プラトン『リュシス』((プラトン全集 (岩波) 第7巻) を読んだときのメモ。
本対話篇は,まずソクラテスが移動中にヒッポタレスとクテシッポスに会い,「美しい少年たちがたくさんいる」と近くの体育場に誘われていきます。そしてヒッポタレスがリュシスという少年に恋をしているとか何とかちょっと怪しい会話を経て,リュシスとその友人のメネクセノスとの対話が始まります。
対話は最初,親の子に対する教育のような話になりますが,メインは副題にもあるように「友とは何か」です。しかし結論は出ません。この流れは『カルミデス』や『ラケス』にも類似していて,いわゆる初期対話篇の特徴のようです。
副題は「友愛について」。
「それではご両親は,いったいぜんたい何のために,君がしあわせで何でもしたいことをするのを,そんなにひどくおさまたげになり,そして一日中いつも誰かの奴隷になって,要するにほとんど何ひとつ自分のしたいと思うことができないようなありさまにして,君をお育てになるのだろうか。」(208Eのソクラテス)
ソクラテスがリュシスに,両親がリュシスのためを思うならなぜもっと自由にやりたいことをさせないのか,というようなことを問います。リュシスは「まだ自分が一人前になっていないから」と謙虚な答を言うのですが,何だかんだでソクラテスに言いくるめられます。ただ,そんなに本気でこのテーマを追求するつもりではなかったのか,途中でふと終わります。
「ではメネクセノス,私のたずねることに答えてくれたまえ。じつはちょうど私には,子供のときから手に入れたいと思っているものがあるのだ。人それぞれに,みな何かそういうものがあるもので,馬を欲しがる人があれば,犬を欲しがる人があり,金の欲しい人,名誉の欲しい人と,人によってさまざまだ。私は,そんなものには気がないのだが,友を手に入れるということになると,まったく目がなくて,世界一みごとなうずらや鶏などよりも,まず,よい友だちが自分のものになったらと思うのだよ。」(211D のソクラテス)
これはリュシスとメネクセノスの仲のよさを羨んで問うています。ただ,ソクラテスが友を欲しがる,というのはやや意外な感じもしました。金や名誉が要らないというのはいかにもなのですが。でも見方を変えると,ソクラテスが欲するという「友」というのは何か重大なというか,本当の意味での友,という感じがしてきます。全く想像がつきませんが…。
「では答えてくれたまえ。誰かが誰かを愛するばあい,どちらがどちらの友になるのかね。<愛するほう>が<愛されるほう>の人の友になるのか,あるいは,<愛されるほう>が<愛するほう>の人の友になるのか,それとも,どちらでもまったくかわりのないことかね。」(212B のソクラテス)
本対話篇の注意点かもしれませんが,愛情と友情の区別がありません。なのでここのように,友=愛する/愛される,という言及がされています。さて,言われてみると不思議な話題ですが結局このどっちがどっちというのは破綻します。
その後対話は,「友だちとは『善き人々』という説が出されたり,「<反対のもの>が<反対のもの>にとっていちばんの友である」という説が出されたりします。
「では,正しいものが不正なものと,節制なものが放縦なものと,また,善きものが悪しきものと,友であるのか。」(216B のソクラテス)
ということで<反対のもの>説も否定されます。実際に仲良くなる人というのが,「自分と似た人」なのか,「自分とは似ていない人」なのか,というのは現代でもテーマになったりしそうです。例えば,よくしゃべる人と静かな人とか。そういう観点でいうと,正と不正や,善と悪,という例を持ち出すソクラテスは頭が固すぎます(笑)。ごもっとも,なのですが。
で,話としては,「<善きもの>と<善くも悪くもないもの>とが友になるだけ」 (217A) ということになってきます。
「したがってまた,すでに知者である者は,神々であれ人間であれ,もはや知を愛することがないのであり,他方また,自分の持っている無知によって,すでに悪しき人間になってしまっている人々も,知を愛することがない,なぜなら,悪しく無知なる人は,誰一人知を愛することがないのであるから,といってよいであろう。すると,あとに残るのは,その無知という悪を持ってはいるが,しかし,まだそれによって無知なわからずやになってはいず,自分の知らないことは知らないとまだ考えている人たちである。」(218A のソクラテス)
これはソクラテス流の「中庸」というふうにも思いました。話の流れからいうと,<善くも悪くもないもの>だけが知を愛する,ということになるでしょうか。
「おやおや,われわれが金持ちになったと思ったのは,夢の中でのことらしいよ,リュシスにメネクセノス」
「何ですって?」とメネクセノス。
「どうも,いまわれわれのめぐりあった友についての説は,いわば大ぼらふきたちのようなものだったのではないかと思うのだ。」 (218C)
ここで急に対話がちゃぶ台返しになります。『パイドロス』でも,やはりひっくり返されたことがありました。ダイモーンの何とかってやつで,急にソクラテスの頭にそういう呼びかけがある,というのは『テアゲス』でも言われています。とはいえ,ここでは,一応これまでの経過は生きていて後で言及されています。
「われわれはよく,金銀を大切なものに思うというけれども,おそらくやはり,それは真実ではなく,われわれがほんとうに,それこそすべてであると思っているものは,じつは別にあるのであって,何かそのようなもののためにこそ,われわれは金銀もその他のものも準備するのである。われわれはこう言ってよいだろうか?」
「よいと思います。」
「さて,<友>についても,同じようなことが言えるのではないか。つまり,あきらかにわれわれは,われわれにとって何か或る別の友のために友であると,われわれの主張するようなものどもを,すべて言葉のうえでは<友>と呼んでいる。しかしほんとうに<友>であるものは,おそらく,それらのものどもに対するもろもろのいわゆる愛が,結局すべてそれに帰着することになるかのものにほかならないであろう。」 (220A)
「しかしほんとうに<友>であるものは,おそらく,それらのものどもに対するもろもろのいわゆる愛が,結局すべてそれに帰着することになるかのものにほかならないであろう。」…この部分はプラトン得意の?イデア論の片鱗が見えます。
「したがって,そのときわれわれは,『われわれは善は悪の薬であり,悪は病気であると考えて,悪のゆえに善を尊重し愛していたのだ』ということに気づくのではないだろうか。病気が存在しないなら,薬の必要はすこしもないわけだ。以上のようなわけで,善は,悪のゆえに,悪と善との中間の存在であるわれわれによって愛されるのであって,善だけでは,善自身のために求められるような効用を,すこしももっていないのではないだろうか。」(220D のソクラテス)
「悪のゆえに善を尊重し愛していた」「善だけでは,善自身のために求められるような効用を,すこしももっていないのではないだろうか」というのは,なるほどなあという言い回しです。現代の身近なことにも応用できそうです。ただ,かなり相対的であり,若干プラトンらしくないという感じは受けます。
「では子供たち,人が他の人を求めたり愛したりするばあいも,もしもその人が,ちょうど魂や,魂の何か品性や性向やタイプなどに関して,愛される相手の人にとって,何らかの仕方で<自分のもの>(血のつながったもの)であるのでなければ,けっして求めたり恋したり愛したりすることはないだろう」(222A のソクラテス)
断片的に取り出しましたが,「自分に欠けたもの(を愛する)」→「自分から奪い取られたもの」→「元は自分にあったもの」→「<自分のもの>」という展開がこの前にあります。この推論はともかくとして,自分に欠けたものが,自分の血のつながったもの,というのはそれだけを見ても示唆的だなあと思います。
しかしながら,結局この説も,<自分のもの>の人々が友とすると,善い人は善い人と,不正な人は不正な人と友になるなど,以前に否定されたパターンになるので,それも違うとなります。
「すなわち,もし,<愛される人々>も,<愛する人々>も,<似ている人々>も,<似ていない人々>も,<善き人々>も,<自分のものである人々>(自分と血のつながる人々) も,その他およしいままでわれわれののべてきたかぎりのものも,―あんまり多いので,もう私はおぼえていないのだよ―さて,それらのうちのいかなるものも <友> ではないとすると,私にはもう何を言ってよいのかわからない」(222E のソクラテス)
ということで,プラトン対話篇らしく,迷宮入りしたところで,ちょうどリュシスとメネクセノスのお迎えがきて,対話がお開きになります。
「さあこれで,リュシスとメネクセノスよ,われわれは笑われ者になったのだ,老人であるこの私と君たちは。ここにいる人たちは,帰る道々言うことだろう,われわれは―私も君たちのなかに入れさせてもらって,―お互いに友であると思っているけれども,それなのに,<友>とは何であるかということも,まだ見つけだせなかったのだ,と」(223B のソクラテス)
メモは以上。次回は『ゴルギアス』の予定。