プラトン『国家』第四巻メモ(2)

プラトン『国家』((プラトン全集 (岩波) 第11巻) 第四巻を読んだときのメモ第2弾。
メモ第1弾で,守護者はどうあるべきか,法律では何を規定すべきか,といった内容の対話がなされました。 そしてついに,理想国家がひとまず建設され,正義を探し出すフェーズへと意向することになります。
その中でも,まず国家としての正義を見出すための対話がなされた部分を,このメモ第2弾で見ていきます。長いので,個人としての正義については第3弾に。

「さてそれでは」とぼくは言った,「こんなふうにすれば問題のものを見つけ出せるのではないかと,ぼくは期待するのだがね。―われわれの国家は,思うに,いやしくもそれが正しい仕方で建設されたとすれば,完全な意味においてすぐれた国家であるはずだ」
「たしかにそうでなければなりません」と彼は言った。
「とすれば明らかに,この国家は,<知恵>があり,<勇気>があり,<節制>をたもち,<正義>をそなえていることになる」
「ええ,明らかに」
「そうすると,もしわれわれがこの国のなかに,いま挙げたもののうちのどれかを見出すとすれば,残ったものが,まだ見出されていないものにほかならない,ということになるのではないか?」(427E)

この部分だけだと分かりづらいですが,この理想国家 = <知恵> + <勇気> + <節制> + <正義> なので <正義> = 理想国家 – (<知恵> + <勇気> + <節制>) である,という補集合的な考え方がなされて,<知恵><勇気><節制>が何かが分かれば自ずから<正義>が何かが分かる,ということで前者3つが追求されます。
ふと「行政 = 国家 – (立法 + 司法)」という,行政とは何かという説明の仕方を思い出しました。割と消極的というか退嬰的というか,そういう印象は持ちます。大体,理想国家 = <知恵> + <勇気> + <節制> + <正義> の根拠も薄いです。尤も,結局<正義>についても十分に説明がなされるので,この論法である必要があるのかは不明です(笑)。まあでも面白いやり方で印象に残りました。

「し てみると,自然本来のあり方に従って建てられた国家は,みずからの最も小さな階層と部分にほかならない指導者・支配者によってこそ,またその最小部分のう ちにある知識によってこそ,全体として<知恵>があるということになるわけだ。そしてどうやら,本来最も少数しか生じないところのこの種族こそは,他のもろもろの知識のなかでそれだけが<知恵>と呼ばれてしかるべき知識に,あずかることができるもののようだ」(428E)

<知恵>とは何かについてのまとめです。この理想国では,支配者に当たる最も少ない人々の知識が<知恵>に当たることになるようです。
微妙に権威的な感じもしますが,まあ日本でも,政治家特に大臣が国の大事なことを決定するわけなので,その人たちの知恵が国家としての知恵だと見做されても不思議ではないでしょう。

「<勇気>とは」とぼくは言った,「一種の保持であるとぼくは言うのだ」
「保持といいますと,いったいどのような」
「恐ろしいものとは何であり,どのようなものであるかについて,法律により教育を通じて形成された考えの保持のことだ。また,その考えをあらゆる場合を通 じて保持しつづけると言ったのは,苦痛のうちにあっても,快楽のうちにあっても,欲望のうちにあっても,恐怖のうちにあっても,それを守り抜いて,投げ出 さないということだ。」(429C)
「こうしてぼくとしては,このような力のことを,すなわち,恐ろしいものとそうでないものについての,正しい,法にかなった考えをあらゆる場合を通じて保持することを,<勇気>と呼び,そう規定したいのだ。もし君に何か異論があるのでなければね」
「いいえ,何も異議はありません」と彼は言った,「それと同じものに関する正しい考えであっても,教育によらずに生じたもの,つまり動物や奴隷がもってい るようなそれを,あなたはあまり永続的なものとは考えないでしょうし,<勇気>とは別の名で呼ばれるだろうと思いますからね」(430B)

今度は<勇気>ですが,これは結構深いです。まずは<勇気>についても,「国家のことを臆病だとか勇気があるとか言うにあたって,その国を守って戦い,国のために出征する部分以外のものに目を向けてそう言うだろうか?」(429B) と,<知恵>と同じで国家の一部分によると言われますが,「一種の保持」というのはかなり抽象化した言い方です。
この後で,洗剤でも水洗いでも色落ちしない染物の例が出されるのですが,それと同じで,何を恐れ何を恐れるべきでないか,ということを教育によってしっかり身に付け,それが揺るがないのが<勇気>である,という意味で「保持」と言われているようです。 プラトンの抽象志向のようなものが感じられます。その究極は言わずもがなの「イデア」ですが。この<勇気>の説明にしても,後から思い出すとじわじわ来ます。

「し かし」とぼくは言った,「この表現が実際に言おうとしているのは,こういうことだと思われる。―つまり,その人自身の内なる魂には,すぐれた部分と劣った 部分とがあって,すぐれた本性をもつものが劣ったものを制御している場合には,そのことを『おのれに克つ』と言っているのである。いずれにしてもこれは, ほめた言い方だ。そして他方,悪い養育や何かの交わりのために,少数者としてのすぐれた部分が大ぜいの劣ったものによって支配されるにいたった場合は,こ れを恥ずべき状態として非難して,そのような状態にある人のことを『おのれに負ける』とか『放縦である』とか呼ぶわけなのだ」
「ええ,じっさいそういう意味のようですね」と彼は答えた。
「それでは」とぼくは言った,「新しくできたわれわれの国家に目を向けたまえ。そうすれば君は,そのなかに,いま言った状態のうちの一方が実現しているの を見出すことだろう。というのは,この国家は正当に,自分自身に克っていると呼ばれてしかるべきだと,君は主張するだろうからだ―いやしくも,自分のなか のよりすぐれた部分が劣った部分を支配しているようなものは,節制があり,自分自身に克っていると呼ばれるべきであるならばね」(431A)

今度は<節制>の追求に入っていますが,「おのれに克つ」という言い回しについて,「おのれに克つということはおのれに負けるということだから矛盾するのでは?」とソクラテスがちょっと寄り道します。現代でもよく使う言い回しですが,当時でもあったのですね。
そしてここでソクラテスが言う「おのれに克つ」ということが<節制>だというのは,実感があります。ただここで話題になっているのはどちらかといえば国家としての<節制>で,後に続きます。

「他方しかし,単純にして適正な欲望,知性と正しい思わくに助けられ,思惟によって導かれる欲望はといえば,君はそれを少数の,最もすぐれた素質と最もすぐれた教育を与えられた人々のなかにしか,見出さないだろう」
「そのとおりです」と彼は答えた。
「それでは,こうした事情がちゃんと君の国家のなかに存在していて,そこでは,多数のつまらぬ人たちのいだく欲望が,それよりも数の少ない,よりすぐれた人々の欲望と思慮の制御のもとに支配されているのを,君は目にするのではないかね」(431C)

ここでは,国の<知性>に当たる人たちの欲望が正当化され―正当化というか,その人たちの欲望が「善」を求めるものだという前提があると思いますが―,その他多数の欲望が「つまらぬ」もの,という言い方がなされます。
ここは民主主義的ではなく,僭主制のようなものを志向するプラトンの考えがよく分かるという気がします。しかしそれは現実を直視して目をそらさなかったからではないか,ということだとも現代の視点からは思います。

「では,国民たちがそのような状態にあるとき,<節制>は彼らのどちらの側にあると君は言うだろうか。支配する人々のうちにあるのだろうか,それとも支配される人々のうちにあるのだろうか?」
「どちらのうちにも,でしょう」と彼は答えた。
「とすれば,わかるかね?」とぼくは言った,「ついさっきわれわれが,<節制>は調和に似たところがあると予言したのは,間違っていなかったわけだ」
「どうしてですか?」
「こういうわけだ。―<勇気>と<知恵>の場合は,どちらも国家のある特定の部分のうちに存在することによって,一方は国家を知 恵のある国家として,他方は勇気ある国家にするということだったが,<節制>はそうではない。それは国家の全体に,文字通り絃の全音域に行きわたるように行きわたっていて,最も弱い人々にも強い人々にも,またその中間の人々にも,完全調和の音階をもとに同一の歌を歌わせるようにするものなの だ。ここで言う強い人々と弱い人々とを区別する点は,知恵であれ,力であれ,人数の多少であれ,財産であれ,その他これに類する何であれ,君ののぞむまま の観点であってよいのだがね。いずれにせよこのようにして,われわれは,まさにこのような合意こそが<節制>にほかならないと,きわめて正当 に主張することができるだろう―すなわちそれは,国家の場合であれひとりひとりの個人の場合であれ,素質の劣ったものとすぐれたものの間に,どちらが支配 すべきかということについて成立する一致協和なのだ」(431E)

ということで,<知性>や<勇気>とは違い,<節制>というのは支配する側とされる側の合意・調和,ということになります。これもなるほどという思いはありますが,他方で,支配される側が支配する側を認める,というのはなかなか大変なものであるという気もします。

「それでは,グラウコン,いまこそわれわれは,狩人のように藪を取り囲んで,どうかしたはずみに<正義>が逃げ出して姿を消し,行方不明にならないよう注意を集中していなければならない。どこかこのあたりにいることは,もう間違いないのだからね。」(432B)
「しめたぞ,グラウコン!どうやらわれわれは,手がかりとなる足跡をつかんだようだ。もうけっして逃げられるようなことはないと思う」
「それは吉報ですね」と彼が言った。
「なんとまあ」とぼくは言った,「われわれも間抜けだったものだ」
「とおっしゃると?」
「しっかりしてくれたまえ,君!」とぼくは言った,「もう長い間,最初からわれわれの足元をうろつきまわっていたようなのだよ。それがなんと,われわれの 目には入らなかったわけで,まことに笑止千万というほかはない。自分でちゃんと手に持っているものを探しまわる人がよくいるものだが,われわれもまさにそ のとおり,それに目を向けもしないで,どこか遠くのほうばかり眺めてしらべていたわけだ。われわれが見のがしていたのも,おそらくそのためだろう」 (432B)

ということで,後に残る<正義>の番になりましたが,ここは面白い部分です。残る<正義>を取り囲んで逃すまいとするソクラテスの意気込みも面白いのですが,「それは吉報ですね」とか適当に流すグラウコンも面白いです (笑)。まあ翻訳なので何ともいえませんが。
それと,何かを探していて実は手に持っていた,というのも当時からあったのだなあと思います。自分もペンをなくしたと思ったら持っていたりポケットに入っていたりということがよくあります。その,手に持っていたものが何かということが次です。

「それでは」とぼくは言った,「ぼくの言うことに一理あるかどうか,聞いてくれたまえ。―つまり,われわれが先に国家を建設していたとき,いかなる場合にも守らなければならぬ原則として最初に立てたこと,そのことが,あるいは少なくともそのことのひとつの形態が,ぼくの思うには,とりもなおさず<正義>にほかならないようなのだ。ではわれわれが原則として立て,その後もなんどもくり返して口にしたことは何であった かといえば,それは,君が憶えているなら,こういうことだったはずだ―すなわち,各人は国におけるさまざまの仕事のうちで,その人の生まれつきが本来それに最も適しているような仕事を,一人が一つずつ行なわなければならないということ」
「たしかにわれわれは,そのように言っていました」
「そして,自分のことだけをして余計なことに手出しをしないことが正義なのだ,ということも,われわれはほかの多くの人たちから聞いてきたところだし,自分でもしばしば口にしたことがあるはずだ」
「ええ,たしかに」
「そこで,友よ」とぼくは言った,「おそらく,そのことがある仕方で実現されたものが<正義>なのではあるまいか―この『自分のことだけをする』ということが。どうしてぼくがそう考えるか,わかるかね?」(433A)

ということで,<正義> =「自分のことだけをする」ということが言われます。唐突に言われると,それが何故<正義>なのかよく分からないところですが,確かに一人がそれぞれのことを1つだけ行なうべきだというのは何度も言われてきたことです。

「ところでまた」とぼくは言った,「それらの徳のうちで,とくにどれが国の中に生じた場合に,われわれの国家をすぐれた国家たらしめることに最も大きく寄与するであろうかということを,もし判定しなければならないとしたら,これは判定しにくい問題となるだろう。いったいそれは,支配する人々とされる人々との間の意見の一致なのか,それとも,何が恐るべきもので何がそうでないかについての法にかなった考えが,軍人たちのうちに保持されることか,それとも,支配者たちのうちにある守護のための知恵なのか,それともまた,このこと―各人が一人で一つずつ自分の仕事を果し,それ以上の余計なことに手出しをしないというこの原則―が,子供のうちにも女のうちにも,奴隷のうちにも自由人のうちにも職人のうちにも,支配者のうちにも支配される者のうちにも実現されるならば,ほかならぬそのことこそが,国家をすぐれたものとするのに,他の何にもまして寄与するのであろうか…」(433C)

<正義>の追求の中での一節ですが,ここでは言及される順に<節制><勇気><知恵>そして<正義>とはなんなのかのコンパクトなまとめになっています。そしてどれが一番重要であるかとも問いますが,ここでは<正義>も他の3つと同等に重要であるというくらいしか言われません。

「しかしながら,思うに,生まれつきの素質において職人であるのが本来の人,あるいは何らかの金儲け仕事をするのが本来である人が,富なり,人数なり,体の強さなり,その他これに類する何らかのものによって思い上ったすえ,戦士の階層のなかへ入って行こうとしたり,あるいは戦士に属する者がその素質もないのに,政務を取り計らって国を監視・守護する任につこうとしたりして,これらの人々がお互いの仕事道具や地位を取り替える場合,あるいはまた,同じ一人の人間がこれらすべての仕事を兼ねて行なおうとするような場合は,こうした階層どうしのこのような入れ替りと余計な手出しとは,国家を滅ぼすものであるということに,君も同意見だろうと思う」
「ええ,完全に同意見です」
「してみると,三つある種族の間の余計な手出しや相互への転換は,国家にとって最大の害悪であり,まさに最も大きな悪行であると呼ばれてしかるべきだろう」
「まさにそのとおりです」
「しかるに,自分の国家に対する最大の悪行こそは,<不正>にほかならないと君は言うだろうね?」
「ええ,むろん」(434A)

「職人や,金儲けをする人」「戦士」「国を監視・守護する人」という三つの種族が,それぞれ分を弁えずに他の種族に手出ししたりすることは国家を滅ぼすので<不正>であると言われます。またここでは省いていますが,よって逆にそれぞれの自己本来の仕事を守ることが<正義>である,とも言われます。
現代でも,一番分かりやすいのは「文民統制」が必須とされ,軍部大臣現役武官制が否定されているようなことでしょう。それは常識になっていますが,寧ろ逆に政治が色んなことに口を出して他の専門分野を弱めたり意気を阻喪させたりすることのほうが可能性は高いかもしれません。
それと個人的には,このような完全分業と,逆に一人が色んな責務を兼務するというのは,ある一方に傾いた時にはすでに逆側への欲求が発生するように思っています。サインカーブのように,2回微分すると常に正負が逆転するというか。よく分業されている場合は,横断的な役割の人が欲しいと思うし,逆に一人が色んな役割を担っていると,個々の技術が稚拙になるのでもっと分業を進めて欲しいと思います。まあ理想国を考えるにあたってはどうでもよいことですが,これも同じで,理想国が実現しつつあるからこそ現実を考えずにはいられないということでもあるはずです。

「しかしさしあたっていまは,前からの考えに沿った考察を,終りまで進めることにしよう。すなわちわれわれは,こう考えたのだった―<正義>の考察のためには,それをもっているもののうちで,より規模の大きなものを何か先に取り上げて,先にそのなかでそれを観察してみるならば,一個人のうちにおける<正義>がどのような性格のものであるかを,見きわめるのが容易になるであろう,と。そしてわれわれには,そのような規模の大きなものとは,国家にほかならないと思われた。そういうわけでわれわれは,われわれにできるかぎりのすぐれた国家を建設してきたのだった。<正義>はすぐれた国家のうちにこそあるだろうことを,よく知っていたので。
そこでいま,その国家のなかにわれわれが見出したものを,こんどは個人の場合に当てはめてみることにしよう。そして,もしそのまま承認されるならそれでよいし,またもし個人の場合には何か違ったものとして現われるのであれば,もういちど国家の場合に立ちかえって,吟味しなおしてみなければならないだろう。おそらくは,そのようにして両者をつき合せてしらべ,両者を擦り合せて行くうちに,やがてあたかも火切り木から火花が出てくるように,<正義>を明らかにして輝き出させることができるだろう。そしてそれが明らかになったならば,われわれは自分自身のうちでそれを確かめてみるべきだろう」(434D)

ということでここまでで国家の<正義>の考察は終わり,個人としての<正義>に考察が移ります。
何度も言ってきていますが,国家と個人は相似であるという前提でまず規模の大きい国家としての<正義>を追求し,それから個人にもその<正義>を適用しようという話の流れです。といっても,ここまでの国家としての話は,そのまま個人も適用できそうなものばかりで,実際そうなのですが,プラトンらしい独特の表現が沢山出てくるので面白い部分です。

メモ(3)に続く…。

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