プラトン『法律』第四巻メモ

プラトン『法律』(プラトン全集 (岩波) 第13巻) 第四巻を読んだときのメモです。

第四巻では,第三巻最後でのクレイニアスによる場面の転換を受けて,空想上の国づくりに着手していきます。しかしいつの間にか,最善の国制は何か?正義とは何か?万物は神が尺度であり,神に気に入られるにはどうすればよいのか?といった話になっていきます。
最後の方では,法律とは強制する内容か (単式),強制と説得を含む内容か (複式),といった話で具体例も挙げられます。

以下,読書時のメモです。

アテナイからの客人「まことに隣接している海というものは,その土地にとって,日々の生活には快適なものであっても,実情は,まったく「塩辛く苦い隣人」なのですからね。というのも海は,その土地を,貿易や小売りのあきないで満たし,ひとの心に,不正直で信頼のおけぬ品性を植えつけ,そのため国民は,お互いの間においても他国の人びとに対しても,ひとしく信頼を欠き,友愛を失ったものとなるからです。」(705A)

第三巻の終わりで「言葉の上で国家を建設する」と言われた流れで,まずどういう場所にその国家が存在するのか,ということが言われます。シムシティの最初に地形を自分を作るようなもので,『国家』よりも『クリティアス』を連想します。
そこでクレイニアスは,海から80スタディオン (14.5キロ),良港に恵まれ,資源にも恵まれ,急峻な地形の土地を想定します。それを受けてアテナイからの客人が言ったのが上記引用です。海の近くでは,どうも外の人間との交わりや交易による金銭のやり取りが多いことにより,品性が下がると考えていたようです。似たような理由で,資源も多すぎない方がよいと言われます。

アテナイからの客人「今度は,代ってあなた方のほうが,当面の立法にさいし,万一にもわたしが,徳を目差さぬものとか,徳の一部だけを目指すようなものを立法することがありはせぬかと,注意深く監視していてほしいのです。というのも,わたしは,次のような法律の制定だけが正しいものだと想定しているのですから。すなわち,なにか立派な結果が不断に付随してくるもの,ただそういうものだけを,ほかのもののなかから,あたかも弓を射る人のようにつねに狙い,それ以外のものは,たとえ富とかそれに類するものがたまたま得られようと,今言われた立派な結果が伴わぬかぎり,そんなものはいっさい無視してしまう,そういう法律なのです。」(705E)

立法というものが,徳の全体に着目してなされるべきである,という考えは第一巻で述べられていました。

アテナイからの客人「その習慣とはたとえば,たびたび船をはなれて打って出ては,再び素早く軍船に退却したり,また敵の攻撃にあったときに踏みとどまってあえて死を選ばないでも,いっこうに恥ずべきことを行なっているとは思わない習慣,いなむしろ,武器を捨てて,彼らの言う,かの「恥ずかしくない逃走」を行なおうとも,もっともらしい言い分けが,即座に生まれてくるような,そういう習慣ですね。」(706C)

海戦では逃走は恥ではない,というような慣習があったことを窺わせます。『楊令伝』で,海戦で船を失って河や海に飛び込んだ兵は敵軍であろうと討たない,という暗黙的なルールが描かれていたことを思い出しました。
さはさりながら,アテナイからの客人は,前に引用したように海の近くに国が位置することの弊害を強調したのと同様,基本的に海戦については見下すようなことを多々述べており,上記の慣習についても感心しないものと述べているし,ホメロスを持ち出して,海戦よりも陸戦の方が誉れ高いということを強調しています(706D)。またサラミスの海戦やアルテミシオンの海戦よりも,マラトンとプラタイアの陸戦の方が,ギリシアを救い立派にしたと言います(707C)。

アテナイからの客人「しかし,それはそれとして,とにかく目下わたしたちが,国土の性質や法律の組み立て方を検討しているのは,国制にそなわる徳を目標としてのことなのです。わたしたちは,世の大多数の人びとのように,ただたんに生きながらえてあることだけが,人間にとって,最も貴いことだとは考えません。むしろ,できるかぎり善き人となり,この世にあるかぎりそのようでありつづけることこそ,最も貴いことと考えています。」(707D)

ここはプラトンらしいですね。『クリトン』の引用が脚注にありましたが,「善く生きる」ということが,この遺作である『法律』で,ソクラテスではなくアテナイからの客人の口から言われることに意味があるという気がします。

アテナイからの客人「では,これにつづく問題をおっしゃってください。あなた方の国に入植するのは,どこの人ですか。」(707E)

土地を決めたら,そこに移住するということになります。この後,移民の種類 (例えば種族 (言語,宗教等) が一つの場合,バラバラの場合など) がいくつか想定されるところがちょっと面白いです。例えば一つの種族の場合は,まとまりはあるが,本国とは異なる新しい法律を受け入れるのは容易ではない。逆にバラバラの場合は,新しい法律を受け入れやすいが,まとまりができるには時間がかかる,など。これは根本的には,第三巻 (681A 辺り) でも話題になった,小さな集団が大きな集団になる時の折り合いの問題とも共通しそうです。

アテナイからの客人「わたしが言おうとしているのは,こういうことです。人間は誰ひとり,何ひとつ立法を行なっているのではない,むしろ,ありとあらゆる偶然や禍が,ありとあらゆる仕かたで起こってきて,それらが,人の世の立法のいっさいを司っているのだ,ということです。」(709A)

立法というのが外的要因によるもの,もっといえば「変化」によるもの,ということでしょうか。
但しこの後では,その偶然や外的要因を認めた上で,その上で真実や技術を身に着けた立法者が必要であると言われます。さらに,そのどうにもならない偶然を自分に有利にするための「祈願」の方法も必要と言われます。まあ偶然をどうにかできると本気でプラトンが考えたとも思えませんが,色んな事象についての原因を変数化して,最善の (利得を最大化する) 方法を追い求めているという印象があります。

クレイニアス「どうやら最善の国家は,僭主制から生じてくるとおっしゃっているようですね。ただし,最優秀の立法者と節度ある僭主とを伴う場合の僭主制ですが。そして,そういう状態から最善の国家への変化は,最も容易に,また最も速やかに行なわれると,おっしゃるのですね。また,つぎに容易な変化は,寡頭制からであり――いやそれともべつのご意見でもおありでしょうか――[さらに第三番目は,民主制からであると]。」
アテナイからの客人「いや,そうではありません。むしろ,その変化のいちばん容易なのは僭主制からで,二番目は,王制の国制から,三番目は,ある種の民主制からなのです。第四番目のもの,つまり寡頭制ですが,これはそうした最善の国家の誕生を,いちばんうけいれにくいでしょう。なぜなら,その国制においては,権力者が最もたくさんいるからです。いいですか,わたしの言わんとするところは,こういうことなのです。最善の国制への変化が実現するのは,真の立法者が自然の恵みによってあらわれて,しかも彼が国家最高の権力者たちとある種の力を共有する場合のことだというのです。そしてその権力者が,僭主制の場合のように,数において最少,力において最大である場合,まさにそのとき,その変化は,通常,速やかにかつ容易に行なわれるものなのです。」(710D)

「最善の国家は僭主制から」というのは,やはり『国家』とはかなり違いますが,実は同じという気もします。王制と僭主制の違いは?という問題もありますが。単純に権力者の力 (の絶対値) と数に着目して,力のベクトルの向きを考えていないところが『国家』との違いかな,と思います。この点は第三巻でも思った点です (693E 近辺)。「絶対値」に着目している限りは,『国家』と変わっていない,という仮説です。次の一節にも当てはまるかもしれません。

アテナイからの客人「つまり,一人の人間において,最大の権力と,思慮や節制の働きとが落ち合って一緒になるとき,そのときこそ,最善の国制と最善の法律の誕生が芽生えてくるのであって,それ以外の方法では,けっして生じてはこないのです。」(712A)

ここは有名な「哲人王」と変わらないですね。理想は不変?
実際,現代でも,民主主義は「一番マシな政体」と言われることはありますが,例えば専制君主がいて,その人の行動の動機が,現代における民主主義政体の一般市民の望み (分かりやすく言えば選挙で勝った政党の公約とか) とたまたま一致するとします。変な利権に満ちたり実は色々と偏りのある国会議員たちを通さずショートカットして実現してくれたら,そっちの方が民主主義を体現しているような気がします。それが完全に夢物語とも言い切れない気もします。ただ真逆になる可能性もあります。『国家』などで思った記憶がありますが,確率的な問題も多分にあるという気もします。

アテナイからの客人「それはね,あなた方,お二人ともがほんとうの意味での国制をもっておられるからですよ。これに対し,今しがたわたしたちの名づけたものは,国制ではありません。むしろ,自分たちのある部分を主人としてその支配をうけ,それに隷属している諸国家の暮し方にすぎません。」(712E)

この前で,クレイニアスとメギロスが,自分たちの国制が,民主制,寡頭制,貴族制,王制,そして僭主制のどれに当たるのか?とアテナイからの客人に聞かれますが,メギロスが色々例を挙げたあげく,はっきりとは限定できない…と答えたのを受けた言葉です。つまり「~制」という区分けは,三角形とか正四面体といったものと同じ空想上あるいは理想的なもので,現実にはそのまんまのものは存在しない,という感じでしょうか。
でも,考えてみれば日本も,天皇制 (=僭主制?王制?) ともいえるし,当然民主制でもありますが,実体は寡頭制・貴族制のようでもあります。ポリモルフィックで,色んな表出のされ方があり,本質は何なのだろう?と思ったりします。

アテナイからの客人「さきほどわたしたちは,共同体建設のことを詳しく語りましたが,その国家よりもなおはるか昔のクロノスの時代に,きわめて幸福な一種の統治,あるいは定住がなされていたと伝えられています。そして今日の国家のいかなるものにせよ,最もすぐれた仕かたで治められているほどのものは,その統治を模倣しているのです。」(713B)

洪水で世界が滅亡して,そこからの話は語られていましたが,それより前にそんな国家があったと。すべての国家はそこを模倣しているというほどの国家について,当然,この後語られます (が短い)。

アテナイからの客人「この物語は,今日もなお真実を保ちながら,こういうことを伝えています。神が,ではなく,誰か死すべきものが支配する国家は,いかなる国家も,不幸や労苦をまぬかれるすべはない,ということです。むしろ,わたしたちは,手段のかぎりをつくして,いわゆるクロノスの時代を模倣すべきであり,そして知性 (ヌゥス) の行なう規制 (ディアノメー) を法律 (ノモス) と名づけて,公的にも私的にも,わたしたちの内部にあって不死につながる [その知性という] ものに服しながら,国家と家をととのえなくてはならないということを,その物語は意味しているのです。」(713E)

クロノスはその国家の支配者として,人間ではなくダイモーンをあてがった,ということが前後で言われます。

アテナイからの客人「というのも,世の人の主張によれば,法律の着目すべき目標は,戦争でもなければ徳の全体でもない。むしろ,現今どんな国制がしかれているにせよ,その国制の支配が永久につづき,破壊されることのないようにと,その国制にとっての利益に,目を向けねばならないというのです。」(714B)

日本の「行政」というものを仮定すれば,まさしくその通りだなとふと思いました (現代と違って三権分立なんて当然ないと思われるので比較はできませんが)。しかし「立法」がその国の体制を維持することが目的になってしまうと,不幸なことが起こるという気もします。しかし次のも含めて,どうもリアリティを感じるところです。

アテナイからの客人「また,自然にかなった「正義」の定義としては,次のように言われるのがいちばんよい,というのです。」
クレイニアス「どのようにですか。」
アテナイからの客人「「正義」とは,強者の利益である,というように。」
クレイニアス「もうすこしはっきりおっしゃってください。」
アテナイからの客人「こう言えばよいでしょう。国家においてはいつでも,かならずや勝者が法律を制定するのだと,彼らは主張するのです。それとも,そうではないでしょうか。」
クレイニアス「お言葉のとおりですね。」
アテナイからの客人「そこで,彼らはこう主張するのです。民衆が――いや,これは何か他の国制でも,あるいは僭主でもいいのですが――勝利をおさめた上で法律を制定する場合,その支配権が持続するようにという自分自身の利益以外に,彼らがみずからすすんで第一番の目標と定めるものが,なにかほかにあると思うか,と。」
クレイニアス「どうしてそんなものがあると思われましょうか。」
アテナイからの客人「したがってまた,その制定されたことを誰か犯すような者がでてくると,制定者は,その制定されたことを「正義」と名づけ,その者を,不正を犯すものとして,懲らしめるのではありませんか。」(714C)

一旦権力を握った支配者が,その権力を持続させることを目的化し,「正義」となしてしまう…。これは非常にありそうなことですが,自分のようなサラリーマンも無縁ではないという気もします。日々働いて給料を貰っているという現状維持のため,会社を絶対視して,会社のためと思いこんで不法や不正を働く,ということも,ありそうな話です。支配者といえども,近視眼的には同じような心持ちに反射的になりがちなのかもしれません。それが積み重なって「正義とは強者の利益」となると考えると,多少は同情的にもなります。
それにしても,「正義とは強者の利益」論については『国家』第一巻でのトラシュマコスの激しい言説を思い出すところです。ただここでは,体制の維持を「正義」と結びつけているのがちょっと印象的なところです。

アテナイからの客人「しかし,わたしたちは今こう主張します。そのようなものはもとより国制ではないし,また,国家全体の公共のためを目的として制定されていないような法律は,まことの法律ではない,と。さらに法律が,一部の人のために制定されるような場合,そうした一部の人は,党派者ではあっても市民ではなく,また,彼らが言うところの,それら法律の正しさなるものは,空しい言葉にすぎないとも,主張します。」(715B)

アテナイからの客人は,まるでソクラテスが乗り移ったかのように決然と言います。力を持っていたとしても,その力を国家全体のために使うために法律を制定するべきであると。
このあと支配者は「法律の従僕」という話もあります。国家における憲法とは,権力を縛るためのものである,という現代でいう「立憲主義」を連想する下りです。

アテナイからの客人「「さて,われわれ人間にとっては,万物の尺度は,なににもまして神であり,その方が,人びとの言うように,誰か人間が尺度であるとするよりも,はるかに妥当なことなのである。」」(716C)

植民者たちに呼びかける,という形になっているので,かぎかっこを二重にしています。
「万物の尺度は,なににもまして神」という箇所は,全集の傍注に「『法律』全巻の根本となる,最も重要な命題」と書いてありました。直接的には首をかしげたくなる部分でもありますが,完全な「神」を措定することで,人間の不完全さを常に前提として立てる,ということなら分かる気もします。
この後,神々に気に入られるような条件が語られます。神々に犠牲や祈りをささげることも当然言われますが,両親への敬いということも,やや意外ながら?重く語られます (意外というのは,「孝」という儒教的な観念を連想する一方,無条件に親や年長者を敬えということはあまりプラトンは書いていなかったと思うので)。『エウテュプロン』で,殺人で親を訴えようとしたエウテュプロンをソクラテスがたしなめる場面をちょっと思い出しました。

アテナイからの客人「「しかし立法者には,法律のなかで,こうしたこと,つまり,一つのことがらについて二つの説をなすということは,許されてはいない。立法者は,一つのことがらにはいつも一つの説を,明らかにしなくてはならない。」」(719D)

アテナイからの客人「「だが,あなたの方は,適度を口にするとき,今しがたのような話し方で,言うべきではない。むしろ,適度とはどういうものなのか,どれだけの量なのか,ということを言わなくてはならない。さもなければ,そうした説は,まだ法律とされてはならないと考えてもらいたい。」」(719E)

ここは詩人 (に成り代わったアテナイからの客人) が立法者に問いかける,という場面なのでかぎかっこを二重にしています。
この前で,詩人は「湧き起こってくる思いを泉のように流れるにまかせている」ため,真実を知らずにいる,ということが言われます。やはり詩人に対しては厳しいですね。しかしその反撃として,では逆に一つに定まるような説を表すための「適度」というものはどういうものか?ということを問いかけます。
「適度」とはどういうものか,というのは第三巻でも,民主主義と君主主義の適度な混合がよいと言われていましたが,妥協という印象はありました。でも「適度」とは何か?が分かればそこは解決するかもしれません。

アテナイからの客人「世の中には,医者もいれば,医者の助手もいます。しかしその後者をも,わたしたちはむろん医者と呼ぶでしょう。」
クレイニアス「もちろんです。」
アテナイからの客人「つまり後者は,自由民であろうと奴隷の身であろうと,医者と呼ばれるわけです。しかし[奴隷の医者 (助手) の方は],主人の指示,観察,経験にもとづいて,その技術を身につけているのであっても,自由民がみずから学ぶときや,自分の弟子たちに教えるときのように,ものごとの本来のあり方に則ってするのではありません。いわゆる医者と呼ばれている者に,以上の二種類があることを,あなたは認めますか。」(720A)

自由民的な医者と,僭主的な (奴隷出身の) 医者という対照が語られます。この後で具体的に説明がされますが,説明もせず横柄な態度で診て処置を施す僭主制的な医者と,よく説明し同意の上で治療を行なう自由民的な医者という感じで語られます。これはすぐ後の「説得」と「強制」(または「威嚇」)の伏線になっています。

アテナイからの客人「よりすぐれた医者なら,これらのどちらの方法で治療を行なうでしょうか。またよりすぐれた体育教師なら,どちらの方法でその訓練を行なうでしょうか。両様の方法を使いながら,一つの医療の効果をあげるのでしょうか。それとも,どちらか一つの方法,しかも二つのうちのより劣った方法で,病人の気持を扱いにくくしながら,行なうのでしょうか。」
クレイニアス「それはあなた,複式の方法を用いる方が,はるかにすぐれているでしょう。」
アテナイからの客人「では,もしよろしければ,その複式のやり方と単式のやり方を,立法の場に適用してみて,それぞれを考察してみようではありませんか。」(720E)

ということで,前述の医者の例だとどちらが優れているか?という話になります。アテナイからの客人が,「両方か,それともより劣った方か」と問うのもちょっと変わっていますが…(より優れた方,というのがない)。
また突然「複式」「単式」という言葉が出てきます。簿記か?と思いました。
この後で,結婚に関する法律の単式と複式の例が語られます (この内容もぶっとんでいるのですが)。複式というのは,「こういう理由なので,こういう内容を守らないと,こういう罰を科す」という説得と威嚇 (強制) の両方が書かれ,単式は,「こういう内容を守らないと,こういう罰を科す」という威嚇 (強制) のみが書かれている,ということのようです。

アテナイからの客人「こうした事情があるにもかかわらず,立法者の誰ひとりとして,いまだかつて心にとめていないと思われる事実があります。立法のためには,説得と共生という二つの方法を,たとえ教養のない大衆を相手にする場合に許される範囲内にせよ,その二つの方法を用いることができるにもかかわらず,一方の方法しか用いていない,という事実です。つまり彼らは,説得の上に強制を混ぜながら立法しているのではなく,ただひたすら強制だけにうったえて,立法しているのですからね。」(722B)

単純に考えて,法律に,なぜそういう法律を作ったのか,なぜ違反すると罰を与えるのか,と付記する (かつ公開される) ことは,後になってその法律の妥当性を検証する際に有用になると思います。法律が時代に合わなくなる,というのはよくありますからね。
悲しいかな,私は法律というものを読んだことが殆どないので,現代の日本における法律が,ここで言う「説得と強制」両方を含むのか,「強制」だけなのか,というのを知りません (この後でも語られるような,前文・序文というものがあって,そこに「説得」の内容が書かれているのが一般的かな?と想像していますが)。
反対に,「強制」しか書かれない法律というのを想像すると,「民は由らしむべし,知らしむべからず」という『論語』の (誤った解釈の?) 一説を思い出しました。当時はみなそうだったとありますが,近代までそういう意識が普通だった,というのは歴史を少し考えれば納得できます。
その意味では,(法律に限らないとも語られているのを含めて) こんな昔からそれを指摘していたプラトンの慧眼は,さすがだと思います。

アテナイからの客人「つぎにわたしが言いたいと思っていることは,何だとお考えになりますか。それはこういうことです。立法者たる者は,いっさいの法律に対して,つねにそれを序文抜きのものにすべきでないのはもとより,個々の条項の場合においても,そうしてはならない,ということです。というのも,そうすることによって,ちょうど先刻 [一例として] 話された二つの法律の相互の間に優劣が見られたように,それと同じだけの優劣が,両者の間で見られることになるでしょうから。」(723B)

法律には序文が必要であり,それは「説得」的なものという位置づけが語られます。かつ,序文にとどまらず,個々の条項についてもそうあるべきと言われます。
ソフトウェア開発の世界の話ですが,ふと Knuth の「文芸的プログラミング」というものを思い出しました。私も昔の本で言及されているのを読んだだけで詳しくは知らないのですが,それはソースコードの1行1行に対応するドキュメントが常にあるようにし,同時に更新していく,というものだったと思います。現実には,なぜそうなっているかというドキュメント (ソースコードのコメント含む) の重要性はよく言われますが,文芸的プログラミング自体はいささか過激で,実際には行なわれていないと思います。他の例で言うと,料理のレシピのそれぞれの手順に,なぜこの材料を使い,分量はこれくらいなのか?ということを常に一緒に書くみたいなものでしょうか。
ここで言われている,常に「説得」を併記するという話は,いわば「思考 (意思決定) プロセスの見える化」にもつながってくる話なのかなと思います。一般論としては程度問題だろうと思われ,法律の各条文がこうあるべきか?は分かりませんし,実際そうなっていないと思います。でも本当はそうあるべきかもしれない,とも思います。プラトン流の「理想」と考えればよいのでしょうか。

クレイニアス「あなたのおっしゃるとおりだと思われます。しかし,それはそれとして,あなた,わたしたちはもうこれ以上,ぐずぐずしながら時を費やさないようにしましょう。むしろもう一度本論に立ちもどって,あなたさえよろしければ,さきほどあなたが,序文としての建前をもってではなしに話しておられたあの箇所から,はじめましょう。」(723D)

アテナイからの客人「すると,神々や神々のあとにつづく者たち,および,存命中の,あるいは他界した親たち,それらに関しては,今も言うように,あのとき充分にわたしたちはその序文をつけたというわけですね。そこであなたは,この序文のうちでなお言い残されているものを,いわば明るみに出すように,命じておられるものと見うけられます。」
クレイニアス「まったくそのとおりです。」
アテナイからの客人「わかりました。では,それらにつづく問題は,自分自身の魂や身体や財産に関し,それに払うべき努力,また控えるべき努力の限度はどのようであるべきか,ということです。」(724A)

ということで,また退屈な話に戻るようです(汗)。本対話篇は「3歩進んで2歩下がる」ということを延々とやっている感じですね。

第四巻メモは以上。
法律というものが,(1)単に「強制」のための内容なのか,それとも (2)「強制」と「説得」を含む内容なのか,というのは興味深い話でした。法律を,単に執行されるものだと考えると (1) でも違和感が少ないのかもしれませんが,自分が立法に関わりかつ執行もされる,というケースを考えると (2) のようになっているべきだ,と思う気がします。日本の民主主義は,本来,選挙権のある全国民が立法に関わっていることになるはずなので,(2) であるべきでしょうか。それとも,殆どの法律が官僚によって作られる現実に即すと,(1) でもいいのでしょうか。
また,では今の日本の法律はどちら側なのか?と思った時,自分が法律というものを殆ど読んだことがないことに気づきました。実際に読んでみて,ここで言われているようなことが当てはまるのかどうか?ということを確かめないといけませんね。

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