プラトン『ミノス』(プラトン全集 (岩波) 第13巻) を読んだときのメモ。
本対話篇は,割と珍しく?特に設定がありません。冒頭からいきなり,ソクラテスと「友人」との対話が始まります。この友人が何者かも不明です。筋書きは,初期対話篇などで典型的なパターンで,「~とは何か」ということを対話を通じて明らかにしていこうとします。
その中で過去のギリシアの王について語られ,立派な法律を定めた優れた王として,本対話篇のタイトルである,ミノスのことが語られます。対話相手ではない人物がタイトルになっている,珍しい対話篇です。
副題は「法について」。
ソクラテス「法 (きまり,習俗) というのはわれわれにとってなんであるのかね。」
友人「法 (きまり,習俗) といってもいろいろあるが,君の尋ねているのは,そのうちのどんな法のことかね。」
ソクラテス「なんだって?法と法との間に,法であるというまさにその点においてなにか相違があるのかね。」(313A)
という冒頭から始まります。友人は,例えば民法と刑法 (当時あったのかは知りません) みたいなことを言ったつもりなのでしょうか?それに対してのソクラテスの言葉を見ると,「ははあ,例のパターンだな」と思わずニヤリとしてしまいます。つまり,「何が法か」ではなく「法とは何か」,を明らかにしていこうとするソクラテスと,噛み合わない相手との対話,というパターンかなと思わされます。
なお,「法 (きまり,習俗)」とあるように,いわゆる法律に限らないのだろうと思います。ギリシア語は νόμος (ノモス) です。
ソクラテス「法 (きまり) と法との間には,なんら相違はないだろう,いや,むしろみな同じなのだ。つまり,それらの各々は同じように法であって,ある法はいっそう法であり,ある法はいっそう少なく法であることはないのだ。そういうわけで,そのもの自体を,つまり全体としての法がなんであるかをぼくは尋ねているのだ。」(313B)
法と呼ばれるものの,共通部分を見ている感じは,なんとなく初期対話篇を思い出します。
友人「それなら,法 (きまり) とはきめられていること (=一般に認められていること) でないとしたら,ほかの何かね?」
ソクラテス「すると言 (ことば) もまた君には言われているものだと思われるのかね,あるいは視覚 (見えること) というのは見られているものであり,聴覚 (聴こえること) というのは聴こえているものなのかね。」(313B)
という友人の言葉に対するソクラテスの応答から,「法とはきめられたものではない」ということになります (日本語では紛らわしいですが,「きめられた」というのは完了ではなく受動なのが重要なところです)。
ここは結構唸らされたところで,ソクラテスの言葉を読むと,法というものが何か能動的なものであると感じさせます。普通は友人が言うように,法というのは決められた,静止したものだと思ってしまいそうですが。視覚や聴覚のような,ある感覚的なものを法と言っている?これが違和感でもあり新鮮でもあります。ただこの辺りは,翻訳ということもあってどれだけプラトンの言葉通りに理解できているかは,分かりません。
ソクラテス「もし誰かがわれわれに,今言われたことについて次のように尋ねたとしよう,「見られるものは視覚によって見られると君たちが言う場合,どのようなものとしての視覚によって見られるのか」と。われわれはその人に,両眼を通して事物をあきらかにするものとしての感覚によって,と答えたであろう。…もしその人がわれわれに次のように尋ねたとしよう,「きめられているものは法 (きまり) によってきめられるのであるから,どのようなものとしての法 (きまり) によってきめられるのか。それはある種の感覚によってなのか,それとも説明によってなのか,…それともそれはある種の発見によってなのか」」(313C)
ここの言い回しもプラトンらしさを感じるところです。先ほどの引用箇所で言われたように,法とは「A によって B」の A 側とされたので,ではどのようなものとしての A によってなのかということになります。で,それは発見である,と言われます。
法を作る,何かきまりを作る,ということは一体何でしょう。何らかの事実が発生して,その時の対応を一定のものにする,つまり入力に応じた出力を決める,関数を定義するようなもの,といえるのかもしれません。関数というのはあくまで自分のイメージですが。うまい関数を定義できることが,発見,なのでしょうか。
この後,友人:法とは「国家が議決したものであり,票決されたものである」→ソクラテスに「議決のうち,あるものは有用であり,他のものは有害ではないか」「法は害をなすことはないのではないか」と反駁される場面があります。
ソクラテス「そこで,法を考えるに当っては,なにか美しいものについて考えるのと同じようにしなくてはならず,また,善いものとしてそれを求めなければならない。」(314D)
ソクラテス「法の志向が実在の発見にあることに変りはないが,思うに,人間がいつも同じ法を用いるとは限らないとすれば,それは法の志向するもの,つまり実在を人間はいつも見出し得るとは限らないということだ。とはいえ,さあ,われわれは検討してみようではないか,はたしてこれからことがはっきりしてくるかどうか。すなわち,いったいわれわれはいつも同じ法を用いているのか,それとも時によって別の方を用いているのか。また,われわれすべてのものが同じ法を用いるのか,それとも,人によって別の方を用いるのか。」(315B)
実在,というのは多分不変なもので,イデアと同じ意味でしょうか。なおこの少し前にソクラテスが,「法は思いさだめられたもの (思いなし) である」「真なる思いなしというのは,(思われた通りに) 事実あるものの発見」「してみると法において志向されているのは事実あるもの (実在) の発見」と言われていました。
この直後に,友人による,犠牲の例が離されます…人間を犠牲にすることが,我々の習俗や法にはないが,民族や時代によってはそれが法にかなったことである (あった) と。でもソクラテスは違うことを念頭に置いていたようで,
ソクラテス「君が思っていることを君流に長々と話し,ぼくもまたぼくでそうする限り,思うに,いつになっても決して話がかみ合うことはないだろう。」(315D)
と言われてしまいます。「~は何か」を追求する前期対話篇でよく見られた光景です。なんにせよ,友人が言った犠牲の例は,ソクラテスにとって的を射ていなかったようです。
ソクラテス「さあ,それでは君は認めるかね,正しいことが不正であり,不正なことが正しいのかということを。それとも正しいことは正しく,不正なことは不正であるときめるかね。」
友人「ぼくはだね,正しいことは正しく,不正なことは不正だときめるね」(315E)
いきなり何を言い出すんだという感じですが,これぞプラトン対話篇というところです。
友人「われわれは始終,法律をあっちへ変えたりこっちへ変えたりして正反対に変更している事実に思いを馳せると,僕は信じることができないのだ。」(316B)
これは多分当時の一般的な疑問なのかな,と思います。また現代でも,例えば与党と野党で賛否がはっきり分かれるような法案があったりするので実感があります。
理想的な法とは変える必要がない万能なもので (とプラトンは考えている),それを変えるというのは,改悪にしかならないのだと思います。ただ,そういう法は無限遠みたいなもので,現実に本当にそういう状態になることはない,あったとしても時間等色んなパラメータによって静止しない,という気もします。それを常に無限遠にできるだけ近づけるのが,人間 (政治家) の精一杯の智慧という気もします。
ソクラテス「君は今までに病人の健康について書かれたものを見かけたことがあるかね。」
友人「あるとも。」
ソクラテス「それでは,その書かれたものがなんの技術に関係するものなのか君は知っているか。」
友人「知っているとも,医術に,だ。」
ソクラテス「では君はそれらについての専門の知識をもっている人を医者と呼ぶかね。」
友人「そう。」
ソクラテス「さて,それらの専門的知識をもっている人たちは,同じことについては同じことを認めるか,それとも人によって認めることがちがうのかね。」
友人「彼らは同じことを認めると思うね。」
ソクラテス「彼らが知っていることについて同じことを認めるのはギリシア人同士だけなのか,それとも異国の人だって自分たちの間でも,またギリシア人との間でも同じことを認めるのか」
友人「おそらくギリシア人も異国の人も,知っている人々が自分たちお互いの間で認めあってきめていることは同じである,というのがしごくとうぜんのことだろう。」
ソクラテス「適切な答えだ。そしてさらに,いつもそうなのではないかね。」
友人「そう,いつもそうだということにもなる。」(316C~D)
長く引用しましたが,プラトンが言おうとする「法とは何か」の象徴的な部分がここなのかな,と思いました。
この後,医者が書物にしたためるのは,「医療についての法律」だと言われ,農業,園芸,料理なども同様だと言われ,より一般的に,知識を持っている者によって書かれたものはそれに関する法律であると言われます。そして同様に国政に関して書かれたものが (いわゆる) 法である,ともソクラテスは言います。
ソクラテス「したがって,もしわれわれがどこかで法規をいろいろと変える人に出会うなら,われわれはこのようなことをする人を知識ある人と言うだろうか,それとも知識のない人だと言うだろうか」
友人「知識のない人と言う。」(317B)
これがプラトン一流の「法」の捉え方かと思いました。前の長い引用も合わせると,つまり技術であり,知識にもとづくものであり,不変であると。自分の実感としては,時とともに変えるべきものもある,という気もしますが,そこは変わらない「実在」を追い求める理想とするプラトンなので,さもありなんといったところ。
ソクラテス「してみると,さきにわれわれが法はあるもの (有,実在) を発見することなのだということで意見が一致したけれども,あれは間違っていなかったわけだ。」(317D)
この「法は発見である」というものは,序盤にも出てきました。「関数定義みたいなものか」ということをそこで述べましたが,不変性などもそれなら満たします。とはいえちょっと分かっていないです。埋もれている真理を発見する,発掘する,というような理解でもよいのでしょうか。
ソクラテス「すると,誰がこれらの人々の善き王たちであったか君は知ってるかね。ゼウスとエウロペの子供たちであるミノスとラダマンテュスだ,あの方は彼らのものだ。」
友人「たしかにラダマンテュスは,ソクラテス,正しい人であったが,ミノスの方はなにか野蛮な,始末におえぬ,不正な人だと言われているよ。」
ソクラテス「それはねえ君,アッティケの悲劇のお話だよ。」(319C)
ここで,ミノスの名が現れます。この後,ホメロスやヘシオドスによるミノスの賞讃が引用されていきます。なお余談ですが,ミノスはクレタ島にラビリンスを作った王で,そこに出てくるミノタウロスは,ミノスの牛,という意味らしいです。
ソクラテス「ホメロスは,ミノスが九年目にゼウスと会談し,あたかもゼウスが先生であるかのように,彼から教えを受けようとその許に通ったと述べている。ところでこの名誉,つまり,ゼウスから教育を受けたということを,ホメロスは英雄たちのうち,ミノス以外の誰にも与えなかったということ,これは驚くべき賛辞である。」(319C)
これの他にも色々と引用・言及がなされていますが,ホメロス (やヘシオドス) が,ミノスがゼウスに認められたと書いたことを以て,ミノスが善き王で立派な立法家である,というのも説得力がないように思いますが…。
ソクラテス「クレテでは,ミノスが定めたそのほかの法の中に,お互いに酩酊するまで会飲してはいけないということもその一つとしてきめられてある。しかも,彼がこれを立派なものだと認めて,これを自国民のためにも法規として定めたのだということは明白である。」(320A)
これは個人的には賛成ですね。ミノス素晴らしい。
ソクラテス「さて,ところでこの後,彼が次のようにわれわれに質問するとしよう,ではどうだ,立派な立法者であり,牧羊者であるものが魂に分かち与えて,それを立派にするものはいったいなんだねと。なんと答えれば,われわれ自身にとってもわれわれの年齢にとっても恥とならないかね。」
友人「それを言うことはもうぼくにはできないよ。」
ソクラテス「だが,しかしね,われわれ両人のどちらの魂にとっても恥ずかしいことだよ,魂の善し悪しが依存しているかの魂の内部のことを知りもせず,肉体に関することやそのほかのことを考察したことが明らかにされるならばだね。」(321D)
最終場面です。アポリアに陥っているようですが,「魂に分かち与えて,それを立派にする」ものが法である,ということのように思えます。勿論それが何か,は言えないと言われているわけですが。
メモは以上。『法律』篇の前哨戦のような軽いものかと思っていましたが,法とは何か,ということを考えさせられてなかなか面白い対話篇でした。