プラトン『カルミデス』メモ

プラトン『カルミデス』((プラトン全集 (岩波) 第7巻) を読んだときのメモ。

この対話篇は,ソクラテスが出征から戻ってきたところという設定です。その戦争の話を周囲に聞かせたりしているところで,カルミデスという,ソクラテス曰く非常に美しい若者が現れます (勿論男です…この辺りの当時の事情は『饗宴』メモなど参照)。そのカルミデスにソクラテスは,魂の美しさはどうかと確かめたくて対話をしかけます。そこで居合わせたクリティアスが,「カルミデスは克己節制 (思慮の健全さ) において傑出している」と言うので,対話の主題は,カルミデスは克己節制 (思慮の健全さ) を持っているか,そして結局,克己節制 (思慮の健全さ) とは何か,ということになり対話が進められます。といっても,実際にはカルミデスに克己節制 (思慮の健全さ) とは何かを予め言い含めていたクリティアスが対話の一番メインの相手になります。
対話では,「克己節制 (思慮の健全さ) とは「知の知」である」といったなるほどという主張がクリティアスによってなされ,ソクラテスもそれ自体は否定しないのですが,しかし「知の知」というのは他の具体的な知 (例えば健康に関する知) ではないため,結局それがあっても有益ではない,というのが結論のようなものになります。ただ,克己節制 (思慮の健全さ) が有益でないはずはない,ということはソクラテスも言い,自分にはまだそれを明らかにする力がないということになります。
副題は「克己節制 (思慮の健全さ) について」というそのままのもの。

以下は読書時にメモした内容です。

「というのも,かれ(メモ註:従軍中に会ったトラキア人の医術師)の説明では,からだや一個の人間全体の善悪はすべて,たましいに始まり,そこから流れ出してくるのだ。ちょうど,頭から眼に流れこむようにね。したがって,頭にしても,からだの他の部分にしても,うまく働かしたければ,まずなんといっても,とりわけ,そのたましいの世話をしなければいけないそうだ。」(156E のソクラテス)

『論語』に「巧言令色,すくなし仁」というのがありますが,容姿端麗のカルミデスについて,見た目だけじゃなくて魂もちゃんとしたものであるのか?という本格的な対話に入る前の牽制のような言葉だと思います。

「さあ,だから,自分で答えてくれたまえ。はたしてきみ (メモ註:カルミデス) は,このクリティアスの言うことを認めて,すでにもう十分に克己節制 (思慮の健全さ) を分けもっていると主張するかね,それとも,まだ欠けるところがあると言うのかね?」(158C のソクラテス)
「それなら,それがきみ (メモ註:カルミデス) のうちに内在しているのかいないのか,その見当をつけるために,説明してくれたまえ」とぼくはいった。「きみの思わくでは,克己節制 (思慮の健全さ) とは何であると主張するのか,を」 (159A のソクラテス)

クリティアスに克己節制 (思慮の健全さ) を備え持つと言われたカルミデスは,決して驕っているわけではないのですが自分がいかに克己節制 (思慮の健全さ) を持つかということを,また結局その克己節制 (思慮の健全さ) とは何であると考えるかということをソクラテスに問われます。
このあとで,カルミデスは克己節制 (思慮の健全さ) を,(1) 秩序を守りかつもの静かに行なうことである,(2) 人間に恥を知らしめ,羞ずかしがらせるものである,(3) 自分のことだけをすることである,と答えるのですが,いずれもソクラテスに反駁され否定されます。で (3) を教えたのはクリティアスらしいので,ソクラテスはその後,クリティアスを相手に対話を始めます。

「わたしの主張はこうですよ。善いものではなく悪いものを作る人間は,克己節制 (思慮の健全さ) をもたない。しかし,悪いものではなく善いものを作る人間のほうは,克己節制 (思慮の健全さ) をもっている,というのですよ。つまり,善いことをすることが克己節制 (思慮の健全さ) である,とこう明確に規定してあげます」(163E のクリティアス)

「なぜなら,わたしの主張は,克己節制 (思慮の健全さ) とは,まさしく自己自身を知ることにほかならない,といったところですし,そのような意味の銘文をデルポイの神殿に奉納した人にわたしは組するからです。
…すなわち,アポロンはいつだれが参詣に来ても,じつは『思慮が健全であれ』と呼びかけているのです。
ところが,アポロンは予言をつかさどる神ですので,かなり謎めかして呼びかけています。つまり,『なんじみずからを知れ』と『思慮が健全であれ』とは,同じ意味の言葉なのです。」(164D のクリティアス)

この「なんじみずからを知れ」というのは有名な言葉で,『アルキビアデスI』などでも出てきます。ソクラテスを象徴する言葉とも言えると思いますが,ここでクリティアスはそれこそが克己節制 (思慮の健全さ) であると言っているようです。

「それごらん,これだから!ソクラテス」とかれは言った。「結局,あなたは,克己節制 (思慮の健全さ) という知がほかのすべての知とどんな点で異なるのか,という問題を探究するはめになりましたね。もっとも,あなたはそれとほかの知との類似点をさがしておいでですが,しかし,事実,そんな類似点はないのです。ほかの知はどれも,それ自身とはちがったものについての知で,それ自身についての知ではありませんが,この克己節制 (思慮の健全さ) だけは,ほかのいろいろな知についての知であるばかりか,それみずからについての知 [知の知] でもあるのです。」(166B のクリティアス)

克己節制 (思慮の健全さ) とは,知の知である,とクリティアスは言います。「知の微分」という感じかなと私は思いました。ちょっとむきになっていますが,言っていることはなるほどと思うところがあります。

「なんという考え方をするのだ」とぼくはやり返した。「よしんば,きみをやっつけることになっても,それに他意はないわけで,ひとえに自分が何を言おうとしているのかを吟味するためなのだ。つまりぼくは,知らないのに何か知っているように思っていながら,それに気づかないことがありはしないかと恐れるのでね。」
「それなら,自信を出して」とぼくはつづけた。「めぐまれた人よ,きみに思われるとおりに,ぼくの質問に答えてもらいたい。やっつけられるのがクリティアスだろうと,ソクラテスだろうと,そんなことは気にしないで。むしろ,ひたすら議論そのものに注意をはらいつつ,その議論がどうすれば難関をきりぬけられるかを検討してくれたまえ。」(166D のソクラテス)

ソクラテスもクリティアスに手を焼いている感じですが,さすがに冷静です。議論の勝ち負けではなく,ただ答を追求するソクラテスの姿がよく表れている一節です。こういう互いにちょっと激したようなやりとりがあるのも,ただ論文のように自説が淡々と述べられているのとは違う,プラトン対話篇の面白いところです。

「それなら,克己節制 (健全な思慮) の人だけが自己自身を知っていることになり,自分はまさしく何を知り何を知らないかをしらべあげることができることにもなる。さらに,かれだけが,ほかの人びとについても同じようにして考察できることになるわけで,相手の他人(ひと)が何を知り,知っている以上は何を知っていると思っているのか,また反対に,相手の他人が,ほんとうは知らないのに,何を知っているように思っているのかも,考察できるということになるだろう。この克己節制 (健全な思慮) の人以外にはだれも,そういうまねはできないだろうね。そしてまた,まさしくこれこそが,克己節制 (思慮の健全さ) をもつこと,克己節制 (思慮の健全さ),自己自身を知ることにほかならないのだ。つまり,何を知り何を知らないかを知ることこそが。これらの点がきみの言いぶんかね?」(167A のソクラテス)

「何を知っていて,何を知らないか」を知ること,またそれが自分だけでなく他人についても分かることが,克己節制 (思慮の健全さ) であると。

「つまり,それ自身に関係のある独自の機能をもともと自分でもっているものはひとつも存在せず,その機能はもっぱら自分以外のものに関係するだけなのか,それとも,それ自身に関係させるものが存在するばあいもあり,存在しないばあいもあるのか?またもし,今かりに,どういうものであれ,自分が自分に対してそういう関係をもつものがいろいろ存在するとすれば,われわれがまさしく克己節制 (思慮の健全さ) だと主張する知は,はたして,そのなかに数えられるのかどうか?―こういった区別だがね。このぼくには,そういう区別を十分にやってのけるだけの自信はないよ。したがって,これ,つまり,知 (について) の知というものの存在が可能になるかどうかについては,確信ある主張はできないし,また,かりに存在するとしても,その知の知が克己節制 (思慮の健全さ) なのだということを承認することもしないよ―それが,なにかそういう知の知であれば,われわれの利益 (ため) になるのかどうかの検査をぼくがすますまではね。」(169A のソクラテス)

この部分の最初に言われていることは,本文に例があるのですが,例えば「視覚」といった場合には,視覚によって何かを見るわけですが視覚自身を視覚によって見ることはできない…というようなことで,それ自身とその機能が同一でありうるものがあるかどうか,ということが言われています。GNU = Gnu is Not Unix の略のように,自己再帰的かどうかということにちょっと似ています。そして,クリティアスが言う「知の知」というのがそもそも存在可能なのかということをも提起しています。

「したがって,克己節制 (思慮の健全さ) をもつことや,克己節制 (思慮の健全さ) そのものは,何を知り何を知らないかを知ることではなくて,ただ単に,知っている,知っていない,と知るだけのものにすぎないことになるようだね」
「どうも,そういうことになるようです」
「すると,他人 (ひと) がなにか知っていると主張しても,その人が知っていると主張している事柄を,はたして知っているのか,知っていないのかの吟味も,この克己節制 (健全な思慮) のもちぬしにはできないということになる。できるのは,相手の人がなにかある知をもっている,と知るだけのことにすぎないようだ。それに反して,それが何 (について) の知なのかということのほうが,克己節制 (思慮の健全さ) が相手の人に知らせてやることにはならないだろう」(170D)

対話は進んで,克己節制 (思慮の健全さ) は,知っているかどうかは分かるが「何を」知っているのかは分からない,と言われます。なんか段々役立たずな感じになってきます。私のテキトーな「知の微分」説でも,知という一変数にしか触れられないのでその通りかもしれません。で,実際には克己節制 (思慮の健全さ) のみしか持っていなければそうかもしれませんが,克己節制 (思慮の健全さ) と,他に何かしら持っている知を組み合わせれば何を知っているか分かりそうなのですが…。ただそうだとすると,「知がなければ克己節制 (思慮の健全さ) は不要」ともいえます。

「いや,いや,ぼくの言っているのは,いちばんかれの幸福に貢献する知のことだよ」とぼくは言いかえした。「それは,何についての知であるという点で,貢献度がいちばんなのだね?」
「善悪についての知であるという点です」とかれは答えた。
「殺生なやつだな,きみは!」とぼくは言った。「さっきから,ぼくを引っぱりまわすだけ引っぱりまわしておいてだよ,いいようにやる (うまく行く) ことやいいダイモーンがついていること (幸福) を保証してくれるのは,知にしたがって生きるということではなく,さらには,ほかのすべての知にしたがって生きるということでもなくて,ただ一つの知,つまり,善悪についての知にしたがって生きるということだったのに,それをきみは秘密にしてかくしているとは!」(174B)

ここで「善悪の知」というのが出てきます。なんか「知の知」よりも,他の種類の知よりも上のものがこの「善悪の知」ということでしょうか。

「してみると,克己節制 (思慮の健全さ) は,利益の専門家ではないことになるね,友よ。だって,それどころか,われわれはたったいま,その仕事[利益]をほかの技術[善悪の知]にわり当てたばかりだもの。そうだろう?」(175A のソクラテス)

ここで克己節制 (思慮の健全さ) ≠ 善悪の知,となります。上で,克己節制 (思慮の健全さ) 「だけ」では「何を」知っているか分からない,と書きましたが,まさに「善悪の知 + 克己節制 (思慮の健全さ)」こそが,自分自身を知り相手が何を知っているのかも知ることになるのかもしれません。解説にも似たことが書いてありますが。

要するに,「ソープロシーネ (メモ註:克己節制 (思慮の健全さ) の原語)」の基本義は,健全なる思慮,正気ということであり,思慮を失うとか,我を忘れるとかいうことの反対だと解されねばならない。これは死すべき人間が自己の分限をさとることに通じ,反面においては,神の尊厳の認識として,なにか宗教的な意味をもつものなのである。(解説)

本篇を読んでいると「克己節制 (思慮の健全さ)」とは「知の知」,で結局何か役に立たないもの,というようにも思ってしまいますが,確かに素直に考えればこの解説のような意味のほうが近い気もします。

『カルミデス』がプラトンの諸著作のなかで占める思想的位置について考える場合,明瞭なことは,右にのべたように,「善の知」の「知」が徳―本篇の場合では「克己節制 (思慮の健全さ)」の徳―の根底に要請されているという事実である。(解説)

メモは以上。「克己節制 (思慮の健全さ)」というテーマは興味深く,結論は (いつも通り?) 得られませんでしたが,対話のやり取り等も含めて面白い対話篇だったと思います。
次回は『ラケス』の予定。

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