プラトン『国家』第九巻メモ(1)

プラトン『国家』((プラトン全集 (岩波) 第11巻,岩波文庫『国家』(下)) 第九巻を読んだときのメモ第1弾。

第八巻で,国制の話がなされ,<優秀者支配制><名誉支配制><寡頭制><民主制><僭主独裁制>について順に論じられましたが,<僭主独裁制>は途中までだったため,この第九巻はその続きから始まります。

長かった『国家』も,哲人政治,イデア (3つの比喩),国制といったヤマ場を越えながら段々収束に向かっていきます。序盤に張った伏線も少しずつ回収されているといった感もあります (といっても私自身も序盤をだいぶ忘れていますが)。
このメモも,だいぶ途中の中断が長かったりしましたが,多少力を抜いて終わりまで行ければと思います。

以下は読書時のメモです。

「ところで」とぼくは言った,「なおまだ物足りないと感じる点があるのだが,何かわかるかね?」
「どんな点でしょう?」
「欲望に関することだ。どれだけの数のどのような欲望があるかということを,われわれはまだじゅうぶん確定的にとらえていないような気がする。この点が不完全のままだと,われわれが目標としている問題の探求も,それだけ不明確なものとなるだろう」(571A)

僭主独裁制的な人間の考察の前に,欲望に関する話が入ります。第八巻でも,民主制の考察の谷間に「必要な欲望」「不必要な欲望」についての補題が入りましたが,その続きのような話です。

「不必要であるような快楽と欲望のうちには,不法なとも呼ばれるべきものがあるように思われる。そうした欲望はおそらく,すべての人の内に生まれついているものなのだが,しかし法によって懲らしめられ,また知性に助けられた他のより良い欲望にたしなめられて,ある人々の場合にはすっかり取り除かれ,残ったとしてもわずかで力の弱いものとなる。」(571B)

「眠りのうちに目覚めるような欲望のことだ」とぼくは言った,「すなわちそうした欲望は,魂の他の部分,理知的で穏やかで支配する部分が眠っているとき,他方獣的で猛々しい部分が,食物や酒に飽満したうえで,跳びはねては眠りを押しのけて外へ出ようと求め,自分の本能を満足させることを求めるようなときに,起るものだ。」(571C)

誰にでも恐ろしい欲望はあるが,それは法や知性によって抑制されると言われます。その欲望は「眠りのうちに目覚める欲望」だという言い方がされます。結構省略していますがこの後で,前に出てきた魂の理知的部分,欲望的部分,気概的部分をよく呼び覚まして眠ればそれは起きないということが言われます。

「しかしわれわれはこうした話に少し深入りしすぎて,わき道にそれてしまった。われわれが知りたいとのぞんでいる肝心の点は,要するに,各人の内にはある種の恐ろしい,猛々しい,不法な欲望がひそんでいて,このことは,われわれのうちできわめて立派な品性の持主と思われている人々とても例外ではないということ,そして,夢の中では,この恐ろしい欲望が明らかに現われること,こういうことなのだ。(572B)」

丸々3章分わき道にそれたりしていたわけで(五~七章),この位普通だと思いますがともあれ今回はすぐ軌道修正します。『歎異抄』の中で「さるべき業縁のもよほさば,いかなるふるまひもすべきとこそ」(第十三条)という言葉がありますが,誰にでも恐ろしい欲望が眠っていてそれがふと表に出るのではと恐れる点は似ているかもしれません。

「ではふたたび」とぼくは言った,「そのような人間がすでに年を取ったとき,彼に若い息子がいて,こんどは彼の習性のなかで育てられた場合を想定してくれたまえ」
「想定します」
「そしてさらに,ちょうど父親の身に起ったのと同じことが,この息子の場合にもくり返されるものと想定してくれたまえ。すなわちこの息子は,あらゆる不法のかぎりへ,誘惑者たちが全き自由と呼ぶところの生き方への,誘い導かれるのであるが,ここで,父親とその他の身内の者たちは先の中間的な欲望を支援し,他方誘惑者たちはこれに対抗して,反対の側を支援するというわけだ。」(572D)

ということで名誉支配性→寡頭制や,寡頭制→民主制と同じ道を辿ります。殆ど省略しますが,親の財産を取り上げたり,暴力を振るうといったようなどうしようもない息子の姿が描かれます。

「昔から恋の神エロースが独裁君主だと言われているのも」とぼくは言った,「こういう事情のためではないだろうか?」(573B)

「そして,わがよき友よ」とぼくは言った,「言葉の厳密な意味において僭主独裁制的な人間が出来上るのは,人が生まれつきの素質によって,あるいは生活の習いによって,あるいはその両方によって,酔っぱらいの特性と,色情的特性と,精神異常的特性とを合わせもつに至ったときなのだ」
「完全にそのとおりです」(573C)

例によって民主制的な人間の中に葛藤がある中で,「彼の内にひとつの恋の欲情を植えつけて…指導者として押し立てようとはかるのだ」(572D) と言われたため,エロースが独裁君主だと言われているようです。恋が理性を狂わせるというのはいくらでもありそうな話ですが,民主制→僭主独裁制の決め手が「恋」であるというのは唸ります。ただどちらかというと,欲望を呼び起こす最強のところのものが「恋」ということで所謂恋愛とは限らないのでしょう。(不必要な)欲望の源泉を「恋」と仮定することはなかなかないと思われるので印象に残ります。
いずれにせよ,誰でもが持っている欲望が呼び起された時に僭主独裁制的な人間になる,というのは怖い話です。

「彼らの内におびただしく孵化したはげしい欲望どもが叫び出し,そして彼らは,いわば他のさまざまの欲望に針を突きたてられるかのごとく,とりわけ,他のすべての欲望を護衛隊として従える恋の欲情そのものによって追いたてられるようにして,荒れ狂いながら,だまし取ったり力ずくで奪い取ったりすることのできる物持が誰かいないものかと,探しまわるのではないだろうか」(573E)

僭主独裁制的な人間がどうなるかですが,ここでも「恋」が出てきました。僭主独裁制のキーワードは「恋」なのでしょうか。

「何ともまあ」とぼくは言った,「僭主的な息子を生むということは,幸せなことのようだね!」
「ええ,まったく」と彼。(574C)

またソクラテスのこの手の皮肉というかボケのやり取りが出てきます。

「これらの考えは,以前,彼自身がまだ法と父親の規制下にあって自分の内に民主制を保っていたころは,睡眠中に夢のなかで解放されるだけのものであった。しかし,恋の欲情の僭主独裁制に支配されるに至って,いまや彼は目覚めながらつねに,かつて時たま夢のなかでしかならなかったような,まさにそのような人間になりきってしまって,どのようなおそるべき殺人からも,おそるべき食い物からも,おそるべき行為からも,身を引くことがなくなるだろう。恋の欲情は彼の内なる僭主(独裁者)として君臨しつつ,ありとあらゆる無政府状態と無法状態のうちに生き,恋自身が独裁者であるがゆえに,いわば国家に相当するところの,その欲情を内にもつ人間を導いて,あらゆる恥しらずのことを行なわせるだろうし,そうすることによって自分と自分を取り巻く騒々しい一団を養って行くだろう。」(574E)

僭主独裁制的な人間の行き着く先がまとめられているような箇所です。繰り返しではありますが,自分に眠る欲望が解放されることの恐ろしさを思わされます。

「それでは」とぼくは言った,「個人としての人間の判定にあたっても,それと同じことを要請するならば,ぼくは正当な要請をしたことになるだろうね。人間について判定する資格のあるのは,ただ,思惟によって人間の品性の内にまで入り込んで見抜く能力のある人,けっして子供のようにただ外から眺めて,独裁政権が外の人々に対して装っている華麗な見せかけによって目を眩まされることなく,じゅうぶんに見抜くような人だけであると,こう主張してよいだろうね?
ぼくとしては,われわれすべてはそのような人の言うところを聞かなければならないと思うのだが,どうだろう?すなわち,われわれが耳を傾けるべき人は,そうした判定能力をもつ上に,僭主と同じ屋根の下に暮したことがあって,家における彼のさまざまの行動に立ち合い,身内の者のひとりひとりに対して彼がどのような態度をとるかに親しく接したことのある人―けだし身内の者たちの中にいるときこそ,舞台用の衣装を脱いだ裸の姿が最もよく見られるだろうからね,―そしてまた公の場において危険に臨んだときの振舞にも,居合わせたことのある人でなければならない。」(576E)

前半は,話の流れとしては当然という感じでプラトンらしい書き方ですが,こういう人が人間について判定する資格がある,というのが自明なのかどうかはよく分かりません。
後半の部分は,第7巻で言われた「幸福者の島」から出てきた人という意味でしょうか。もしくは「洞窟の比喩」において一度外に出た後再び中に戻ったことのある人とも言えるかもしれません。。

「しかるにまた,僭主の独裁のもとに奴隷の状態にある国家は,自分の望む通りのことを行なうということが,最も少ないのではないかね」
「ええ,それはもう」
「してみると,僭主の独裁下にある魂もまた,魂全体について言えば,自分の望み通りのことを最もなしえない,ということになるわけだ。そのような魂は,たえまなく欲望の針によってむりやりに引きまわされて,騒乱と悔恨に満たされていることだろう」(577D)

国家のありようと,その支配者 (=ここでは僭主) の内面 (魂) は似たものであるということが言われた後で上のようなことが言われます (そもそも『国家』の第2巻以降では個人としての正義を考察するために,それよりマクロな人の集まり~国家を考えたのでした)。普通に考えると,例えばブラック企業のトップは社員から搾取して自分はのうのうと贅沢をしていて幸福といえるように思えますが,まあ現代の経済至上主義ではそれはそれで勝ちかもしれませんが,結局は自分の欲望を他人の犠牲に転嫁している時点で実は依存関係が逆転していて,ある種の束縛なのでしょう。

「しかし,こんどは個人としての僭主独裁制的な人間について,君は同じそうしたことに着目しながら,どのように言うだろうか?」
「他のさまざまの人間すべてのうちでも」と彼は答えた,「際立って最もみじめな人間であると」
「その点になると」とぼくは言った,「もはや君の言うことは正しくない」
「どうしてですか?」と彼はたずねた。
「そういう人は」とぼくは言った,「まだ最もみじめな人間であるとはいえないように思うのだがね」(578B)

「それはね」とぼくは言った,「もともと僭主独裁制的な性格の人間である上に,私人としての生活にとどまりつづけることができず,運悪く何かの不幸なめぐり合わせによって,みずからが実際に僭主(独裁者)となる羽目になった人のことだよ」(578C)

僭主独裁制的な人間が最悪ではない,というのは驚くところです。じゃあ何が最悪なのかというと,実際に僭主になった僭主独裁制的な人間と。ちょっと混乱します。角度にラジアンが導入されて,数値に使われていた π がいきなり角度に入ってきたというような感覚です。

「ではどうだろう,―かりにいま,ある神が,50人あるいはもっと多くの奴隷を所有している一人の男を,彼自身と妻子ともども国家のなかから選び出して,自由人の誰ひとりとして彼を助けに来るはずのないような寂しい場所へ,他の財産や召使たちといっしょに置き去りにしたと想像してみよう。そうなったときその男は,召使たちに殺されはしないかと,自分と子供たちと妻の身についてどのように恐れ,どれだけの恐怖におちいるだろうと思うかね?」(578E)

ここはちょっと怖いです。実際に私人として多くの奴隷をかかえているような人 (つまり僭主独裁制的な人間) が,独裁者的な立場においやられていく過程です。「自由人の誰ひとりとして彼を助けに来るはずのないような寂しい場所」でなければ,僭主独裁制的な性格であっても自分の奴隷から反逆されないと少し前に言われていて,それは国家が一般市民を保護しているからと言われています。ただ,今の視点でいえば,反逆が起きた方が寧ろ民主的であるという気もするのですが。

「それでは,僭主(独裁者)とは,まさにそれと同じような一種の牢獄の中に縛られているのではないだろうか―生まれつきわれわれが述べたような性格で,多くのありとあらゆる恐怖や欲情に満ち満ちている人間としてね。」(579B)

やっぱり僭主(独裁者)というのは人の怨みの上に立っているのが違う所だと思わされる一連の流れです。実際の所,誰か他の人を自分と同等に信用するのであればそれは僭主にはならないはずで,逆にそうでないということは常に出し抜かれる緊張を強いられるということでしょう。

「してみると,たとえそう思わない人がいたとしても,真実には,正真正銘の僭主(独裁者)とは,じつに最大のへつらいと隷属を行なうところの,正真正銘の奴隷なのであり,最も邪悪な者たちに仕える追従者にほかならないのだ。彼は自分のさまざまの欲望をいささかでも充足させるどころか,最も多くのものに不足していて,魂の全体を見てとる能力のある人の目には,真実には貧乏人であることが明らかだろう。」(579D)

奴隷(のような民)を所有している僭主が,正真正銘の奴隷だ,というのはパラドックスにも思えます。ここまで読んでいれば当然のようではあり,上にも引用してきたように僭主の魂は隷属状態だと言われています。

「『アリストンの息子は,次のように判定を下した。―最もすぐれていて最も正しい人間が最も幸福であり,そしてそれは,最も王者的で,自己自身を王として支配する人間のことである。他方,最も劣悪で最も不正な人間が最も不幸であり,そしてそれは,最も僭主独裁制的な性格である上に,自己自身と国家に対して,実際に最大限に僭主(独裁者)となる人間のことである』」(580C)

王者支配制的な人間から僭主独裁制的な人間までの5人で,「誰が何位か」という順位付けがされることになり,上記のようなことが言われます (ソクラテスが,こう布告しようか,という形で言うので二重括弧になっています)。最もすぐれた人間は王者であり,かつ自分自身を支配しているというのは前にも述べましたが『大学』の「国を治めるには家を治め,家を治めるには自己を治める」というような一節を連想します(ちょうど父親との関係にも例えられますしね)。

「さらにその布告につけ加えて,こう言い渡してもよいかね?」とぼくは言った,「『たとえすべての人間と神々に,そのような性格の人間であることが気づかれようと気づかれまいと,このことに変りはない』と」(580C)

この付け足しは肝要なところです。「気づかれようと気づかれまいと」というのは,第二巻で「正義や不正という,評判や,周りからどう映るかではなく,正義そのもの」が一体どんな利益があるか,というところから長い長い話が始まったからです(366E 辺り)。

というわけで,第二巻で提示され,その後の長い道を歩むことになった元の命題について,やっと答えらしきものが出てきました。といっても命題自体を忘れてしまったりするほど色々ありましたが…。尤も,答えは名言されなくても,実はずっとソクラテスの土俵で,その答えを前提にした対話が展開されてきたという感じもします。

続きはメモ第2段にて。

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