プラトン『法律』第一巻メモ(2)

プラトン『法律』(プラトン全集 (岩波) 第13巻) 第一巻を読んだときのメモ第二弾。

第一巻後半は,酒がメインテーマです。前半でも片鱗は見られましたが,一味違うプラトンの飲酒論が見られます。また,「人間は神の操り人形」という,ちょっと深遠さを感じさせる比喩も出てきます。
なぜ,プラトンはここまで酒にこだわるのかな?と第一巻をずっと読んでいると思わされると思うのですが,第一巻の最後を読むと,少し納得する部分があります。プラトンが追求するものとして,他の対話篇で扱われてきたものと同じ水脈から出た一つの顕現にすぎない,という気がします。

以下,読書時のメモです。

メギロス「ともかく快楽に関するスパルタのしきたりは,世にも見事に制定されていると,わたしには思われるのです。というのも,わたしたちの法律は,最大の快楽や倨傲やありとあらゆる愚行に,とりわけ人がおちいりやすい機会を,全国土から追放しているからです。田舎であり町であれ,いやしくもスパルタ人の配慮が届いているところでは,酒宴はもとより,それに伴うあらゆる快楽を最大限にあおり立てるいとなみなど,あなたのお目にとまりはしないでしょう。また,酔っ払って騒いでいる者に出あえば,誰もが直ちに最大の罰を科そうとするでしょう。」(637A)

『ミノス』でも同様のことが言われていましたが,酔っぱらいは私は嫌なのでこれは個人的には歓迎です。この後,アテナイからの客人より,種々の国での酒に関する風習が言われます。

アテナイからの客人「では,およそ次のようなやり方で考察してみようではありませんか。いいですか,一方で山羊の飼育を,山羊という動物そのものはよい家畜だと言ってほめたたえる者がいると,他方別の者は,山羊が群れから離れ,農作地で草をはみ,害をはたらいているのを見て,これを非難するとしましょう。さらにどんな動物にせよ,その番人がいなかったり,感心できぬ番人がついていたりするのを見て,そのようにその動物を非難するとしましょう。そんな場合,わたしたちは,そういう人の非難を,多少とも正常と見なすでしょうか。」
メギロス「どうして正常と見られましょう。」(639A)

本来よいものでも,支配者に恵まれない例が挙げられます。「航海術の知識を持っているが,船酔いをしている人」(639A) という例も出てきます。続きます。

アテナイからの客人「では,ほんらい支配者のそなわっている集団,また支配者がそなわっておれば有益である集団,それがどんな集団であれ,そういうものがあるとして,それを称賛したり非難したりする人がいるとしましょう。その人が,支配者を得て立派な集り方をしているその集団の姿を見たことがなく,支配者がいないか,あるいは感心できぬ支配者を得て集まっている姿ばかりをいつも見てきているとすれば,どうでしょうか。いったい,そのような集団のそのような観察者が,多少とも意味のある非難や称賛をするだろうと思いますか。」(639C)

そのものの有益さを引き出す支配者がいる状態をもって,そのもの自身を評価すべきといった感じでしょうか。個人における「理性的部分」(『国家』)になぞらえて考えることができるのかもしれません。

アテナイからの客人「さて,そこでですよ。そういう集団にはたくさんの種類があるでしょうが,飲み仲間や酒宴も,その集りの一つとすることができるでしょうか。」
メギロス「それはもちろんです。」(639D)

アテナイからの客人「そうなると,素面で知恵のある者を,酔っている人びとの支配者に立てるべきであって,その反対であってはならないでしょうね。というのも,酔っぱらっている連中の支配者となる者が,これも酔っぱらっているばかりか,若くて知恵がないとしたら,それでなにかとんでもない失態をやらかさずにすめば,それこそ,大いなる幸運としなくてはならないでしょう。」(640D)

ということで,酒宴についてもそれが当てはまるのでは,ということが言われます。「飲み会の支配者って何?」というのが率直な疑問ではありますが。でもまあ確かに主催者とか上位者によって,飲み会の在り方が決まってくる,という面はあると思います。

アテナイからの客人「しかしもし誰かが,この上なく誤った扱い方をされているその風習の姿を見てこれを罵るのであれば,その人は明らかに,まず第一に,その風習が正しい仕かたで行なわれているのではないということを知らずにいるのだし,第二に,何事にせよそういうふうに,素面の主人や支配者ぬきで行なわれる場合には,わるく見えるものだということについても,無知でいるのです。」(640E)

クレイニアス「そのことは,まことにおっしゃったとおりですよ,あなた。ですが,つづいて次のことを,わたしたちに話していただきたいのです。もしその飲酒のしきたりが正しく行なわれるなら,それはわたしたちに,どのような善をもたらしてくれるのでしょうか。たとえば,今しがたもわたしたちの話に出たことですが,もし軍隊がしかるべき指揮を得ると,それに服する者たちの上に,戦いの勝利が生じてくるでしょうが,これはささいな善ではありません。他の場合もまた同様です。では,もし酒盛りが正しい仕かたで指導をうける場合,個人あるいは国家に,どのような大きい善が生じてくるのでしょうか。」(641A)

飲酒と善の関係という,一見変なテーマを真顔で論じるのがプラトンのよいところです(親睦が深まる的なことは既に言われています)。そして何故か?飲酒は教育に寄与するところ大である(641C)というようなことも言われます。

アテナイからの客人「日頃わたしたちは,人それぞれの育ち方を非難したりほめたりする場合,誰それは教育があるが,誰それは無教育だと言うものですが,時にはそういう人たちでも,小売りのあきないや蛇取り,その他それに類する仕事の才覚では,相当の教育をうけていることさえあるのに,それでもそのように無教育と言うものなのです。これはつまり,思うに,わたしたちの今の (教育) 議論は,そうした仕事の才覚を教育と心得ている人びとには,かかわるものではない,ということなのでしょう。むしろ,徳を目ざしての子供の頃からの教育を教育と考える人びとの,教育論なのです。」(643D)

ということで,この対話での対象は,かなり限定された「教育」のようです。
ただ,現代でも「教育とは何か」という問いを立てた時に,当てはまりそうな感じも多少あります。さすがに「徳」のためとは言わないと思いますが,「教養」のための教育で,具体的なスキルを対象としたものではないという感じでしょうか。そう考えると,抽象的なものを志向するという点でプラトンらしさはあります。

アテナイからの客人「わたしたちは,わたしたち各自を,それぞれ一個人とみなしていいでしょうね。」
クレイニアス「もちろんです。」
アテナイからの客人「ところが,各人は自分自身の内部に,二人の相反する無思慮な忠告者をもっている,と見なしてもよいでしょうね。その二人の忠告者を,わたしたちは,快楽と苦痛と名づけていますが。」
クレイニアス「そのとおりです。」
アテナイからの客人「その二つにつけ加え,さらに,将来のことについての「思わく」をももっています。その「思わく」の共通の名称は「予想」ですが,個別的には,苦痛の予想は「恐怖」,その反対のもの(快楽)の予想は「大胆」と呼ばれています。ところで,さらにそれらすべてに加えて,それら快苦のどれが善くどれが悪いかに関する「思考の能力」(ロギスモス)があります。そして,もしそれが国家の「共通の意見」になると,「法律」と名づけられるのです。」(644C)

急に何の前触れもなく,快楽と苦痛という忠告者を人は持っている,と言い出しましたが,そこから,その予想を含めた善悪についての共通の意見が「法律」 (個人の場合は「思考の能力」) である,と急に定義しました。こういうことをいきなり言われると,「今までのは何だったんだ?」という気にも多少なりますが,なるほどという内容でもあります。これが次の引用にも適用されてきます。

アテナイからの客人「わたしたち生きものはみな,神の操り人形だと考えてみるわけです。もっとも,神々の玩具としてつくられているのか,なにか真面目な意図があってつくられているのか,それは論外としてね。なぜなら,そんなことは,わたしたちに認識できることではありませんから。だが,次のことなら,わたしたちにもわかっているのです。
わたしたちの内部には,以上の情念が,まるで,なにか腱や絃のように置かれていて,わたしたちを引っ張りまわし,しかもそれらが互いに対立しているものですから,相反する行為へと互いに引っ張り合う,ということです。じつにそこが,徳と悪徳との明瞭な分かれ目になるのです。というのも,この議論の語るところによれば,各人はつねに,引く力のなかの,或る一つのものに従い,いかなる場合もそれから離れぬようにしながら,他の多くの腱に抵抗しなくてはならないのです。そしてその一つの引く力こそは,思考の能力 (ロギスモス) による,黄金でつくられた神聖な導きであり,国家の場合には,「共通の法律」と呼ばれるものなのです。これに対し,他の多くの引く力は,硬質で,鉄よりできていて,ありとあらゆる形態をとっています。しかし,さきの一つの導きは,なにぶんにも黄金でできているため,しなやかなのです。そこで,法律の行う,最高に見事なこの導きに対しては,ひとはつねに協力しなくてはならない。というのも,思考の能力は,見事なものではあっても,反面優しく,力を用いて強要してくるものではありませんから,その黄金の種族が,わたしたちの内部で他の種族に打ち勝つためには,その思考の導きを助ける補助者が必要となるのです。」(644D)

長い引用になりましたが,この比喩は何なのか?と最初読んだ時は底知れぬ感じと共に思いました。再度読んだ時には,卓抜した比喩のように思いました。「人間は神の操り人形の比喩」とでも言えるでしょうか。『法律』篇の全体を象徴する何かを暗示している予感がありますが,どうなのでしょうか…?
神の操り人形とは言いますが,「黄金でつくられた神聖な導き」は,思考によるもので,他力的なもの (神の必然的な力) ではないと思われます。「思考の能力は,見事なものではあっても,反面優しく,力を用いて強要してくるものではありません」というのも,人間の思考の能力というものが,色々と思い通りにならないものに引っ張られながらも,何か前向きなものであるというように感じられます。その,絶対性と他者性と自主性のようなもののバランスが,よく表れた比喩のように思うのです。

アテナイからの客人「では答えてください。その操り人形を酔っぱらわせると,わたしたちは,その人形を,どんな状態にさせるでしょうか。」
クレイニアス「いったいなんの目的があって,繰り返しそんなことをお尋ねになるのですか。」(645D)

酒の話題引っ張るなあ…と,クレイニアスと一緒に思うわけですが,アテナイからの客人 (というかプラトン) が本気であって,これをまとめるためにこそ色々伏線を張っているのだから仕方ありません。

アテナイからの客人「そもそも酒を飲むことは,快楽や苦痛,憤怒や愛欲を,いっそうはげしくするのでしょうね。」
クレイニアス「それは大いに。」
アテナイからの客人「これに対し,感覚や記憶や思わくや思慮の面では,どうでしょうか。同じくそれらを,いっそう強度にしてくれるでしょうか。それとも,もしひとがすっかり酔っぱらってしまうと,それらはその人から,まったく去ってしまうでしょうか。」
クレイニアス「そう,まったく去ってしまいます。」
アテナイからの客人「そうするとその人は,魂の状態において,幼い子供の頃と同様になるのではないでしょうか。」(645D)

この辺りは,先ほどの操り人形の比喩を思い浮かべながら読んでいました。そこでの言葉を使うと,酒を飲むと,色んな情念の力が強くなって,「相反する行為へと互いに引っ張り合う」力も強くなり,かつ「引く力のなかの,或る一つのものに従い,いかなる場合もそれから離れぬようにしながら,他の多くの腱に抵抗」する力が弱まる,ということになるでしょうか。

アテナイからの客人「では,このしきたりには馴染むべきであっても,あるかぎりの力でこれを避けたりすべきではないと,そうわたしたちに説得してくれるような説が,そもそもあるでしょうか。」
クレイニアス「どうやら,ありそうですね。だって,少なくともあなたの主張がそうですし,今しがたもあなたは,それを話すおつもりだったのですから。」(646A)

話の流れ的には,酒など避けるべきとなりそうですが,そうではないと。

アテナイからの客人「さらに,このこともよく知っていますね,彼らがみずからすすんで出かけるのは,そのつらさのあとにやってくる利益のためであることも。」
クレイニアス「よく知っています。」
アテナイからの客人「そうすると,他のしきたりについても,わたしたちは同様に考えるべきではありませんか。」
クレイニアス「まことに。」
アテナイからの客人「では,酒をかこんで閑談の時を過ごすことについてもまた,わたしたちは同様の考えをしなくてはなりません。少なくともそのことが,そうしたしきたりの一つと見られて,それで正しいとすれば。」(646C)

前を省略していますが,「彼らがすすんで出かける」というのはつらい治療を病院に受けに行くことです。
ということで酒にも,病気の治療のように,それ自体は身体にとって善いことではないが,後の利益を考えるとどうか?ということを考えないといけないと言われます。
酒それ自体のことを考えると,むしろその場で気を紛らわすためという感じだと思いますが,確かに宴席とかを考えるとそうかもという気はします。

アテナイからの客人「わたしが二つの恐怖と言ったのは,これらなのです。そのうちの後者 (羞恥心) は,苦痛その他いろいろの恐怖に抵抗するとともに,また最大の快楽のほとんどに抵抗します。」
クレイニアス「まことにおっしゃるとおりです。」
アテナイからの客人「したがって,立法者であれその他誰であれ,多少とも見どころのある者なら誰しも,その恐怖を「慎み」と呼び,これを最大の尊敬をもって貴ぶのではないでしょうか。またこれと反対の大胆さを,「慎みのなさ」と呼び,公私を問わず,万人にとっての最大の悪と見なすのではないでしょうか。」(647A)

羞恥心を貴ぶ,というのは個人的には救われる見解です。人は何故不正をしないのか?と考えた場合,罰を受けるのが怖いからというのもあると思いますが,多少なりともここでいう「慎み」のため,というのが人間的 (動物的ではなく) だと思うからです。

アテナイからの客人「そうなると,わたしたちはみな。恐れない者にも恐れる者にもならなくてはなりません。それぞれの理由がどこにあるのか,それはすでにくわしく話しました。」
クレイニアス「たしかに。」
アテナイからの客人「さらにまた,各人を,さまざまの恐怖からまぬかれた「恐れない者」に仕上げようと望む場合,わたしたちは,法律の助けをかりて彼を恐怖へ導き,もってそのような者たらしめます。」
クレイニアス「あきらかにそうします。」
アテナイからの客人「では,他方,いましめの助けをかりて,誰かを「恐れる者」にしようとする場合は,どうでしょうか。」(647B)

「恐れない者」というのは,敵を前にして恐れないという「勇気」の意味で,「恐れる者」というのは,前の引用の通りで「慎み」「羞恥心」のことだと思います。
さて,「恐れない者」に仕上げるにはいわゆるスパルタ式の訓練などが容易に想像できるわけですが (今の視点でよいかどうかは別にして),では「恐れる者」にするには?

アテナイからの客人「ではどうでしょう。そもそも人間に,恐怖を起こす薬を授けた神がいるでしょうか。ひとがその薬を飲もうとすればするほど,その一服ごとに,ますます自分が不幸になるように考え,わが身の現在未来のすべてに対して恐怖をいだくようになり,最も勇気のある人間ですら,ついにはありとあらゆる恐れにとざされる,だがいったんその飲物から解放されて悪夢から覚めると,いつでも再び元の自分に戻る,というような薬です。」
クレイニアス「いったいあなた,およそこの人の世に,そんな飲物があるなどと,どうして言うことができましょう。」(647E)

まず,人に恐怖を起こす飲み物があるかどうか?ということが問われ,「ない」ということになります。しかし,仮にあれば,お手軽かつ安全に勇気があるかどうかのテストができるので非常に有用である,ということが言われます。続きます。

アテナイからの客人「そこで,もう一度立法者に向かって,次のように言ってみようではありませんか。「それはそれとして,立法者よ,このように恐怖をつくる薬は,どうやら神もこれを人間にあたえられなかったし,わたしたち自身にも,その工夫はついていません,―いかさま師は,仲間とはみなしませんから―,だが反対に,恐れを感じなくなり,大胆であってはならぬことにまで,度外れに,時もわきまえず大胆になること,そういうふうにする飲物ならあるでしょうか。それとも,どう言ったものでしょう」」
クレイニアス「「ある」とおそらく彼は肯定するでしょう。酒がそれだと言いながら。」
アテナイからの客人「その飲物こそは,今言われたものと反対の作用をもっているのではありませんか。」(649A)

ということで,段々と結実してきました。酒が「大胆さを作る薬」であると。そしてこの後,勇敢さが恐怖の真っ只中で訓練されねばならないのと同様に,慎みは大胆不敵になる中で養成されなければならないと言われます。

アテナイからの客人「ところで,次のようなものはみな,わたしたちを,大胆不敵にするものではありませんか。憤怒,愛欲,驕慢,無知,食欲,臆病,さらにまた,富,美貌,強力,その他,快楽によって陶酔させ,錯乱状態におとしいれるいっさいのものです。そこで,一方では,これらの状態の,安上がりで比較的無害なテストを行なうという目的,同時に他方では,その訓練をもかねる,という目的からすれば,酒をかこんでの戯れながらのテスト,―むろん,多少の用心をもって行なわれるとしての話ですが―そのテスト以外に,それよりもずっと適切なものとして,いったいどんな快楽をあげることができるでしょうか。」(649D)

酒を飲むことで,色んな情念が強化されるが,実際に何か事件や事故が起きてそういった強い情念が生まれるよりも「安上がりで比較的無害」なので,テストとして最適である―何という,酒好きが聞いたら口実ができて喜びそうな論でしょう(笑)。いやまあ実際には,テストだと思って飲んでも美味しくはなさそうですが…。ここも当然,「神の操り人形」の比喩を思い浮かべてよいところだと思います。

アテナイからの客人「そうなると,魂の性質や状態を認識するというまさにこの行事 (酒宴) は,魂に関することの世話をしなくてはならぬあの技術にとって,最も有用なものの一つとなるでしょう。その世話は,わたしたちの主張によれば,政治術の仕事だと思われます。そうではありませんか。」
クレイニアス「まったくそのとおりです。」(650B)

ということで,酒宴は,魂の世話をする技術,つまり政治術の仕事にとって最も有用なものの一つ,ということでまとめられ,第1巻は終了します。一般的には酒の効能というと,気分が良くなるとか「百薬の長」とかが挙げられると思いますが,効果はともかく,「慎みを養成するためのテスト」で,政治術に有用であるとは,流石にプラトンは考えることが違う,と感嘆させられる第1巻でした。

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