プラトン『国家』第七巻メモ(3)

プラトン『国家』((プラトン全集 (岩波) 第11巻,岩波文庫『国家』(下)) 第七巻を読んだときのメモ第3弾。

第七巻では,ここまで支配者になる人間に課すべき教育内容について述べられてきましたが,ここからはいよいよその最高峰である「哲学的問答法」(ディアレクティケー) についてです。
ある意味では,プラトンらしさが全開になるところである,とも言えると思います。端的に言えば,哲学的問答法とはイデアにアプローチする最善の方法,ということになるでしょう。つまりこれまで他の対話篇を含めてソクラテスを通して実践されてきた対話というものが,3つの比喩によって描かれてきた<善>そのものであるイデアというものに結実する瞬間です。
別にイデアという考え方を用いなくとも (僕自身も割とどうでもよい),真理を求める,くらいの意味でも十分に通用すると思います。まあ,対話で真理が得られる,と言われても若干首をかしげたくなるところもありますが,実際どうなのでしょうか。
それから,実際に教育を施す期間などについて述べられます。

以下は読書時のメモです。

「それでは,グラウコンよ」とぼくは言った,「いまようやく,ここに本曲そのものが登場することになるのだ。この本曲を演奏するのは,哲学的な対話・問答にほかならない。それは思惟によって知られるものであるけれども,比喩的にこれを再現しようと思えば,先に述べた視覚の機能に比せられてよいだろう。すなわち,すでにして実物としての動物のほうへ,天空の星々のほうへ,そして最後には太陽そのもののほうへと,目を向けようとつとめるとわれわれが語った,あの段階がそれである。ちょうどそれと同じように,ひとが哲学的な対話・問答によって,いかなる感覚にも頼ることなく,ただ言論 (理) を用いて,まさにそれぞれであるところのものへと前進しようとつとめ,最後にまさに<善>であるところのものそれ自体を,知性的思惟のはたらきだけによって直接把握するまで退転することがないならば,そのときひとは,思惟される世界 (可知界) の究極に至ることになる。それは,先の場合にわれわれの比喩で語られた人が,目に見える世界 (可視界) の究極に至るのと対応するわけだ」
「ええ,まったくそのとおりです」と彼は言った。
「ではどうかね,このような行程を,君は哲学的問答法 (ディアレクティケー) と呼ばないだろうか?」(532A)

ということで,(メモ(2)で言われた個々の学科については「前奏曲」とした上で) ここで「本曲」たる「哲学的問答法」という言葉が導入されました。ここで言われている内容は,太陽の比喩,線分の比喩で言われていたことが使われていると思います (省略しましたが少し後に,洞窟の比喩で言われたことも繰り返されています)。

「われわれがこれまで述べてきたいくつかの学術を研究することは,全体として,ちょうどこれに相当するような効果をもっているわけであって,それは,魂のうちなる最もすぐれた部分を導いて,実在するもののうちなる最もすぐれたものを観ることへと,上昇させて行くはたらきをするものなのだ。ちょうど先の場合に,肉体のうちなる最も明確な部分[目]が,目に見える物体的な世界のうちなる最も輝かしいもの[太陽]を見るところまで,導かれて行くのと同じようにね」(532C)

これまで取り上げてきた学術は,ここで述べられている意味において通底しているということでしょう。
メモ(2)でも書きましたが,さまざまな学科を学ぶことは,(単なる知識としての) 教養を身につけるためではない。それらの「和集合」としての知識ではなく,それらの「共通部分」としての真理を観る力を得るという意味において有用ということをプラトンは言っているのだと思います。

「しかしこれらの学術は,われわれの見るところでは,自分が用いるさまざまの仮設を絶対に動かせないものとして放置し,それらをさらに説明して根拠づけるということができないでいるかぎりにおいて,実在について夢みてはいるけれども,醒めた目で実在を見ることは不可能なのだ。なぜなら,そもそもの出発点として,自分がほんとうには知らないものを立てておいて,結論とそこに至る中間は,その知らないものを起点として織り合わされているとすれば,そのようにして得られた首尾一貫性が,どうして知識となることができようか?」
「けっして知識とはなりえません」と彼は答えた。
「そこで」とぼくは言った,「哲学的問答法の探求の行程だけが,そうした仮設をつぎつぎと破棄しながら,始原(第一原理)そのものに至り,それによって自分を完全に確実なものとする,という行き方をするのだ。そして,文字通り異邦の泥土のなかに埋もれている魂の目を,おだやかに引き起して,上へと導いて行くのだ―われわれが述べたもろもろの学術を,この転向(向け変え)の仕事における補助者としてまた協力者として用いながらね」(533C)

「自分がほんとうには知らないものを立てておいて,結論とそこに至る中間は,その知らないものを起点として…」というところは,少しドキリとするところです。自分が学んだことというのは,そういうものばかりではないかと。
そしてこの起点 (仮設) を問い,始原 (→510B) に到達することが,プラトンのいう「哲学」ということになるのではないか,と思います。

「そもそもまた,哲学的問答法の心得があると君が呼ぶのは,それぞれのものの本質を説明する言論を求めて手に入れる人のことではないか。そしてそれができない者は,本質を説明する言論を自他に対して与えることができないかぎりにおいて,その当のものについて<知>をもっているとは言えないと主張するのではないか?」(534B)

流れに埋もれてはいますが,個人的には,ここがジャストな答えという印象でした。何度か読み返してやっと気づきましたが。なぜ<善>を得るのに対話が必要なのか,というのは,「ものの本質を説明できるということは知っていること」ということなのですね。
ただ半面,暗黙知のようなものはどうなのかなあ,という気もします。本当に対話 (哲学的問答法) という形を取らないと,「始原への到達」というものができないのでしょうか?対話によっては得られないものもあるのではないでしょうか?そう考えると,プラトンがいう<知>というのは案外限定されたものであるのかもしれません。確かに対話によって,つまり説明できるもの→<知>というのは明らかですが,逆も満たすものだけをここで<知>と言っているのかもしれません。

「それなら,善についても同様ではあるまいか。他のすべてのものから<善>の実相を区別し抽出して,これを言論によって規定することのできない人,―思わくを基準とするのではなく,事柄自体のあり方を基準として吟味しようと熱心につとめながら,あたかも戦場におけるがごとく,吟味のためのあらゆる論駁を切りぬけ突破して,すべてこうしたなかを不倒の言論をもって最後まで進みおおせるということのできないような人―そのような人は,<善>そのものはもとより,他のいかなる善きものをも知ることがないと,君は言うのではないか。かりにたかだか,その影のようなものに触れることがあったとしても,それは思わくによって触れているのであって,知識によるものではなく,かくてこのような人は,今生を夢と眠りのうちに過しながら,この世で目を覚ますより前に冥界へ行ってしまい,こんどこそ完全な眠りにおちてしまうことになるのではないか?」(534B)

「他のすべてのものから<善>の実相を区別し抽出」というのは,前奏曲といわれた学術から「共通部分」を得る,と私がさっき述べたことと同じと言えると思います。「思わくによって触れているのであって,知識によるものではない」という部分はソフィストを連想します (→『ゴルギアス』)。

「それでは」とぼくは言った,「哲学的問答法というのはわれわれにとって,もろもろの学問の上に,いわば最後の仕上げとなる冠石のように置かれているのであって,もはや他の学問をこれよりも上に置くことは許されず,習得すべき学問についての論究はすでにこれをもって完結したと,こう君には思われないかね?」(534E)

一応ここで哲学的問答法についての対話は一区切りとなりました。重大なテーマだったと思いますが割とあっさり終わりました。

「それでは」とぼくは言った,「あと君に残っているのは配分の仕事,―以上見てきた諸学科を誰に,どのような仕方で課すべきかという問題だ」
「ええ,明らかに」と彼。
「では君は,先に行なった支配者の選抜のことを憶えているだろうか―どのような者たちをわれわれが選び出したかを?」(535A)

ということで,第七巻の残りは「配分の仕事」となります。先の「支配者の選抜のこと」というのは第三巻の後半に言われたことだと思います。その時との違いは,ここでは<善>(のイデア) というものが導入されていることでしょう。

「また真実ということに関しても」とぼくは言った,「われわれはこれと同じように,次のような魂を不具とみなすべきだろう。すなわち,故意の偽りに対しては憎しみをもち,そういう嘘をつくことに自分でも堪えられず,他人の嘘にもひどく憤慨するけれども,故意でない偽りはしごく寛容に受け入れ,自分の無知がさらけ出されても苛立ちもせず,豚のように,無知の泥にまみれて汚れていてもいっこうに平気な魂のことだ」(535D)

色々と哲学を学ぶための資質について言われます。体育は好きだが学問は嫌いという,苦労を厭う人 (逆も) はダメだとか。その中でここの言葉は少し引っかかりました。故意のものだけでなく,故意でない偽りに対して憎しみを持たないのもダメだと。ただ偽りというのが「嘘」ではなく「無知」ということなら納得できます。

「しかしとにかく話しているぼくには,そう思えるのだ」とぼくは言った,「だがそれはそれとして,このことは忘れてしまわないようにしよう,―つまり,先に述べた選抜では,年を取った人たちをわれわれは選び出したけれども,今回はそれが許されないということだ。なぜなら,ソロンは老年になっても多くのことを学ぶことができると言ったけれども,それを信じてはいけないのであって,学ぶことは走るのよりも,もっとだめだろうからね。むしろ大きな苦労,たくさんの苦労はすべて,若者たちにこそふさわしいのだ」(536C)

確かに「先に述べた選抜」の時は,「年長者じゃないといけないの?」と思った記憶があります。ただ「学ぶことは走るのよりも,もっとだめ」というのはちょっと意外ではあります。しかし上にも書いたように,今は<善>が導入されているので,その意味においては若いうちから学ばないといけないということなのかもしれません。「三つ子の魂百まで」と言いますが,年を取っても知識は増やせても,魂は確かにある時期に定まるという気はします。

「ほかでもない」とぼくは言った,「自由な人間たるべき者は,およそいかなる学科を学ぶにあたっても,奴隷状態において学ぶというようなことは,あってはならないからだ。じじつ,これが身体の苦労なら,たとえ無理に強いられた苦労であっても,なんら身体に悪い影響を与えるようなことはないけれども,しかし魂の場合は,無理に強いられた学習というものは,何ひとつ魂の中に残りはしないからね」(536E)

さらに「自由に遊ばせるかたちをとらなければいけない」とも続けています。
一般に,プラトンに「自由」というのはあまり連想できないかもしれません。第三巻で言われた守護者の条件でも,共同生活して報酬はないとか,全然自由という感じではなかったですが,教育に関しては自由にやらせ,強制してはダメだと明確に言っています。これは現代の感覚でも古びていないと感じます。

「君は気がついていないかね?」とぼくは言った,「現在この問答の技術による哲学的議論には,どれほど大きな害悪がまつわりついているかということに」
「どのような害悪でしょう?」
「それにたずさわる人々が」とぼくは言った,「法を無視する精神にかぶれるようになるということだ」
「たしかにそのとおりです」と彼。(537E)

グラウコンは「たしかにそのとおりです」と即答しましたが,どういうことなのでしょう?
この後実例の話になりますが,<善>と法律を対比させると,まあそういうものという気はします。法律については,プラトンも『国家』~『ポリティコス(政治家)』~『法律』,と考え方がだんだん変遷していったとどこかで読んだ記憶があり,『国家』の段階ではあまり信頼を置いていなかったと思われます。

「われわれは子供のときから,何が正しいことであり美しいことであるかということについて,きまった考えをもたされていると思う。われわれは,ちょうど親のもとで育てられるようにして,それらの考えのなかで育てられてきているのだ。その権威に屈指,それを尊重しながらね」(538C)

「それならどうだろう」とぼくは言った,「このような状態にある人がやがて問を受けることになって,<美しいこと>とは何であるかと問いかけられ,法を定めた人から聞いたとおりを答えたところ,言論の吟味にかけられて論駁されたとする。そして何度も何度もいろいろの仕方で論駁されたあげく,自分が教えられてきたことはなにも美しいことではなく,醜いことなのかもしれないと考えざるをえないようになり,さらに<正しいこと>や<善いこと>や,これまで最も尊重してきたさまざまの事柄についても同じことを経験したとする。このような場合,そうした教えに対する尊重やその権威への服従という点に関して,その人の態度はそれから以後どのようになると思うかね?」(538D)

ということで対話の結果,法律を軽視することになることもあるだろうということになります。今の日本では,法律を守ることは大きな前提として考えてしまうところがあるので,そういう考えに至りづらいと思いますが,その法律とは一体何で,どのように決まったのかというところまで考えると,それが絶対ということでもないと思うかもしれません。

「それでは,そういういたましいことが君の選んだ三十歳の人たちに起らないために,言論の習得に着手させるにあたっては,あらゆる用心と警戒が必要なのではないだろうか」
「ええ,大いに」と彼。
「では,そういう用心のための重要な一策は,そもそも若いときにはその味をおぼえさせないということではあるまいか。」(539A)

これもまた,権利や自由を尊重する現代では問題視されそうな意見だと思われます。良くも悪くもプラトンらしいという気はします。

「その期間は」と彼がたずねた,「どのくらいとされますか?」
「十五年間だ」とぼくは答えた,「そして五十歳になったならば,ここまで身を全うし抜いて,実地の仕事においても知識においても,すべてにわたってあらゆる点で最も優秀であった者たちを,いよいよ最後の目標へと導いて行かなければならない。それはつまり,これらの人々をして,魂の眼光を上方に向けさせて,すべてのものに光を与えているかのものを,直接しっかりと注視させるということだ。そして彼らがそのようにして<善>そのものを見てとったならば,その<善>を範型 (模範) として用いながら,各人が順番に国家と個々人と自分自身とを秩序づける仕事のうちに,残りの生涯を過すように強制しなければならない。すなわち彼らは,大部分の期間は哲学することに過しながら,しかし順番が来たならば,各人が交替に国の政治の仕事に苦労をささげ,国家のために支配の任につかなければならないのだ。そうすることを何かすばらしい仕事とみなすのではなく,やむをえない強制的な仕事とみなしながら―。そしてこのようにしながら,つねにたえず他の人々を自分と同じような人間に教育し,自分にかわる国家の守護者を後にのこしたならば,彼らは<幸福者の島>へと去ってそこへ住まうことになる。」(540A)

十五年間,というのは「洞窟」の中にいさせる期間のことです。そしてその後で選抜された者は,「順番が来たら政治に苦労を捧げる,それをやむをえない強制的な仕事とみなす」と。この部分は今までにも何度か出てきていますが,特徴が出ていると思います。そもそも,政治家をしょうがなくやる,という超然とした人は例えば日本に実際にいるんでしょうか(笑)。
孔子は「五十にして天命を知る」と言いましたが(『論語』),いずれにせよ50歳くらいではまだまだこれからということなのでしょう。

「ソクラテス,あなたは統治する男たちを」と彼は言った,「まるで彫像家がするように,この上なく立派な姿に仕上げられましたね」
「統治する女たちもだよ,グラウコン」とぼくは言った,「というのは,ぼくが話してきたことは,けっして男たちだけのことではなく,女たちのなかから生まれつき充分な力量をもった者が出てくる場合には,まったく同等にそのような女たちについても言われてきたのだと,考えてもらわなくてはこまるからね」
「正当な御注意です」と彼は言った,「いやしくも女たちが,われわれの論じたように,すべての仕事を男たちと共通に分担すべきであるからにはね」(540C)

男と女については,第五巻でさんざん言われたことですが,生物学的な素質として<善>というものの追求に関して男女差があるとは思えないし,ここでそれが言われていると思います。

「そのとき彼らは」とぼくは言った,「現在国の中にいる十歳以上の年齢の者を,すべてのこらず田舎へ送り出してしまうだろう。そしてその子供たちを引き取って,いま親たちがもっているさまざまの習性から引き離したうえで,まさにわれわれが先に詳述したような,彼ら自身のやり方と彼ら自身の法のなかでこれを育てるだろう。―このようにすれば,われわれが説いたような国家と国制は最もすみやかに,かつ最も容易に確立されて,国自身が幸福になるとともに,国を成立させている民族も最も多くの恩恵に浴することになるだろうと,認めてくれるかね?」(540E)

仮に今まで言われてきたような人が支配者になったとして,実際に国家を再編成するための手段が言われます。
ただこのリセットの仕方はかなり無理筋という感はしますがね。

「それではもうこれで」とぼくは言った,「この国家についても,それからまたこの国家に相似た人間についても,われわれの議論はじゅうぶんに尽くされたことになるのではないか?そういう人間をわれわれが,どのような人でなければならぬと言うことになるかは,これもまた明らかだろうからね」
「ええ,明らかです」と彼は言った,「そしておたずねに対しては,たしかに議論はこれで片づいたと答えられるように思えます」(541B)

読み手としての僕はもうすっかり迷子になってしまったような気がしますが(笑),ここで国家と人間についてのテーマが終わったようです。もとはと言えば,第四巻の最後で次は国制について論じようと予告したのに,第五巻でポレマルコスやトラシュマコスが異議を唱えて引き留めたのでした。次の第八巻でようやくその国制についての話が始まります。
第四巻のメモを最後に書いたのは2014年4月なので,個人的には9か月越しにやっと脱線から戻ることになります(汗)。

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