プラトン『国家』第七巻メモ(1)

プラトン『国家』((プラトン全集 (岩波) 第11巻,岩波文庫『国家』(下)) 第七巻を読んだときのメモ第1弾。
随分間が空いてしまったので,ちょっとストーリーを忘れ気味です…。

第六巻の後半では,イデアに関する3つの比喩のうち「太陽の比喩」と「線分の比喩」が語られて終わりました。第七巻はその続きで,「洞窟の比喩」からたちまち入ります (なぜ「洞窟の比喩」だけ第七巻になったのか?と素人考えには思います)。このメモ第1弾では,「洞窟の比喩」に関わる前半部分だけを書く予定です。

この「洞窟の比喩」,本を読めば書いてあるのでここでは詳しく述べませんが,単独でもすごく面白いです。以前,「100分de名著」という NHK E テレの番組でプラトンの『饗宴』がテーマになっていましたが,そのときの第4回に何故か?「洞窟の比喩」が結構出てきていて,その時の図が分かりやすくてお気に入りです。

洞窟の比喩

「100分de名著」の『饗宴』で出てきた,「洞窟の比喩」の絵。

以下は読書時のメモです。

「こうして,このような囚人たちは」とぼくは言った,「あらゆる面において,ただもっぱらさまざまの器物の影だけを,真実のものと認めることになるだろう」(515C)

前述したように,洞窟の比喩の説明については割愛していますが端的なまとめです。洞窟の奥しか見られないように縛り付けられた人=囚人は,後ろから映されたもの (=影) しか見えないのでそれを真実だと思い込むと。

「彼らの一人が,あるとき縛めを解かれたとしよう。そして急に立ち上がって首をめぐらすようにと,また歩いて火の光のほうを仰ぎ見るようにと,強制されるとしよう。そういったことをするのは,彼にとって,どれもこれも苦痛であろうし,以前には影だけを見ていたものの実物を見ようとしても,目がくらんでよく見定めることができないだろう。
そのとき,ある人が彼に向かって,『お前が以前に見ていたのは,愚にもつかぬものだった。しかしいまは,お前は以前よりも実物に近づいて,もっと実在性のあるもののほうへ向かっているのだから,前よりも正しく,ものを見ているのだ』と説明するとしたら,彼はいったい何と言うと思うかね?そしてさらにその人が,通りすぎて行く事物のひとつひとつを彼に指し示して,それが何であるのかをたずね,むりやりにでも答えさせるとしたらどうだろう?彼は困惑して,以前に見ていたもの[影]のほうが,いま指し示されているものよりも真実性があると,そう考えるだろうとは思わないかね?」(515C)

いきなり真実を見せても,直視できないし信じることもできないだろう,「目が痛くなり,向き返って,自分がよく見ることのできるもののほうへと逃げようとするのではないか。そして,やっぱりこれらのもののほうが,いま指し示されている事物よりも,実際に明確なのだと考えるのではなかろうか?」(515E) ということが言われます。現実的です。

「だから,思うに,上方の世界の事物を見ようとするならば,慣れというものがどうしても必要だろう。―まず最初に影を見れば,いちばん楽に見えるだろうし,つぎには,水にうつる人間その他の映像を見て,後になってから,その実物を直接見るようにすればよい。そしてその後で,天空のうちにあるものや,天空そのものへと目を移すことになるが,これにはまず,夜に星や月の光を見るほうが,昼間太陽とその光を見るよりも楽だろう」(516A)

なので一気に真実を見せるのではなく,少しずつ目を慣れさせるべきだと。この辺り,割と当たり前の話がなされている感じはしますが,前に話された「太陽の比喩」が当然前提になっている喩えでもあります。

「するとどうだろう?彼は,最初の住いのこと,そこで<知恵>として通用していたもののこと,その当時の囚人仲間のことなどを思い出してみるにつけても,身の上に起ったこの変化を自分のために幸せであったなどと考え,地下の囚人たちをあわれむようになるだろうとは,思わないかね?」(516C)

一旦太陽そのものを見るに至り,それが「自分たちが地下で見ていたすべてのものに対しても,ある仕方でその原因となっているものなのだ」(516B) ということを悟ったら,似像を真実だと思っている地下の囚人のことを憐れむだろうと。

「地下にいた当時,彼らはお互いのあいだで,いろいろと名誉だとか賞讃だとかを与え合っていたものだった。とくに,つぎつぎと通り過ぎて行く影を最も鋭く観察していて,そのなかのどれが通常は先に行き,どれが後に来て,どれとどれが同時に進行するのが常であるかをできるだけ多く記憶し,それにもとづいて,これからやって来ようとするものを推測する能力を最も多くもっているような者には,特別の栄誉が与えられることになっていた。」(516C)

ちょっとドキリとさせられる部分です。会社などの組織でうまく手柄を上げて昇進するような人を連想します(空想ですけど)。会社のトップであっても同じでしょう。ただ,現実社会でそれが必ずしも悪いこととも思えません。「善」ではないことは確かですが。

「そこでもし彼が,ずっとそこに拘禁されたままでいた者たちを相手にして,もう一度例のいろいろの影を判別しながら争わなければならないことになったとしたら,どうだろう―それは彼の目がまだ落着かずに,ぼんやりとしか見えない時期においてであり,しかも,目がそのようにそこに慣れるためには,少なからぬ時間を必要とすれば?そのようなとき,彼は失笑を買うようなことにならないだろうか。そして人々は彼について,あの男は上へ登って行ったために,目をすっかりだめにして帰ってきたのだと言い,上へ登って行くなどということは,試みるだけの値打さえもない,と言うのではなかろうか。こうして彼らは,囚人を解放して上のほうへ連れて行こうと企てる者に対して,もしこれを何とかして手のうちに捕えて殺すことができるならば,殺してしまうのではないだろうか?」(516E)

これは,解説にも書かれていることですが,それを見るまでもなく『ソクラテスの弁明』で描かれるソクラテス裁判を思い浮かべます。また,『ゴルギアス』でも似たことが書かれていました (517D も合わせて) が,その時は「迎合としての弁論術を持ち合わせていないがために死ぬのなら運命を受け入れる」ということが述べられていました。
また,「100分de名著」でも言われていましたが,もしそうやって「真実を見よう」といって地下から囚人たちを上へ連れて行こうとする人がいたら,その人の方が「お前こそ現実を見ろ!」と地下の囚人たちから言われて罰を受ける,というのはありそうなことです。
1つ前の部分もそうですが,「民主主義」(民主制)という観点からすると必ずしも間違っていないんじゃないか,という感じがしてしまうところはあります。もっと正確に言うと,間違っていると思っていてもそれが世間には受け入れらないんじゃないか,という感じでしょうか。

「知的世界には,最後にかろうじて見てとられるものとして,<善>の実相 (イデア) がある。いったんこれが見てとられたならば,この<善>の実相こそはあらゆるものにとって,すべて正しく美しいものを生み出す原因であるという結論へ,考えが至らなければならぬ。すなわちそれは,<見られる世界>においては,光と光の主とを生み出し,<思惟によって知られる世界>においては,みずからが主となって君臨しつつ,真実性と知性とを提供するものであるのだ,と。そして,公私いずれにおいても思慮ある行ないをしようとする者は,この<善>の実相をこそ見なければならぬ,ということもね」(517B)

一応比喩自体の説明は終わって,再度善のイデアの話になりますが,ここでは「線分の比喩」と「太陽の比喩」が合わさったような感じで,コンパクトにまとまっています。
ここに至ると,「洞窟の比喩」というのはある意味では現実とイデア界の連続性の導入のようにも思えます。それは地下にいる人が急に太陽を見ても目がくらむので徐々に目を慣らす必要があるとか,地下の人に太陽を急に見ろと言っても逆に追い落とされるといった例にあるように,「あなたは線分上のどこにいる」とか「太陽を見ていない」といった 0 と 1 のような論理というか理屈だけで行っても無茶で,時間的・空間的に飛躍はできないということがいえるかもしれません。

「そもそも教育というものは,ある人々が世に宣言しながら主張しているような,そんなものではないということだ。彼らの主張によれば,魂のなかに知識がないなら,自分たちが知識をなかに入れてやるのだ,ということらしい―あたかも盲人の目のなかに,視力を外から植えつけるかのようにね」
「ええ,たしかにそのような主張が行なわれていますね」と彼は言った。
「ところがしかし,いまのわれわれの議論が示すところによれば」とぼくは言った,「ひとりひとりの人間がもっているそのような[真理を知るための]機能と各人がそれによって学び知るところの器官とは,はじめから魂のなかに内在しているのであって,ただそれを―あたかも目を暗闇から光明へ転向させるには,身体の全体といっしょに転向させるのでなければ不可能であったように―魂の全体といっしょに生成流転する世界から一転させて,実在および実在のうち最も光り輝くものを観ることに堪えうるようになるまで,導いて行かなければならないのだ。そして,その最も光り輝くものというのは,われわれの主張では,<善>にほかならぬ。そうではないかね?」
「そうです」
「それならば」とぼくは言った,「教育とは,まさにその器官を転向させることがどうすればいちばんやさしく,いちばん効果的に達成されるかを考える,向け変えの技術にほかならないということになるだろう。それは,その器官のなかに視力を外から植えつける技術ではなくて,視力ははじめからもっているけれども,ただその向きが正しくなくて,見なければならぬ方向を見ていないから,その点を直すように工夫する技術なのだ」(518B)

プラトンの教育論?といったような内容といえるでしょうか。真理を知るための能力は予め魂の中に備わっていて,教育とは「向け変えの技術」である,というのは『メノン』などで言われる所謂「想起説」に基づく内容といえると思われます。
個人的にはこの後の例 (引用は略) も含めて『荀子』の性悪説を思い浮かべますが…。

「そこで,われわれ新国家を建設しようとする者の為すべきことは,次のことだ」とぼくは言った,「すなわちまず,最もすぐれた素質をもつ者たちをして,ぜひとも,われわれが先に最大の学問と呼んだところのものまで到達せしめるように,つまり,先述のような上昇の道を登りつめて<善>を見るように,強制を課するということ。そしてつぎに,彼らがそのように上昇して<善>をじゅうぶんに見たのちは,彼らに対して,現在許されているようなことをけっして許さないということ」
「どのようなことを許さないと言われるのですか?」
「そのまま上方に留まることをだ」とぼくは言った,「そして,もう一度前の囚人仲間のところへ降りて来ようとせず,彼らとともにその苦労と名誉を―それがつまらぬものであれ,ましなものであれ―分かち合おうとしないということをだ」(519C)

少し前ですが,ここの後半で言われている「そのまま上方に留まる」人を,「<幸福者の島>に移住した人」と語られています。真実を知っている人にとっては,そのままでいる方が幸福だが,しかし降りていって,似像を真実だと思っている人に伝道しなければならないと。
ただ,これを実践して殺されたのがソクラテスか?という気もします。他方で現代の「哲学」者もそうなのかもしれませんが,学問という枠内や,頭の中だけで何かやっているだけに甘んじていて (それが仕事だとすれば仕方ないと思いますが),現実世界に訴えかけるということはあまりないのではと思います。プラトンが言う「哲学者」と現代の「哲学」を専門とする人に対して感じる言いようのない断絶は,<幸福者の島>にい続けようとするかどうかの違いなのかもしれません。官僚出身の政治家は多くても,哲学出身の政治家なんてあんまり聞きませんしね。
それが現在の政治というものの原因なのか帰結なのか。
ただ一応,ここでソクラテスは,指導者としての教育の一部として哲学を学んだ場合である,ということを言っています。現代のように,大学で自分の好きなことを自由に学ぶのであれば,それを国家の役に立てるというのも<幸福者の島>に居続けるのも自由,ということになるのかもしれません。しかしそれは,勿体ないと思いますけどね…。

「『そしてこのようにしてこそ,われわれと君たちの国家には,目覚めた正気の統治が行なわれることになり,けっして現今の多くの国々におけるように,夢まぼろしの統治とはならないだろう。現在多くの国々を統治しているのは,影をめぐってお互いに相戦い,支配権力を求めて党派的抗争にあけくれるような人たちであり,彼らは支配権力をにぎることを,何か大へん善いこと (得になること) のように考えているのだ。しかしおそらく,真実はこうではあるまいか。つまり,その国において支配者となるべき人たちが,支配権力を積極的に求めることの最も少ない人間であるような国家,そういう国家こそが,最もよく,内部的な抗争の最も少ない状態で,治まるのであり,これと反対の人間を支配者としてもった国家は,その反対であるというのが,動かぬ必然なのだ』」(520C)

二重に括弧がついていますが,この部分はソクラテスが<幸福者の島>に居続けようとする哲学者に対して言おうとする言葉です。
「支配権力を求めることの最も少ない人間が支配者になれば,抗争の最も少ない状態で治まる」という下りは印象的です。まあ,常に本当を目指すのなら,そんな権力闘争をしている暇はないということでしょう。次にも関係してきます。

「もし君が,支配者となるべき人たちのために,支配者であることよりももっと善い生活を見つけてやることができるならば,善い政治の行なわれる国家は,君にとって実現可能となる。なぜなら,ただそのような国家においてのみ,真の意味での富者が支配することになろうから。真の意味での富者とはすなわち,黄金に富む者のことではなくて,幸福な人間がもたねばならぬ富―思慮あるすぐれた生―を豊かに所持する者のことだ。
これに反して,自分自身の善きものを欠いている飢えて貧しい人々が,善きものを公の場から引ったくって来なければならぬという下心のもとに公共の仕事に赴くならば,善い政治の行なわれる国家は実現不可能となる。なぜならその場合,支配の地位が人々の闘争の的となるため,この種の争いが内部から生じて固有の禍いとなり,彼ら自身のみならず,その他の国民同胞をも滅ぼしてしまうからだ」(521A)

この前半のように,政治を一段上から見下ろせるようなものが,真の哲学者の生活であるとソクラテスは言っています。
さて,なぜこういったことが現在の政治家には感じられないのか,と考えるとやはり絶対に正しいものというのはなくて,何が正しいのかは個人によって異なるという民主主義的な?前提があると思います。そこで共通に価値がある (と思われている),金銭や物質的な裕福,身体的な健康といったものを尺度として国民に訴求していくしかなくて,なかんずく「金(カネ)」なのでしょう。
それはどうしてもそうなるような気もしますが,政治家自身がそういうものを専ら追求していては,ソクラテスに言わせれば「善きものを欠いている飢えて貧しい人々」ということになるのでしょう。

ということで,今回は以上。
第7巻はまだまだ続き,では実際にそういう支配者となる人間にするにはどういった教育をなせばよいのか,ということがテーマになっていきますが,続きは第2弾にて。

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