう一つの相はそれぞれに内在しているのが見出されるだろうから。そしてそれをつかまえたら,一つの相の次は,二つ何らかの仕方でありはしないかとよく見るようにしなければならない。もしなければ,三つなり,あるいはほかの何らかの数字を探すのだ。そしてそういう数を構成している一の各々について,また同じやり方をくりかえし,ついに最初の出発点となった一が,一であり多であり無限であるということを見るだけにとどまらず,それが一定数の多であることを見るところまで行かねばならない。また無限という相を,多量のものがあればすぐに適用するのではなくて,まずその前にその多量のものがもっている,一と無限の中間にある数のすべてをよく見るようにしなければならない。そしてそれができたら,その時はもうそれ全体に含まれている一つ一つを,それぞれ無限へと放してやって,すきにさせていいことになる。かくて神々は,いまぼくが言ったことだが,われわれに授けてくれたのだ,こういう仕方で考察し学習し,また相互に教え合うことを。しかし今の世の賢者たちは,一を―そして多でもいいが―行きあたりばったりのやり方で,あるいは早すぎ,あるいはおそすぎたりしながらつくる。そして一がすむと,すぐに無限にする。かれらの眼にはその中間の数が入らないのである。そしてこれによって逆にまた,われわれがおたがいの間で言論を交す問答法的なやり方と,ただ論争によって勝負を争うだけのやり方とが截然として区別されるのである。」(16C のソクラテス)

今までで一番長い引用かもしれません(汗)。この部分も含め,前半は一とか多についての話題が続き,『パルメニデス』の退屈さを彷彿とさせますが,ただこの部分は印象に残りました。非常に分析的というか,技術者の心得を言っているように思いました。
何か不具合があったとき,例えば本当は4の倍数を入力するとエラーになるのを,12 でエラーになるので「2の倍数での入力が原因」または「6の倍数での入力が原因」と早とちりして騒ぎ立てるようなことがあります。しかし,例えば6を入力して不具合が起きず,10を入力して不具合が起きず,16を入力して不具合が起きれば,4の倍数での入力が原因であることが分かります。このように,予断を持たず,実証したことに基づいてのみ一般化・理論化する,という姿勢を持たねばならない,といわれたような気がしました。

「つまりものの崩壊によって苦痛が生じ,それが再び保全されるときが快楽であるとするならば,崩壊もなければ保全の回復もない動物については,もしそのような状態があるとしたら,動物のそれぞれのうちにいったいどのような状態がなければならないことになるのかを,われわれは心のなかでよく考えてみなければならない。さあ,よく気をつけて答えてくれたまえ。そもそもそのような場合には,いかなる動物も快や苦を多少とも感ずるということはないというのが,まったくの必然ではないのか。」…「思慮の生活を選んだ者には,きみも知っての通り,いま言われたような生き方をすることは,何のさわりにもならないのである。」…「そしてそれがあらゆる生活のうちで一番神に近い生活であるとしても,多分なにも奇妙なことはないはずだ。」(32E のソクラテス)

これはプラトンの本音…なのでしょうか?これは対話の本流ではないと思うのですが,ピレボス・プロタルコスとの対話はおいといて,本心としてはこういうストイックな―ストア派はプラトンより後なので正しい表現ではないかもしれませんが―人間であれ,と言っているような気もします。

「したがって,欲求されているものへとみちびくものが記憶であることを明らかにすることによって,以上の論は,すべての動物について,その衝動と欲求のすべてが,またしたがって生のもとになるものが,たましいの領域に属することを宣明したのだ。」(35D のソクラテス)

「では,以上のことからして,われわれには三つの生き方があるとしよう。一つは快適の生活,もう一つは苦痛の生活,そして他の一つは,そのどちらでもない生活。」(43C のソクラテス)

「ところが,それだとかれらは愉快にしているということについて,いつわりの思いなしをしていることになる,いやしくも苦しみを感じないということと,愉快であるということの,両者それぞれの本来自然のあり方が別のものだとしたらね。」(44A のソクラテス)

苦痛からの解放が快楽なのか?プラトンは快楽を「本来自然のあり方への復帰過程」というような言い方もしています。ただこの手の言い方―絶対と相対を混ぜてくるような―は,プラトンの対話篇には結構出てくるような気がします。

「いや,心配はいりません。あなたの言おうとされていることはわかりました。わたしの見るところ,両者の差異は多大です。なぜなら,克己心のある人たちに対しては,「やりすぎるな」というような,ことわざにもなって一般化されている原理があって,かれらはこれのすすめにしたがうから,それぞれの場合に抑止力になってはたらくわけでしょうからね。ところが,思慮もなければ,自制心もない人たちの場合は,強度のはげしい快楽が,かれらを捉えてはなさず,かれらを狂喜に到らしめ,かれらを爪はじきされるような人間に仕立てるからです。」(45D のプロタルコス)

「そしてまたこれらの快楽をまったくいつもいつも追求するのは,当人がしまりのない無分別な人間であればあるほど,ますますひどいことになる。そしてこれらの快楽こそ最大の快楽だなどと呼び,最大限にいつもこのような快楽のうちに生きている者を,この上ない幸福者にかぞえたりするのである。」(47D のソクラテス)

やはり快楽主義をかなり強烈に批判しているという感じです。でも何かプラトンのもどかしさが感じられるのは私だけでしょうか。プラトンにとっては,こんなことは水が上から下に流れるようなもので言葉にするまでもない,当然のことだったのではないかと思われますが,それを激しい言葉で言わなければならないのは逆に諦念のようなものも感じてしまいます。

「したがって,われわれが友人の滑稽な点を笑うのは,他方からみれば,嫉妬の情に快感を混入しているわけで,つまりはその快を苦に混合していることになるというのが,以上の議論の主張だということになる。なぜなら,われわれがさきほど同意したところでは,嫉妬はたましいの苦痛であり,笑うことは快なのであるが,この二つがこの時には同時に起っているからだとするのである。」(50A のソクラテス)

この辺りはちょっとドキッとさせられた部分です。それにしても,いつもながら鋭い分析です。こういう分析の鋭さにはいつも感心させられます。プラトンを理系的だと感じさせる一因です。

「しかしぼくがいま言った営みには,ちょうどさっき白というものについて,たとい小さくても,純粋でさえあれば,多量でも純粋ではないものにくらべて,まさにこの上なく真実であるというその点ですぐれていると言ったように,今もまたよく考え,充分に推理をはたらかせた上で,知識のもつ何らかの実利性とか,あるいは世間的な見栄とかいうものには目もくれず,もしわれわれのたましいに真なるものを愛し求め,万事をただこのためになすというような力が生まれついてそなわっているなら,これを探し出して言うことにしようではないか―知性と思慮の純粋性をこれこそが,とうぜん最大限に獲得所有すると言うことができはしないかどうか。それとも,これよりもっと強力な別のものをわれわれは求めなければならないのだろうか。」(58D のソクラテス)

ここの「たましいの真なるものを愛し求め」というのを読んで,寺田寅彦の『夏目漱石先生の追憶』の,

先生からはいろいろのものを教えられた。俳句の技巧を教わったというだけではなくて、自然の美しさを自分自身の目で発見することを教わった。同じようにまた、人間の心の中の真なるものと偽なるものとを見分け、そうして真なるものを愛し偽なるものを憎むべき事を教えられた。

をふと思い出しました。寅彦が漱石に教わったということと,プラトンが「万事をただこのためになす」と言っていることが同じなら,この3者のファンである私にとってこれ以上のものはない,という思いがします。世の中,金や権力や保身に魂を売ったような人が多いですが,これらを読んでどう思われるのでしょうか。自分もそうならないためにしばしばプラトンや寅彦の言葉を省みなければと思います。ちょっと高潔すぎるきらいはありますが(笑)。

「つまりわれわれにとって確実なもの,純粋なもの,真なるもの,そしてわれわれが明々白々なと呼ぶところのものは,ただかのものを対象とする場合においてあるのだというのだ。かのものとは常に同一性をたもち,同じ状態で,他との混合は少しも許さぬようなものであって,われわれの対象とするのはこれか,あるいは,これに最も親しい同族関係にあるものでなければならない。しかしこれ以外のものは,すべて二次的なもの,後から来るものと言わなければならない。」(59C のソクラテス)

これはいわゆるイデア論の一環でしょうか。

…ということで,今回も話の本筋が結局何だったのか分からないメモになりました(笑)。まあいつも思いますが,脇道と思われるところにも正鵠を射る言葉が散りばめられているのがプラトン対話篇かなと個人的には思っているので,その意味ではピレボスも,有名な対話篇ではありませんし,自分がどれだけ理解できたか分かりませんが,とても楽しめました。次は5巻『饗宴』の予定。

プラトン『パルメニデス』メモ

プラトン『パルメニデス』((プラトン全集 (岩波) 第4巻) を読んだときのメモ。

「およそあるものの形相となるものの存在を許すまいとし,それぞれ一つのものについて何か形相となるものをはっきり決めようとしないとしたら,自分の考えをどっちに向けたらいいのかさえもわからなくなるだろう。イデアが存在のそれぞれについて恒常的に同一性を保って存在していることを認めまいとするからにはね。」 (135B のパルメニデス)

「なるほどたしかに,きみが論理的究明にむかって突進して行く,その突進の意気込みはりっぱだ。いいかね,それは神々しいところさえある。しかしきみは, そういうきみ自身を引きもどさねばならんのだ。そしてもっと練習をつむことだ,役に立ちそうもないと思われ,世人が空理空論と呼んでいるようなものの中を 通り抜けて行く練習をするのだ。まだきみが若いうちにね。さもなければ,きみは真理に逃げられてしまうだろう。」(135D のパルメニデス)

「というのは,それら多数の人間は,あらゆる場合を通じて徹底的にたずね歩き,あちこち逸脱彷徨すること,そのことなしには真理にめぐり合って,正覚を得るというようなことは不可能だとは知らないからだ。」 (136E のゼノン)

以上の引用は,ソクラテスに対して言われたことですが,話の主題とは関係なく,ソクラテスが「説教される」場面というのは他の対話篇も通して初めて出てきたように思うので,まず非常に印象的です。
この対話篇『パルメニデス』は,設定としてはソクラテスはかなり若い時期で,確かパルメニデスが60歳,ゼノンが40歳,ソクラテスが20歳といったような設定と推定されると解説に書かれていたと思います (パルメニデスもゼノンも実在した結構有名な人物のようです)。
反面,この著作自体は,プラトン中期~後期に著されたとされており,プラトンによるイデア論の転換期の作品であるとも解説などに書かれています。
正直なところ,私はイデア論などどうでもよいのです (笑)。ただ,プラトンがイデア論を考えるうえでどのように悩んだのか,ということに思いを致すことができればいいなと思う。そういう意味では『パルメニデス』でソクラテスが言われていることは,プラトンの自省の意味もあったのではないか,と思いました。

そもそも,『パルメニデス』は後半の半分以上が,「一」とは何か,ということを延々と対話によって明らかにするという内容なのですが,あまり面白いとは思いませんでした。
(『ソピステス』,『ポリティコス(政治家)』とともに「論理的」と分類されるだけあります…プラトン全集はこの3作を連続で載せているので正直退屈でした。)
なので後半は殆どメモが残っていません。

「<たちまち>(忽然) というものだ。というのは,この<たちまち>は何か次のようなもの,つまりそれから両者いずれへも変化できるかのような,何かそういうものをさし示しているように思われるからだ。というのは,止まっていることからの変化は,ものがまだ止まったままでいるうちは起きないし,動きからの変化も,それがまだ動いているままでは起らないからだ。ところが,この<たちまち>というのは,本来的に何か奇妙な (所在のない) あり方をするものであって,動と静 (止) の中間に座を占めて,しかもいかなる時間の[経過の]うちにもない (時間が少しもかからないような) ものなのである。そして動いているものが静止に変化し,静止しているものが動に変化するのには,まずこの<たちまち>に入り,またこの<たちまち>から出なければならないのだ。」 (156D のパルメニデス)

ただ,これは非常に印象的なパルメニデスの言葉です。ここで言わんとしているのは「極限」または「微分」というようなものでしょう。
プラトンの時代というのは,恐らく学問,いわゆる「~学」というものが殆ど確立されていない時代だったのではないかと思います (というかプラトン自身が「アカデメイア」という大学の元になるものを設立したわけですが)。そこにあってプラトンという人は,本当に何でも思慮・洞察の対象としたのでしょう。そういう時代だからこそ自由に思索を巡らせることができた,という面もあるでしょう。またテオドロスやテアイテトス,エウクレイドスといった数学に名を残したらしい人物もプラトンの対話篇に出てきます。
真理を追求するというただ一点のみにおいて,またその一点があるゆえにあらゆる分野において,プラトンはどんなものとも繋がってくるのだと思います。それがプラトンのいう「哲学者」像 (『ソピステス』,『ポリティコス(政治家)』などでほのめかされていた) の1つだったのではないでしょうか。多分プラトンは,「哲学」という学問を作ろうとか,そういう気持ちは全くなかったのではないかなと勝手に推測します。

延々と「一」について考察する内容は退屈でしたが,プラトンの懐の深さのようなものを考えた対話篇でした。次回は『ピレボス』の予定。

プラトン『ポリティコス(政治家)』メモ

プラトン『ソピステス』(プラトン全集 (岩波) 第3巻)を読んだときのメモ。

『ポリティコス』は,前回の『ソピステス』の続きという設定 (もっといえば『テアイテトス』の翌日) で,エレアからの客人が,今度は「若いソクラテス」 (有名なソクラテスとは別人) と「政治家とは何か」を明らかにしていく対話篇です。

とりあえず今回も読書したときのメモ (本文から書き写したもの) からですが,今回は特に話の本筋とは関係ない部分が多いです。話の前半は,政治家とは何かを二分探索のような形で,分類により追い込んでいく話が延々と続くのですが (これは『ソピステス』でも共通していました),その部分はあまり面白くなかったようでメモが残っていません。但し,私としてはただ読み物として読んだわけですが,研究者の視点で見るのであればそういう部分も決しておろそかにはできないでしょうから念のため付記しておきます。

「すると,われわれは,そういう見地にでも立とうものなら,その結果として,いろいろな技術自体はもちろんのこと,それらの技術が作り出す種々の作品をも,完全に破壊してしまうにいたるだろう。…こういういろいろな技術の全部は,各種の作業をするにあたって,適正な限度以上のことをおこなうことも,またそれ以下のことをおこなうことも,これを自分に無関係なこととは考えず,逆にこれをまことに有害なことと考えながら,自分の管轄する作業を厳重に監視していると言えるようだ。そして,いかなる技術にせよ,それが仕上げている作品のうちの優秀で美事だと見なされうるすべてのものは,まさにこのような考えかたをとりながら,技術が適度というものを厳守して作るものだけなのだ。」(284A のエレアからの客人)

「つまり,種々の政体の当否について判定をくだすための規準となる標識としては,…ただ,支配者がしかるべき知識を持っているか否かという点だけを,われわれは選ぶようにしなければならないのだ。」(292C のエレアからの客人)

(註:「種々の政体」は,僭主制,君主制,民主制など本編で語られるもの。「哲学者による政治」(『国家』などで語られる)は別格として含まれていないと思う。)

「いやしくも王者の持つべき知識をそなえている者であれば,この者がたまたま支配権を握っているにせよ,あるいは握っていないにせよ,まったくそれにはかかわりなく,「王者にふさわしい人」と呼ばれるのが当然なのですから。」(292E の若いソクラテス)

「大切なのは,これらの人々がどのような権力行使をおこなう場合でも,技術にもとづいてその権力を行使する支配者であるのだ,という点を承認すべきであるということなのだ。」(293A のエレアからの客人)

「したがって,「技術を用いて,かつ,被支配者の利益 (善) となるようにと思いはからいながら,被支配者を支配すること,―これが支配術である」との定義が得られる。」(293C の訳者註)

「支配者たちが知識を活用し正義を心がけつつ,国家の健全を維持するための活動者として国家に見られる欠陥を改善する仕事に全力をつくしているかぎり,ひとえにそのかぎりにおいてのみ,つまり,なによりも肝要なその点を根本原則として守っているかぎり,当の政体をわれわれとしては唯一の政体であると宣言しなければならない。」(293D のエレアからの客人)

「ところが法律というやつは,見たところどうも,この単純不変な公式を示すことだけに没頭しているようなのだ。だから考えてみれば,法律はどこかの強情で愚鈍な人間にそっくりなのだ。」(294B のエレアからの客人)

「言いかえれば,技術の力のほうが法律よりも優ることを実地にみせつけてくれるような人々の手によってはじめて正当な政体というものは作られうるのではないだろうか。」(297A のエレアからの客人)

「「国家の構成者のうちのいかなるものも,法律に違反することをなにひとつ,不遜にもおこなうようなことがあってはならぬ。そしてそのようなことを不遜にもおこなう者は,死刑をはじめとするあらゆる極刑によって処罰されるべし」という法規なのだ。じじつ,この法規こそが,いましがた説明したあの第一の最高原則をわれわれが離れて次善の原則を選ぶことにするばあい,この範囲ではもっとも正当でもっともうるわしい状態にあるものなのだ。」(297E のエレアからの客人)

(註:「第一の最高原則」というのは,少し前にも書いた「哲学者による政治」のこと。)

「だからして,この民主政体というものは,いまここで問題にされているすべての政体が法律遵守的であるばあいには,それら全部のうちでもっとも劣悪な政体なのだ。ところが,これら全部の政体が法律軽視的である場合には,そのうちでは民主政体がもっとも優秀であるのだ。」(303A のエレアからの客人)

(註:「いまここで問題にされているすべての政体」とは,支配者が1人の場合,少数の場合,多数の場合 (=民主制),またそれぞれについて法律遵守的,法律軽視的,の6通りが考えられている。)

「政府最高諸部門(つまり特殊的専門職の最高権者)の,王者による全般包括的支配統括という概念の確立こそ,政治理念一般のもっとも重要な真理の永久不可侵な一部分の発見なのであって…。」(解説 p.454)

メモは以上。
ところで解説や,「プラトンの弁明」という別に読んだ随筆 (論文) 集によると,プラトンの政治に関する著書は『国家』,『ポリティコス(政治家)』,『法律』 (年代順) が代表作とのことです。また,『国家』では「哲人政治」の提案だったのが,『法律』では法律による統治が事実上ベスト,と内容が変わってきており,『ポリティコス(政治家)』は年代的にも内容的にもまあ真ん中であるということらしい。
確かに話の流れとしては,「法律は最大公約数的なものであり,最上の国家を作るためには法律を超越した英雄が必要」というようなことが言われるのですが結局,(この間の話 (論理) はあまり覚えていないのですが) 「法律による支配が現実的にはベスト」と書かれていたように思います。この辺りはプラトンの生涯にも関係しているらしくそっち方面では面白いかもしれません。
現代でも,(きわめて基本的な事柄だと思いますが) 世の中の変化に対して法律という「網」が固定されており,それをすり抜けるものに対してどう対処すべきか,というのを考えると難しい問題だなと思います。法律というのはそれを議会で諮り,成立して発効して初めて効果が上がるようになるわけですが,どうしても時間がかかるため,そのかかる時間が世の中の変化する時間よりと長いと法律は付いていけないことになります。それに世の中の変化を正しく観測することも必要だし時間がかかります。かといってだから「法律なんて要らない」では非現実的だし代わりの案も難しいでしょう。

その視点でいえば,プラトンの書いているのは,法律を「離散」,理想の政体を「連続」ということであり,理想の政体というのは「微分可能なもの」である,といえるかもしれません。世の中の変化を瞬時に捉え,的確に対応する,というのは「微分」のようなものです。
ただ,現実には微分するすべがないため,代わりに,時間はかかるが法律で近似するのが次善,ということになるでしょうか。
…とこれは全くの妄言でした。(実は次の『パルメニデス』で,「これは微分のことを言っているのか」という箇所があったのでその影響かもしれません。)

プラトンは,前回取り上げた『ソピステス』,今回の『ポリティコス(政治家)』とともに,『哲学者』というものを含めた三部作にするつもりだったのではないか,と言われています (僕もそうにちがいないと2篇の話の流れから思います)。しかし結局『哲学者』という対話篇はありません。これは読み物としても非常に読んでみたかったですね。

『法律』も関連して読んでみたいですが,プラトン全集では『法律』は13巻なのできっと1年後じゃ済まないでしょう…。

次回は『パルメニデス』の予定。

プラトン『ソピステス』メモ

プラトン『ソピステス』(プラトン全集 (岩波) 第3巻)を読んだときに,メモったものを転記します。

『ソピステス』は,冒頭でソクラテスが,エレアからの客人という哲学者に「哲学者,政治家,ソフィストはしばしば同じように見えるが何が違うのか」ということを尋ね,エレアからの客人が,まずはソフィストから,と,テアイテトスと対話しながらソフィストとは何かを明らかにしていくという筋立てです。
ソクラテスが殆ど出てこないという点で,割と珍しいといえると思います。

プラトン全集は図書館で読むしかないので手元に無く,記憶が頼りなので上記の要約は正確ではないかもしれません。いずれにしても,内容や解説などはプラトン全集や解説本を読めばいいわけなので,ここでは自分が読んでいて気になって (印象に残って) 本文を書き写した箇所を書き落とします。相互に脈絡があるとは限らず,それ自体だけ読んでもあまり判然としない可能性もあります (正直自分でも判らないものがあります) が,元がタダのメモなのでご容赦。
また,あくまでも直観に従って書き残したもので,話の本筋と関係があるとは限りません。尤もプラトンの対話篇は,主題からしばしば道を外れて,しかもそれが内容的に深かったりするので,本筋を考えるよりもその場その場で何かを読み取ればよい,というのが私のスタンスです。

「すなわち,魂の内にある欠陥には二つの種類があること,そして,臆病や放埓や不正はすべて,われわれの内なる病気であるとみなすべきであり,他方,多種多様の無知の状態は,醜さであると考えるべきである,と。」(228E のテアイテトス)

「<非有>(あらぬもの) は確固としてそれ自身の本性をもっているものであって,それはちょうど<大>(大なるもの) が大きくあり,…<非大>(大ならぬもの) が大でないものであり,…と同様なのである。そしてその意味において,<非有>(あらぬもの) もまた同じようにあらぬものであったし,またあらぬものがあるのであって,それは多くのあるもののなかの1つの <形相> として数え入れられるべきものである,と。」(258B のエレアからの客人)

「ではまず,<思考>と<言表>は同じものではないかね。違う点はただ,一方は魂の内において音声を伴わずに,魂自身を相手に行なわれる対話 (ディアロゴス) であって,これがわれわれによって,まさにこの <思考> という名で呼ばれるにいたったということだけではないか?」 (263E のエレアからの客人)

「では正義をはじめ,一般にすべての徳の姿かたちといったものについては,どうだろう?多くの人々がその知識をもたずに,ただ何らかの思わくをもっているだけの状態でありながら,徳であると思われているその当のものが,自分たちの内にほんとうにあるように見せかけようと,きわめて熱心な努力を試みているのではなかろうか―行動と言葉によってできるだけそれを真似ながらね。」 (267C のエレアからの客人)

最後のメモは,プラトンの著書によく出てくる (例えば『ゴルギアス』など) ソフィストの一面を分かりやすく描いた部分だと思います。
何かの (例えば政治の) 技術を持っているわけではないが,説得することによって,あたかもその技術を持っているように見せかけ,それによって報酬を得る,というような人物のことで,基本的にはかなりの悪者としてプラトンの著書では描かれています。
また,(こういうことを言いたかったわけではないのですが) 今の世の中にもソフィストは多いように思われます。

読み終わってから2週間くらい経ってしまっているので中身をかなり忘れてます…今後は早めに書きたいと思います。

次は『ポリティコス(政治家)』の予定。