プラトン『アルキビアデス II』((プラトン全集 (岩波) 第6巻) を読んだときのメモ。
前回書いた『アルキビアデス I』と同じアルキビアデスのようです (基本的にプラトン対話篇というのは「ステートレス」で,前提となる知識は不要なので,仮に同じ人物が出てくるとしても,どの著作から読んでも一切問題ありません)。ただ,『アルキビアデス I』や『饗宴』とは異なり,恋がどうのという話題は一切出てきません。また,それとは別の話で,本作は偽作ではないかという説も結構あったようです。
内容は,神への祈りに向かう途中のアルキビアデスに会ったソクラテスが,思慮と無思慮についてや,人は何を祈願するのか,その祈願したことが善いことなのかどうか,といったことを考察します。単に知識や心得を持っているだけではダメ,というような部分もあり,内容的には『アルキビアデス I』と通じる部分があるかもしれません。ちなみに副題は「祈願について」。
では以下は読書時に転記した部分とメモです。
「神々はわれわれが公私いずれにおいても祈り求めるそのものを,時によって,そのあるものはかなえるが,他のものはかなえなかったり,またある人びとには与えるが,他の人びとには与えないといったことがある,ときみは思わないかね。」(138B のソクラテス)
最初のほうのソクラテスの問いかけです。科学の時代である現在と当時は勿論全く異なるので,宗教云々を別にしても祈願というものについては時代の違いを念頭に置く必要はあると思いますが,読みながらふと本篇の「神々」を「政治」もしくは「お上」とでも置き換えたら現在でも割と通用するのではないか,などと思ったりしました。
「それならば,また人びとは無思慮をも同様の仕方で分けもっているのだ。そしてその最も大きな部分を分けもっている人びとをわれわれは気がちがっていると呼ぶし,それよりもいくらかわずかの部分を分けもっている人びとを馬鹿とか阿呆とか呼んでいるわけだ。」(140C のソクラテス)
これは大丈夫なのか?(笑) まあ思慮深さというのがなければなにが善いのかが分からない,というのは当然の前提となっているので,無思慮は切り捨てていますが現在だと差別とか言われそうですね。
「多くの人びとは,支配者の地位とか将軍の地位とか,その他それが現実になれば得になるよりも,むしろ損害をもたらすような多くのものを,それが与えられることになれば,避けようとはせずに,自分にそれがない場合には,それが与えられるように祈願しさえする。だがしばらくすると,彼らはえてして最初に祈願した事柄をすべて願い下げにして,取り消しの唱えごとなどをする。それでぼくは,本当に,人間が,自分たちの不幸は神々から来るなどと言って,おろかにも神々を責めはしないかと疑うのだ。」(142C のソクラテス)
確かに最初希望していた地位や生活が実現しても,いざそうなると思っていたのとは違った,というのはよくあることです。ただ上にも書きましたが,仮に同じ状況で責めるにしても,日本では神々ではなく,政治とかマスコミとかの権力を責めるだろうと思います。その辺りは宗教観のなさなども関係するのでしょうか。新渡戸稲造は「日本には宗教教育はないが武士道がある」と書きましたが,宗教心も克己心もないのが現代の日本の全体としての特徴かなと思わされます (別に必ずしも悪い意味ではないので念のため)。
「してみると,どうやら,最も善きことに対する無知,つまり最善についての知が欠けていることが,悪だということになるらしい。」(143E のソクラテス)
「してみると,思慮ある人とは,このような事情のどれかを知っているだけではなく,さらに最も善いことについての知識―しかもこの知識とためになることについての知識とはむろん同じものだ―がその人にそなわっている場合だということになる。ね,そうだろう。」「そしてこうした人をこそわれわれは思慮ある人であり,国家にとっても,その人自身にとっても,十全な勧告者であるということができるのだ。これに反してこのような条件を欠いている人は,これとは反対の者であるというのだ。それとも,どう思われるかね。」(145C のソクラテス)
かなりプラトン的な部分です。結局のところ全ては善の関数である,というような。こういうのが読みたくてプラトンを読んでいる部分はあります。
「それならいまここにひとつの国家があって,そこには立派な射手や立派な笛吹きがおり,さらに運動選手たちやその他の技術の心得ある者たちがおり,またわれわれがたったいま語ったこれらの人びとの中に,ただ戦争することだけを知っているとか,人をただ殺すことそれだけを知っている者たちが混りこんでおり,その上また国家についての大ぼらを吹く演説家たちもいるとする,しかしこうした者たちが全部いるのだけれども,最も善きものに対する知識がなく,これらの人びとそれぞれを働かせて行くのには,いかなる時が善いか,何を目的とするほうが善いかを知っている人がいないとしたら,そういう人たちだけで作られる国家の体制は,どのような国家体制だときみは思うかね。」(145E のソクラテス)
国だけでなく企業などでも同じことが言えると思います。ただ現実は,多分経営者でも「具体的に」とか「現場の目線で」とか,とにかく実行と成果が求められる世の中なので,一見何もしないようで「何が善いか」ということに目を据えているようなことが認められにくいだろうとは思います。
「したがって,多くの人びとは,ぼくの思うところでは,すくなくともたいていの場合,知性をつかわないで思わくを信じこんでいるゆえに,最も善きものについてひどい誤りを犯している―とわれわれは再度主張することになるね。」(146C のソクラテス)
あまり覚えていないですが,「知性」と「思わく」の違いについてはプラトンは結構書いていたと思います (『メノン』だったか…)。
「また世のいわゆる博識や多芸を身につけている人もこの (善の) 知識が欠けていては,他のあれこれの知識に引きまわされて,おもうに舵とりのないままに大海の上にいつまでもうろうろしているから,生涯の道程をいくらも行かないうちに,しごくとうぜんにも烈しい冬の嵐にぶっつかることになるのではあるまいか。だからこの場合もまた,「多くのことを知ってはいたが,そのすべては悪しき仕方で知っていたのだ」と,かの詩人が誰かについて非難の意味で言ったことがあてはまるように思われるのだ。」(147A のソクラテス)
この引用の前半の比喩は好きですね。私はよく,目標や方向,理念や理想がなければ各自が改善を行なってもブラウン運動をするが如くに結局全体としては確率的にしか改善しない,というようなことを考えますが,ここでは善悪という軸で善の方向がわからなければという意味で同じことが書かれていると思います。
「もし神々がわれわれのささげる贈り物や,犠牲には目をとめるが,ひとがまさに敬虔であるか,正しくあるかといった,魂のほうには目もくれないというのであれば,それはなんともたいへんなことになるかも知れないからねえ。いやおもうにむしろ神々はこの魂のほうにこそはるかに目をむけ給うのだ。あるいは神々に対し,あるいは人びとに対して,大いなる過ちを犯しておきながら,平然として個人も国家も年々歳々それをささげることができるような,そのような,金にあかした祭列や犠牲に目をむけ給うよりはね。」(149E のソクラテス)
こういう考え方が神々によって得られるのであれば,宗教というのはあったほうがいいのだろうなと思ったりもしますが,「敬虔であるか,正しくあるか」というような思慮深さは内容としてはプラトンが普段から言っていることであり,神々の威を借りて言っているだけ,という気もします。
ちょっと今回は現実との対比をコメントに書きすぎてつまらなくしてしまった感があります。対話篇自体は短く読みやすいものでした。次回は『ヒッパルコス』の予定。