プラトン『国家』第八巻メモ(1)

プラトン『国家』((プラトン全集 (岩波) 第11巻,岩波文庫『国家』(下)) 第八巻を読んだときのメモ第1弾。

第七巻メモ(3)の最後でも述べましたが,第四巻の最後に予告された,国制についての話題が漸く再開されます。具体的には,これまで述べられてきた理想的な国家<優秀者支配制(アリストクラティアー)>に対して,<名誉支配制><寡頭制><民主制><僭主独裁制>が論じられます。基本的には,先に挙げたものが優れていて,後に挙げたものが劣ったものであるとプラトンは考えていたようで,どのようにして優れた国制が劣った国制になってしまうのか,ということも述べられます。同時に,それぞれの国制に対応した個人の性質・性格も述べられます。

現代の先進国では<民主制>が必要かつ十分な国制だと考えられていると思います。一方で問題も認識されていると思いますし,内部的には<寡頭制><僭主独裁制>的なところも十分にありそうな気がします。なのでそれ以外の制度だったらどうなのだろう?と思わないこともないと思います。そこへ行くと,「真顔で」別の国制について書かれているというのは現代では意外と貴重かもしれません。当時のプラトンはただ研究的だったのだと思いますが。

ただ,後で述べますが<優秀者支配制>が<名誉支配制>に移行する過程というのだけはちょっと異色です。そこは良くも悪くもプラトン的です。

以下は本文を読んだ時のメモです。

「つまり,あのときあなたは,ちょうど先ほどと同じように,国家のことについてはすでに論じ終えたものとして話をすすめられていて,それまでに述べたような国家を善い (すぐれた) 国家と定めよう,またその国に対応する相似た人間を善い (すぐれた) 人間と定めよう,と言っておられました。それもどうやら,あのときあなたはもっとすぐれた国家と人間のことを語ることができたはずですのにね。しかしそれはともかく,国の正しいあり方がそれであるとすれば,それ以外の国家は間違ったあり方の国家であると,あなたは言われました。
そして,残りのそのような国制については,私の記憶するところでは,あなたはそれには四つの種類があると言われて,それらもまた論じるに値するものであり,それらの国制の間違っている点と,さらにそれらに対応する人間たちのことをよく見なければならぬと言われたのです。それはほかでもない,そうした人間をすべて見て,どれが最善の人間でどれが最悪の人間であるかを同意によって確かめたうえで,はたして最善の人間が最も幸福であり,最悪の人間が最も不幸であるか,それともそうではないかという問題を,われわれが考察するためであるということでした。
そこで私が,その四つの国制とは何をさして言っておられるのかをおたずねしたところ,ちょうどそのときポレマルコスとアデイマントスが口をさしはさんだのです。そしてそういう次第で,あなたは彼らの議論を取り上げたうえで,ここまでやって来られたのです」
「大へん正確に思い出させてくれたね」とぼくは言った。(543C)

ということで,第四巻の最後で予告された国制の話が,第五巻で割り込まれて「3つの大波」の話題になり,またその後「太陽」「線分」「洞窟」の3つの比喩により<善>のイデアが説かれ,そして支配者のために必要な教育について論じられ…漸くここで再開されることになりました。

「ぼくが言おうとしている国制は,一般に通用している名称をもったものばかりだからね。すなわち,まず,多くの人々から賞讃されているところの,かのクレタおよびスパルタふうの国制がある。それから,第二番目の国制で第二番目に賞讃されているもの,<寡頭制>と呼ばれている国制があり,これはじつに多くの悪をはらんでいる国制だ。それから,その敵対者であり,それにつづいて生じてくる<民主制>。そして,これらすべての国制にたちまさる高貴な<僭主独裁制>,これが第四番目にあって,国家の病として最たるものだ。」(544C)

具体的に4つの国制が言及されます。「クレタおよびスパルタふうの国制」については<名誉支配制>と後で呼ばれます。
微妙に皮肉が混じっていてよく分かりづらいのですが,優れているものから<名誉支配制>→<寡頭制>→<民主制>→<僭主独裁制>となっていると言われています。また右に示したものは,左に示したものが劣化したものというような描かれ方になっています。

「そうすると,つぎにわれわれは,それより劣った人間たち―すなわち,まずスパルタふうの国制に対応する人間としての,勝利を愛し名誉を愛する人間を,そしてさらに寡頭制的な人間,民主制的な人間,僭主独裁制的な人間のことを,論究して行かなければならないわけだね?その目的は,最も不正な人間を観察し,これを最も正しい人間に対置させることによって,そもそも純粋の<正義>は純粋の<不正>に対し,それを所有する人間の幸福と不幸という点から見てどのような関係にあるか,というわれわれの考察を完成させることにある。そうすればわれわれは,トラシュマコスに従って<不正>を求めるべきか,それともいま示されつつある言説に従って<正義>を求めるべきかを,決めることができるだろうからね」(545A)

この章の骨組みが示されます。「そうすると」,と頭にあるのは,哲学者が支配する理想の国制<優秀者支配制>及びそれに似た人間については十分に考察され,それが善く正しい人間であると結論づけたということです(544E)。

「―お前たちが言うように組み立てられた国家が,変動をこうむるということは,たしかに起りがたいことではある。しかしながら,およそ生じてきたすべてのものには滅びというものがあるからには,たとえそのように組み立てられた組織といえども,けっして全永劫の時間にわたって存続することはなく,やがては解体しなければならぬであろう。
その解体は,次のようにして起る。」(546A)

最善国家であるならば,最善であるがゆえに滅びも起らないはずだが,それがなぜ滅びて<名誉支配制>になってしまうか。ということが,ムゥサの女神たちに語らせる形でこの後続くのですが,この解体の話は省略します。非常に難解な箇所で,何故か?直角三角形とか調和級数などが出てきます。文庫版でも解釈が補注として別に大きく述べられています。
省略はしますが,しかし非常にプラトンらしいところだと思っています。『ティマイオス』にもつながる宇宙観に基づいていると思います。なので現代の目から見るとやはりオカルトっぽさがあります。一言で言えば「運」ということだと私は単純に思いますが,そこで妥協せずに,ゲームやプログラムのランダム性を生じさせる乱数を解析するような勢いがあります。
しかし国家の悪化は変化によっておこるというのはちょっと重要かも (ポパーも似たようなことを指摘していた気がします)。

「争いが起ると」とぼくはつづけた,「二つの種族がそれぞれ別の方向へ国を引っぱろうとした。すなわち,鉄と銅の種族は金儲けと,土地や家や金や銀の所有のほうへと引っぱり,他方,金と銀の種族は,生まれつき貧しくはなく魂において富んでいるから,徳と昔からの制度のほうへ導こうとした。こうして互いにはげしく争い対抗し合っているうちに,やがて彼らは妥協して,土地や家を分配して私有することに同意し合い,またそれまで自由人として彼らにより守護されていた友や養い手たちをいまや隷属化して,従属者として家僕として所有しながら,自分たちは戦争と,この人たちへの監視に専念することにした」(547B)

理想国家では,土地や金は全て共有されるものであると第三巻で言われていましたが,省略したムゥサの女神の話の内容に基づいて,それが段々崩れていってしまうと。金,銀,鉄・銅の種族というのも第三巻で述べられていたことです。

「それでは,国のあり方に変化が起るのは以上のようにしてであろう。ところでしかし,変化したあとの国は,どのような統治のあり方をとるだろうか?それとも,あらためて言うまでもなく,この国制は以前の国制と寡頭制との中間にあるのだから,ある点では以前の国制に似ているが,他の点では寡頭制に似ることになり,さらにこの国制自身に固有の点をも,もつことになるのではないだろうか」(547C)

ここで,まだ説明されてない寡頭制を出すのはちょっと違和感がありましたが(プラトンの著作に前提知識を要求されることは基本的にない),すぐ後に「こういう寡頭制の特徴と似ている」という説明があります。両方説明してしまおうという一種のレトリックかなというところで面白いです。

「しかしこの国制におけるもっとも際立った特徴はといえば,それは気概の性格が支配的であることから由来しているただ一つの点だけなのだ。すなわち,勝利と名誉を愛し求めることが,それだ」(548C)

<名誉支配制>の特徴の分かりやすい箇所です。

「そしてまたこのような人間は」とぼくはつづけた,「若い時には金銭を軽蔑するけれども,年を取るにつれて,しだいにますます金銭に愛着を寄せるようになるのではないかね。それは,もともと彼が金銭を愛する性質を分けもっているからでもあるが,同時にまたこのような人間は,徳の最上の守り手を欠いているために,純粋で確固とした徳をもっていないからなのだ」
「その最上の守り手とは,何でしょう?」とアデイマントスがたずねた。
「文芸・音楽の教養 (ムゥシケー) とねり合わされた理論的知性 (ロゴス) のことだ」とぼくは言った,「ただこれだけが,いったん形成されると,一生その人のなかに住みつづけて,徳を救い守る力となるのだ」(549B)

国制の説明の後に,国制に対応する人間について考察される部分です。これはその後に出てくる国制についても同じような展開で,その前の国制から何かが欠けて悪い国制になってしまう,ということになっています。
ここの<名誉支配制>的人間とは,一部だけ抜き出しましたが簡単に言えば,<優秀者支配制>的人間から「徳」が失われた人間,ということになると思います。

「他方,このような人間がどうして出来上るかといえば」とぼくは言った,「その次第は次のとおりだといってよい。―ときとしてこのような人はすぐれた父親をもつ若い息子だったのだが,その父親は,あまりよく治められていない国に住んでいて,さまざまの名誉だとか役職だとか裁判事だとか,すべてそういったわずらわしい関わり合いを逃れて生き,自分の権利を放棄してでも何とかして面倒を避けようと願うような人であり…」(549C)
「その息子は,まず,母親からいろいろとぐちを聞かされるだろう。つまり母親は,自分の夫が役職についていないのに不満だし,そのためにほかの女たちのあいだで肩身がせまい。それに彼女の見るところ,夫はいっこうに金銭のことに熱心でないし,私的な裁判や公の集会で勇ましく戦ったり口論したりすることもなく,その種の事柄にはいっさい無関心の様子である。夫の注意は彼自身に向けられていて,妻である自分のことは,対して尊重してくれるでもなければ,さりとて軽蔑するでもないことをいつも感じている。すべてこういったことから彼女は苛立って,息子に向かってぐちをこぼすことになるのだ」(549C)

ここで言われている父親というのは,勝利や名誉,財産には無欲で,とても自省的な人間のようです。父親としてはどうかと思わないでもありませんが個人的には共感します。少し飛ばして次に続きます。

「さて,そうなるとこの青年は,すべてこのようなことを聞いたり見たりしながら,他方ではしかし,父親の言葉を聞き,父親の生き方を近くから見て他の人々のそれと比較対照させるので,その両方から引っ張られることになる。すなわち,父親のほうは,彼の魂のなかの理知的な部分をうるおして成長させ,他の人々のほうは,欲望的な部分と気概の部分を養い育てるのだ。こうして,もともと彼は素質の上で劣悪な人間として生まれついてはいなかったのに,他の人々とのよくない交わりをもったために,その両方から引かれて中間に落着くことになり,自分の内なる支配権を,中間的な部分としての勝利を愛する部分,気概の部分へと引きわたして,かくて傲慢で名誉を志向する人間となったのだ」(550A)

国制と同じで,気概の部分が支配的になると述べられます。幾分トートロジ的な議論にも思えますが。

「ところで,思うに,いま述べた国制のあとに来る国制といえば,<寡頭制>がそれだということになるだろう」
「あなたの言われる<寡頭制>とは」と彼がたずねた,「どのような制度のことでしょうか?」
「財産の評価にもとづく国制だ」とぼくは言った,「つまり,金持が支配し,貧乏人は支配にあずかることのできない国制のことだ」(550C)

ここからは<寡頭制>に移ります。ここで言われている国制の定義は,「寡頭制」という言葉からはちょっとイメージしづらい (文字通り言えば,「少数派支配制」などと置き換えられるものを想像してしまう) ですが,文庫の解説によるとこの規定内容はアテナイの実際の寡頭制理念に即したものであった (トゥキュディデス『歴史』など) らしいです。

「各人がもっている,金のいっぱい入った例の宝蔵が,先のような国制を滅ぼすのだ」とぼくは言った,「すなわち,まず彼らは,自分自身のための金の使い道を見つけ出して,それに都合のよいように法を曲げるのだ。彼ら自身もその妻たちも,法に従わずにね」
「そういうことになるでしょうね」と彼。
「ついで,思うに,彼らはお互いのやり方を見て競い合うことにより,自分たちのところの大多数の者を,同じそのような人間に仕上げることになる」
「そういうことになるでしょうね」
「そしてそれからは」とぼくは言った,「彼らは殖財の道をひたすら前進して,金をつくることを尊重すればするほど,それだけますます徳を尊重しないようになる。富と徳とは,元来そういう対立関係にあるのではないだろうか―いわば,両者のそれぞれを秤の皿の上に乗せると,つねにまったく正反対のほうに傾く,といったようなね」(550E)

この「金権政治」の国制では,金を儲けることが第一目的になってしまうのは明らかです。そして金を儲けた自分たちに都合のよい法を作ることに熱心になり,徳を求めることもしなくなってしまうと。尤も徳については<名誉支配制>の段階で失われていたとはいわれていました。

「こうして最後に,彼らは勝利を求め名誉を愛する人間であることをやめて,金儲けを求め金銭を愛する人間となり,そして金持の人を賞讃し讃歎して支配の座につけ,貧乏な人を軽んじることになるのだ」
「たしかに」
「まさにこの時点において,彼らは寡頭制国家の基準を規定した法律を制定する。すなわち,その国における寡頭制の度合いの強弱に応じて大きかったり小さかったりする金額を定めたうえで,財産がその規定額に達しない者は支配の役職に参加できないことを,宣告するのだ。そして,こうした法律の内容を武器に用いた強制的な力で実行に移し,あるいは,そこに至る前に脅迫することによって,このような国制を確立するわけだ。そうではないかね?」(551A)

という,こうして言われると身も蓋もない政治手法ですが,制度としてこうあるのであれば寧ろ潔い気もします。現実には,1人1票は平等にあるとしても,儲かっている企業が献金して自分たちに有利な立法を政治に働きかけたりとか,金を持っている者が政治に与える影響が大きいのは現今の国制にも実態として当てはまると思われるからです。

「それではよく見てくれたまえ―こうしたすべての欠点のなかでも,次のような点は,この国制にいたって初めて許されるようになる最大の悪ではないかということを」
「どのような点がですか?」
「自分の持物のすべてを売り払うことができて,他人がそれを手に入れることが許されるということ,そして売りつくした後,国の構成員としてのなんらの役割も果すことなしに,国家のうちに住みつづけることが許されるという点だ―商売人でもなければ職人でもなく,騎兵でもなければ重装歩兵でもなく,ただ貧民・困窮者と呼ばれながらね」(552A)

これは後半は「労働の義務」がない,という意味でしょうか。ただこの後で,「そのように落ちぶれた人は,まだ富裕で贅沢をしていたころでも,いくらかでも国家の役に立っていたのだろうか?」(552B) と追及されます。
この辺りは自分もたまに考えます。小さいころは「労働の義務」というのを習いましたが,現実には不動産を持っていたり株取引をしたりして,いわゆる労働というか,何らかの価値を社会に与えずに生活している (と思われる) 人もたくさんいると成長して知ったからです(勿論納税はするわけですが)。働かないと生活の糧を得られない人からすれば,そういった人がいるのは<寡頭制>的といえるのかもしれません。

「では,先に見た名誉支配制的な人間から寡頭制的な人間への変化は,とりわけ次のようにして起るのではないだろうか」
「どんなふうにですか?」
「こういう場合を考えてみたまえ。―名誉支配制的な人間に子供がいたとして,その子供は,最初のうちは父親に負けまいとつとめて,その足跡を追っていたが,やがてその父親が突然,暗礁に衝突するように国家と衝突して,自分の所有物も自分自身も失ってしまうのを目にするとする。つまりその父親は,将軍の地位にあったり,何かその他の重要な役職にあったりしたのだが,やがて法廷に引き出されるような羽目におちいり,中傷者たちに痛めつけられたあげく,死刑にされたり,追放されたり,市民権を奪われて全財産を失ってしまったりするわけだ」
「ありそうなことです」と彼は言った。(553A)

ここから寡頭制的人間の成り立ちが言われます。

「そして思うに,その大王の足もとのそれぞれの側に,理知的部分と気概の部分とを地面に坐らせて,召使としてはべらせることになる。そのうえで,理知的部分に対しては,どのようにすれば金がもっとふえるかということ以外には何も計算し考察することを許さず,他方,気概の部分に対しては,富と富者以外の何ものも讃歎し尊敬しないように命じ,また財貨の所有とそれに役立つこと以外のいかなることにおいても,名誉心を満足させることを許さないのだ」
「名誉を愛する野心的な青年が金銭を愛する人間へと,それほど急速にまた確実に変化して行く事情としては,ほかには考えられませんね」と彼は言った。(553D)

金の亡者になってしまうと。<名誉支配制>では理知的部分が失われていたと思いますが,<寡頭制>では加えて気概の部分も失われて,(金銭に対する) 欲望的部分のみが残ったという感じでしょうか。

「とにかく何かさもしくて」とぼくはつづけた,「どんなことからでも利益をあげては食を立てるような人間なのだ。こういう人々をしも,大衆は褒め讃えるものだがね。―こういうのが,あの寡頭制国家に似ている人間ではないだろうか?」
「そうだと私は思います」と彼は言った,「とにかく,あの国家においても,そのような人間においても,何よりも尊重されるのはお金なのですからね」
「思うに,それというのも」とぼくは言った,「そのような人間は教育に心を向けなかったからなのだ」(554B)

寡頭制=とにかく金,ということしか言われていないような気がしてきます。

「だから,そのことから明らかなように,このような人間は,そのほかのいろいろの取引において,正しい人であると思われてよい評判を得ているような場合には,一種すぐれた自制力によって,自分の内にある他の悪い欲望を抑えているのだ。ただしその抑制は,それがよくないことだという説得によるものではなく,理によって欲望をおとなしくさせるのでもなく,一般に自分の財産のことが心配なので,やむをえぬ強制と恐れによってそうするのだがね」(554C)

金銭に対する欲望は尽きないが,自制心はあると述べられます。この部分は,第二巻で述べられていた「不正な人間=不正を犯しても正しいと思われる人間」というテーマを思い出します。

「さらにまた,このけちな人間は,国のなかで個人的に何か勝利を争ったり,立派な名誉を競い合ったりするような場合,まことに取るに足らぬ競争相手でしかないのだ。彼は名声のため,またすべてこの種の競争のために金を費やす気持にはなれない。浪費的な欲望を目覚めさせて,勝利を求めて共に戦うよう招集するようなことになりはしないかと,それがこわいからだ。こうして彼は,寡頭制的な人間 (オリガルキコス = 小数を支配する者) にふさわしく,自分がもつ数少ない力でしか戦わないから,ほとんどの場合打ち負かされることになるが,富は確保するというわけだ」(555A)

正直に言うと,この辺は自分も当てはまるような気がしています。前も述べましたが,制度としては民主主義でも,実態としては金を持っていることが優遇される世の中であり,人間として筋を通しても報われない時があるので自衛手段としてそういう生き方も取り入れざるを得ない…ということも言えるのかなと思います。ソクラテスには怒られそうですが。

ということでここまでで<優秀者支配制>→<名誉支配制>→<寡頭制>の変遷と特徴が述べられてきました。
次は<民主制>ですが,それは次回とします。

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