プラトン『法律』第八巻メモ

プラトン『法律』(プラトン全集 (岩波) 第13巻) 第八巻を読んだときのメモです。

なかなか掴みどころのない『法律』篇ですが,本巻もそんな流れの中で,祭礼や体育競技,軍事訓練などについての話題から始まります。
途中では愛,同性愛,近親愛みたいな内容になって少し引き込まれます。そういったものが法律とどう関わってくるのか,というのは少し考えさせられるところですが,どういう法律にするか,というよりも技術的 (?) な部分が結構印象に残る部分です。
終盤では土地の境界とか,水とか,果実を勝手に取った場合にどう処罰されるのかとか,ある種牧歌的で退屈な話題で終わります。

ここでは章ごとにメモを書いています。本文を引用せずに自分で要約しただけのものもあります。

(第1章)

アテナイからの客人「つぎにすることは,デルポイの神託の助けを借りて,さまざまの祭礼を定め,それを立法化すること,つまり,どんな犠牲を,どの神に捧げるのが,国家にとってすぐれた,幸いなことであるかをきめることです。」(828A)

冒頭の言葉。祭礼に関する話が展開されます。12柱の神々に対して,12の祭礼を設け,それぞれの季節にふさわしいものにする,等々。
また同時に,戦闘の訓練についても話題にされ,そこで賞讃や非難に使われる詩歌は国家において尊敬されている人でないと作ってはならない,そして「何ぴとも,無許可の音楽作品を,たとえそれがタミュラスやオルペウスの賛歌より甘美であっても,敢えて歌うことは許されません。」(829D) といったことも言われます。
第7巻で言われていた,歌や踊りは国家が認可したものしか許されない,というものの延長線という感じでしょうか。

(第2章)
戦闘の訓練についての話題が続いています。

アテナイからの客人「「ではどうだろう,もしかりに,ボクシングやパンクラティオンや,何か別のそのような競技の競技者たちを養成している場合であれば,あらかじめ毎日練習試合をすることなしに,本番に臨んだであろうか。いや,もしわれわれがボクサーであるとすれば,試合の前に何日も何日も戦いの仕かたを学び,練習を重ねるのではないだろうか,いざ勝利を争って戦うその時に,用いるつもりのあらゆる技を試してみながら。そして,できるだけ本番に近いようにして,打撃を加えたり,打撃を防いだりすることを,できるかぎり充分に練習するために,ボクシングの競技用グローヴの代りに練習用グローヴを手にはめるのではないだろうか。」」(830A)

立法者が自問自答するという形で言われるので括弧を二重にしています。
この自問自答はまだ続き,軍事についても,小規模な訓練は毎日行いつつ,より実戦に近い模擬戦を毎月1回行うべきと言われます。
結構面白いと思ったところで,当たり前といえば当たり前のことが言われているとも言えますが,例えば災害対策とか現在のようなパンデミック対策のようなものでもそうあるべきなのでしょう。

(第3章)
しかしそういう実戦訓練は現在の国々では全然行われていない,とも言われます。その原因は2つあると言われ,1つは,富への執着であるということが言われます。
そして,幾分かの逡巡を感じさせながら,もう1つが語られるのが次です。

アテナイからの客人「これまでの議論でたびたび語ってきた似而非国制,つまり民主制,寡頭制,僭主制が,原因だとわたしは主張します。じっさい,これらのどれも真の意味の国制ではなく,すべては,派閥制とでも呼ぶのが最も正しいでしょう。というのは,どれも支配するものとされるものとの合意の上に立つのではなく,支配することを欲するものが,支配されることを欲しない者を,つねに何らかの力によって支配するのですが,支配者は被支配者を恐れて,被支配者が,立派に,豊かに,強く,勇敢になることを,そして何よりも戦闘的になることを,自分からはけっして許そうとはしないからです。さて以上の2つが,ほとんどすべての悪の重要な原因であり,とくにわたしたちがいま問題にしているこれらの悪のまさに重要な原因なのです。」(832C)

これはかなり強いことが言われていると思います。民主制も寡頭制も僭主制も,実態は「派閥制」であると。全てを否定しては,そもそも国制についての議論が成り立たない気もしますが,これは『国家』篇の理想を描いた後で,色んな困難を体験してきたプラトンが現実を喝破したものなのでしょう。そして支配者が,(支配されることを欲しない) 被支配者が豊かになることを恐れた,というのも,現代でもかなりリアリティを持った説だと思えます。国家での支配ー被支配の関係ではありませんが,資本主義下の格差を考えた場合などには,低賃金で働いている人がいて,マージンで儲けている人がいて成り立っているところがあり,富裕層の本音として潜んでいるかもしれません。

支配者が被支配者を恐れる,というのは,似たような話は,『国家』篇で民主制が僭主制に移り変わる話の中でも出てきたように思いますが,ここでは (現実の) 寡頭制や民主制であっても,被支配者を恐れると言われます。もしそういうものがあれば,例えば民主制であれば,全市民が自分以外の全市民の豊かさを恐れる,ということになり,誰も他社の幸福を願わない,ということになります。もはや既存の国制が解決できる問題ではない,とも思えます。

続きます。

アテナイからの客人「しかしわたしたちがその法律を制定しつつある目下の国制は,わたしたちが述べている悪を2つとも免れているのです。たしかに,わたしたちの国家は,最大の余暇を享受し,市民は相互に自由であり,その法律の結果として,思うに,彼らは金銭欲に取りつかれることが最も少ないでしょう。」(832D)

ここで語られている,クレイニアスの国では,自由で金銭への執着がないので大丈夫だろうと。
現代の議論でいえば,ベーシックインカムみたいなものを想像します。確かに生活に必要なお金のことを考えなくてよいというのは,お金それ自体と同じくらい,精神的な負担・疲弊が減るという気がします。考えてみれば,日々の労働というのは,人の悪意にさらされる可能性が信じられないくらい多いと思います (そうでない人もいるのでしょうが)。金銭への執着がそれらの悪意を全て説明可能にするとも思えませんが,大部分は元をたどるとそうという気もします。

(第4章)
体育競技について,どんなものを取り入れるように法律を定めるべきかということが語られます。
色々言われますが,一貫しているのは,戦争に役に立つものであるべきだ,ということに尽き,そのための武器・武具を着用して行えということのようです。
例えば競走については短距離や中距離や長距離などのいずれも,重装備をつけて走らなければならないと言われます。同様に,力の競技 (レスリングやパンクラティオン) に該当するものも重装備をしたり軽装歩兵の武器による試合をするとか,乗馬についても騎兵のように武装を行うべきと言われます。

(第5章)
吟誦詩人や祭礼の際の歌舞団の競演について前半に語られますが,後半は「少なからず重大な事柄で,それを人びとに納得させることが困難なことがあります。
それはまさに神さまのお仕事なのです」(835B) と言われる問題があると言われます。それが以下です。

アテナイからの客人「では,そのような国家で,多くの人びとをしばしば極端に走らせるもろもろの欲望,理性が法律の形を取ろうとするとき,それから遠ざかるようにと命じる欲望から,いったいどんな仕かたで遠ざかることができるのでしょうか。そしてそれらの欲望の多くを,すでに定められた諸規則が抑制するとしても,それは何も不思議ではありません。」(835E)
アテナイからの客人「しかし,少年少女のあいだの,および成人した男女のあいだの愛,そこから個人にとっても,国家にとっても,数え切れないほどの出来事が起こってきたのですが,それに対しては,どのような用心をしたらよいのでしょうか。また,どんな草を刻んで薬をつくりだし,各人にこのような危険から逃れる道を見つけてやれるのでしょうか。それはまったく容易ならぬことです,クレイニアス。」(836A)

端的に言えば,「愛」というものを国家はどう扱えばよいのか?ということでしょうか。随分と法律っぽくない話という気もしますが,考えてみれば,今でいえば内心の自由をも侵害するようなことはこれまでも度々言われてきました。

アテナイからの客人「もしひとが自然の本性に従って,ライオス以前の法律を制定しようとし,女性に対するのと同じように,男性の若者たちと愛の交わりをともにするのは正しくないことであると言い,動物の習性を引き合いに出して,それが自然に反することであるがゆえに,そのような目的をもって雄が雄に触れることはないのだと指摘するならば,たぶん彼の用いる論証は [一般的には] 説得力を持つでしょうが,あなた方のお国では,けっして賛同されないでしょう。」(836C)

男性の同性愛については,反対ではないと言っているようです。これはちょっと意外ではあります。というのはこれまで結婚や子育て,教育というものが,国家の繁栄のためになされるべきもの,というような流れでずっと来ていたように思うためです。であれば,現代における各国の右派勢力のように,同性愛には反対しそうなものですが。
他方で,この時代は少年愛のようなものは普通に行われていたはずなので,経験的に悪いものではないと考えていたのかもしれません。
この話題はこのあと結構続きます。

(第6章)

アテナイからの客人「肉体に愛着し,熟れた果実に飢えるように,青春の華に飢える者は,それを満喫することを自分自身に勧め,愛されるものの心のあり方など見向きもしません。しかし肉体的欲望を二義的なものとし,相手を欲するよりもむしろ観る者,魂をもって真に魂を欲する者は,肉体が肉体に堪能することを非行であると考え,そして節制,勇気,度量,知恵を尊び敬って,清らかな恋人とともにつねに清らかな交わりを持つことを願うでしょう。しかしこれら両者の混合である愛,それはわたしたちがさきほど第三の愛として述べたものです。」(837B)

友愛の3つの種類などは省略しましたが,「肉体より魂」というところは何となくプラトンらしいところです。

この後,なぜ近親相姦は法律を無視するような人でも回避されるのか,というような生々しい話もされます。生々しいので引用は控えましたが,その理由は,喜劇や悲劇などを通じて,不敬虔で恥ずべきことであるという世論?ができているからだ,というようなことがメギロスとともに語られます。そして,この世論操作が法律制定の基礎として使える,ということが考えられていたようです。何となく現代のメディアや SNS を使った世論形成みたいなことを連想します。
実際のところ,ここで言われているようなことの抑止力は,生物学的な何かがあるのではないのか?と自分は何となく思っていました。それを踏まえても,正しいか正しくないかは別にして,何か理由を説明されれば,それがパズルのピースのようにはまると感じられて,信じてしまう,というところが人間にはあると思います (Belief echos というものが結構近いでしょうか)。ここでの世論形成みたいなものが説得に有用,ということは言えるのでしょう。

(第7章)

アテナイからの客人「しかし,もし誰か精力絶倫の血気さかんな若者がわたしたちの傍に立って,この法律が制定されるのを聞くならば,おそらく彼は,馬鹿げた,できもしない規則をきめるといって嘲り,あたり一面をそのわめき声で一杯にすることでしょう。(中略) つまり,それが可能であるということ,およびいかにしたら可能であるかということを知るのは,いともたやすいことです。(中略) しかし事態は今日,それが実現可能であるとは思われないところに来ているのです。それはちょうど,共同食事の制度が可能であるとは,つまり,国全体が永続的にそれを実行することができるとは考えられないのと同様です。」(839B)

前の章の続きで,親族間での交わりを禁止するための「仕組み」のようなものが,他の事柄に利用できれば,法律を守らせる強力な力になるだろうということがまず言われます。しかし,それは (理論上は?) 可能でも,それが実現可能と思われていないものは,法律として確立するのは困難だと言われます。
人の心に「傾き」のようなものがあり,それに沿った規則であれば守られやすいが,それに逆らった規則であれば守られにくい,というのはあり,一方でそれを克服するのが理性である,とも思えます。あまり理性に期待して法律を作るべきではない,ということになるでしょうか。

アテナイからの客人「わたしたちは誰でも,タラスのイッコスがオリュンピアの競技や,その他の競技のために,どんなふうにしたかを話に聞いて知っていますね。彼はそれらの競技に勝利を得ることを切望し,また専門的知識をわきまえ,節度ある剛毅な性格の持ち主であったので,聞くところによると,鍛錬の最中はけっして女にも少年にも触れなかったと言います。また,クリソンやアステュロスやディオポンポスやその他多くの人びとについても,同じことが言われています。」(839E)

身体が健康で,何かの競技のための鍛錬を積むことが,快楽に勝利し,遠ざかることになると言われます。
何か身体を動かして打ち込むことがあれば邪念が遠ざかる,というのは実感として分かります。

(第8章)

アテナイからの客人「そして,あの性格的に堕落してしまった人びと,それを一つの種族として,「自分自身に負けた者」とわたしたちは呼ぶのですが,彼らを三種類の力が取り囲んで,法律に違反しないように強制するでしょう。」
クレイニアス「どんな種類の力ですか。」
アテナイからの客人「神に対する畏怖の念,名誉を重んじること,身体ではなく魂の美しいあり方を欲すること,この三つです。いま言われたこれらのことは,おそらく夢物語での祈りに過ぎませんが,もしそれが実現されれば,すべての国家にとって,この上ない善きものとなるでしょう。」(841B)

性の問題について話題が続きますが,その中で言われる一節です (提示される法律案自体は常識的で,どうということもありません)。

法律というのは器であって,本来はそれを守らせるべき民こそが,国家の本体である,ということはプラトンも考えていたのだろうと思います。なので法律を作るだけではなくて,いかにその法律が守られるようになるか,ということにも腐心していたことが十分に感じられます。

または,法律というのは理想であって,それを守らせることによって「魂の美しいあり方」が追求されるような法律こそが優れたものだ,という逆説的な見方もできるのかもしれません。いずれにしてもこの周辺では,法律を定めてそれを上から目線で守らせればよい,という単純な考え方ではないということがよく感じられます。

(第9章)
共同食事についてまた言及があり,その食料の調達のために,農夫や牧羊者,養蜂業者などのための法律が必要ということが言われます。その中で,土地の境界を変えてはならない,ということが割と強調されます。

アテナイからの客人「これらの事柄については,多くの立法者たちによってすでに充分に語られており,わたしたちは彼らの法律を利用すればよいのであって,わたしたちの国の偉大な建設者に,普通の立法者でも扱えるような多くの細々した事柄まで,すべてを立法するように要求する必要はありません。たとえば農業用水については,古くからの立派な法律が定められていて,それをわざわざ,わたしたちの議論の中に引きいれる必要はないのです。」(843E)

既に優れた法律があるものは,それを流用して使えばよいと。
関係ありませんが,現代でも法律の著作権とか特許みたいなものはあるのだろうか?とふと思いました。まあないのだろうとは思いますが,もし法律によって国家が定まるのなら,優れた国家の法律を模倣すれば優れた国家が作れることになるので,最初にその法律を作った国家が独創性を主張したり,または別の国家が勝手にその法律を用いることで相対的に自国が利益を得られなくなるため,法律のライセンス料を徴収しようとしたりするという発想もあり得るかもしれない,とちょっと思いました。ただその場合,著作権法や特許法自体もまた法律なので,著作権法の著作権は何に守られるのだろう?と思ったりもします(笑)。まあなので著作権法に著作権はないのでしょうけど…。

(第10章)
果実についての法律案。上等な葡萄・無花果は,自分のところから収穫するのはよいが,他人の木から許可なく取った場合には罰を受ける…というようなことが言われます。
ただ,外国人の場合はもてなしの印として取ってもよいとか,梨,林檎,ざくろなどは (外国人でなくても) こっそり取ってその場で食べてもよいとか,30歳未満はその場合も鞭を打ってやめさせるとか,正直奇妙な法律案です。ある意味では当時の慣習が分かる部分かもしれません。

(第11章)
前半は,誰かが所有権を持つ水に損害を与えた場合の罰,また収穫物を搬入する際に誰か (の財産) に損害を与えた場合の賠償について言われます。
そして,ふと以下のようなことが言われます。

アテナイからの客人「刑がそれに従ってきめられる,これらの無数の細々した諸規則,訴状の提出,被告の召喚,証人――その数を二人にすべきか,それとも何人にすべきか――,すべてこのような事柄については,法律に定めないでおくわけにはゆきませんが,それはまた老齢の立法者の仕事に値するほどのものでもありません。ですから,それらは若い立法者たちが,先人の法律を手本にして,彼らの大きな規則に則って,自分たちの細々した規則をつくるべきです。そしてそれらを必要に応じて実験的に用いてみて,このようにしてすべての法律が充分に整ったとみなされるまで,彼らは努力すべきです。そして充分に整ったならば,それらの法律を不動のものとし,もはや正しい形をとったものとして,それを用いて生活しなければなりません。」(846B)

常識的なことを言っているように思えますが,「先人の法律を手本にして」作るべき「細々した規則」,というのとそうでないものとの境目というのはどこにあるのだろう?とも思えます。その部分にこそ,国家の根幹がある,という気もします。だからこそ「老齢の立法者」の仕事なのでしょう。

アテナイからの客人「さて,職人一般については,次のようにすべきです。第一に,市民は誰ひとりとして,職人の仕事に従事してはなりません。市民の家僕も同様です。なぜなら,市民たるものは国家公共の秩序を確保し維持するという,充分な仕事を持っており,それは多くの訓練と,同時に多くの勉学を必要とし,片手間に行なうことを許さないものだからです。二つの仕事なり,二つの職業なりを,徹底的に遂行することは,ほとんどの人間の能力を超えたものであり,さらに自分が一つの職業に従事し,他人が別の職業にあるのを監督することは,力にあまることなのです。」(846D)

後半に言われている部分については,そう思うこともあり,もしそう決められていたらと若干羨ましさを覚えたところです。
日本の会社では,上司からの無茶振りなどで,自分の専門にないことをやらされがちで,それは必然的に質の低下を招きやすいところです。
または最後に言われていることの実例として,管理業務と開発業務を一緒にやらされたりします。もしここで言われているような考え方が浸透していれば,そういう無茶振りをされても “That’s none of my business.” と毅然と言うこともできるのでしょう。

それはともかく,最初に「市民は職人の仕事に従事してはなりません」と言われ,また市民の仕事は「国家公共の秩序を確保し維持する」と言われますが,この市民は公務員のことではないかと連想します。公務員じゃなくて本当の意味で市民なら,じゃあ職人は市民ではない,ではなんなのか?ということにもなります。『国家』篇その他,職人というのはしばしば登場してきましたが,身分が市民と違うのかどうなのか?ということはあんまり考えてはこなかったと思いました。

(第12章)
収穫物の供給と分配について言われます。特にメモはありません。

(第13章)
市場で売られる商品について,また売られ方について。それと外国人の居住について。特にメモはありません。

メモは以上。
一番印象に残ったのは,6章~7章あたりの愛や性の話題で (生々しくて印象に残りやすいというのもある),特に近親を性の対象としないということが心に起こらないのは何故か,という理由を考察し,悲喜劇などによる世論の形成に帰した上で (それ自体は若干違和感もありますが),逆にそれを,人の欲望を制御するための仕組みとして使えるのではということに敷衍した場面です。実はこれは,広告などの手段で現代に実現されているとも思えます。特にネット時代の今,Cookie を使ったトラッキングや SNS などで,広告のターゲットが絞りやすいので,神話や悲喜劇に頼るしかなかった当時よりも効率的なのでしょう。
その前には,戦闘訓練の話題の中で,既存の国制を「派閥制」とこき下ろして,支配者が被支配者を恐れるがために,被支配者が裕福や勇敢になるのを許さない,という部分もありました。この辺り,建前ではなく本音というか現実ではそういうふうに考える人や時がある,ということを経験からプラトンは思い知っていたのかもしれません。
後半の方は,「こまごまとした事柄まで新たに立法する必要はない,すでに他の国家の優れた法律が存在するのだから」というようなことが言われている部分もありますが (843E),それにしても細かい話が続いて退屈ではありました。果実の収穫や水,農産物,市場といったものについての取り決めの話題で,殆どメモに残さなかったのですが,外国人については法律の内容が分かれるものが結構あるというのが印象に残りました。

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